十四頁 羊 壱 『十六文字羊子』

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十四頁 羊 壱 『十六文字羊子』

十四頁   羊 壱   『十六文字羊子』    わたくしは、自分の夢の為であれば、どんな努力も惜しみません。  我が怠惰の為に、幼い頃からの夢を頓挫させたくない。だから、実戦に実戦を重ねて、己の術を昇華させていきたいと思っているのです。  でも、前の学校では流石にやり過ぎてしまいました。  学級を崩壊させる寸前まで壊してしまい、このままでは良くないと思い、この学校に転校する事になったのです。  この学校では、出来るだけ悟られない様にして生活していかないと、わたくしが、催眠術師だということを。  ホームルームで紹介される事になり、担任の猪本という男に連れられて、教室までの廊下を歩いていました。 「えーと、十文字さんでしたっけ? これからあなたの教室に行くので自己紹介して下さい。内容はお任せします」  あーあ、駄目ですねこの人。まず、名前がろくもんじ足りていない! そして、もっとクラスの雰囲気などを教えておきなさい! それによってわたくしの出方も変わるというものでしょう?  この人に主導権を渡しておけませんね。  仕様がないので、前を歩く猪本教諭の右肩をポンポンと叩いて、振り向いたその眼前に人差し指を立て、「チックッタックチックッタック」と言いながら人差し指を左右に倒しながら予備催眠に掛けたのでした。 「わたくしは、十六文字羊子です。そして、そうだな、あなたの好きな人だと思って、わたくしをクラスの人気者にするくらいの気概で、クラスのみなさんにわたくしを紹介しなさい」 「あっ、はぁぁあ、かしこまりました」  容易い事なんです。ハズレの担任を引いたとしても、わたくしは、催眠術でアタリに変える事が出来ます。人の心を操れるというのは、そういう事なんですね。  教室の扉を開けて、猪本教諭は教壇に上がりました。わたくしを横に来る様に促して、彼の思った場所まで着くと、ニッコリと、気味の悪い笑顔を寄越してくれました。  すると、生徒達へ向けて、彼は大声で言い放ったのです。 「僕は! 十六文字羊子さんを、愛しています!」  はっ? 「結婚を前提に考えております! 何者にも、何者にも邪魔はさせない!」  アァァァァァァァァア! た、確かに、わたくしの催眠術が不完全な事は分かっています。でも、こんなにも悪い方向に左右するものなんですか? 「いや! わたくしは、この男とは初対面で、ほんとに……本当に! 何を言っているのやら!」  めちゃくちゃざわざわし始めている。未熟なせいで、掛かり具合の強弱を調整出来ないんですよ! 「わーい、わーい、人を、人を初めて好きになれたー! わーい、わーい」  なんなんですか? この人、子どもの様にはしゃぎ始めたんですけど?  仕様が無いので、手を叩き、催眠を解いてあげた。 「えー、えーと、どこまで話したのかな? 取り敢えず、みんな仲良くする様に」  覚えて無いパターンですね。  催眠術に掛かっていても、その出来事を覚えている人と覚えていない人が居る。猪本教諭は後者のパターンの様でした。 「あっ、みなさん、十六文字羊子と申します。よ、よろしくお願いします」  何とか繕えたのか? 教室内は静寂に包まれております。 「いつ結婚するんですかー?」  まあ無理でしたね? あのインパクトを流せる訳ありませんね。 「猫宮! 何をふざけた事を言っている? お前はいつもいつも、どうかしているぞ」  あの子は、いつもいつも、どうかしているんですね? 「へっ! 猫はおかしな事言って無いんだよ。先生が十文字さんを愛してるとか言ったのが事の始まりなんだよ」  あなたも、ろくもんじ足りていませんよ? 「またお前はふざけた事ばかり言って、こっちへ来なさい!」  猫宮さんがこちらに呼ばれてしまいました。まずいですね。このままでは意見が食い違ってしまいます。  彼女がここに来るまでに、猪本教諭をまた催眠に掛けておきましょう。こういう場合は、先程までの暗示に戻すのが手っ取り早いですね。  猪本教諭の肩を叩き、振り向いた眼前に人差し指を立て、今度は、「タックッチックタックッチック」と呟き、時間を戻してあげました。  すると、何を思ったのか、わたくしの人差し指を立てた手を掴んで、恋人繋ぎの様なものをして、優しい笑顔を向けて来ました。気持ちが悪いので、爪を立てて、その手の甲に力いっぱいめり込ませました。  悲痛に歪む筈の顔は悦を含ませ、口の端から涎を一筋垂らしたのでした。 「へっ? 何してるの?」  猫宮さんが到着されました。 「ねこみやぁ? 好きな人が居るってねぇ? 心がとても豊かになってねぇ? 今まで見て来た世界が全部変わっちゃう様な事なんだよぉ?」  さぁてと……どう切り抜けましょうか。 「先生さっき、猫がふざけた事言ったとかって怒ってたのに、どうしちゃったの……?」  いつもいつも、どうかしている筈の猫宮さんにまで引かれてしまいましたよぉ? そして、さっきまでざわついていた教室は静まり返りました! そうなんですねぇ。集団って、本当に引いた時は団結して押し黙ってしまうんですねぇ。  それでもまだわたくしは、悪足掻きを続けてみようと思っています。 「きっと、猪本先生の冗談なのではないですか? 普段もこうやって、ふざけて皆さんを和ませているのですか?」  そういうタイプの先生である事を祈るばかりです。 「猫の知る限り、先生な根暗で、コミュ症で、そんな笑えない事をする様な人じゃ無いんだよ」  でしょうね! わたくし自身が、頼り無いので催眠に掛けたのだから、本当は始めから気付いていた筈なんです。 「ぼぉーくはね? よぉうこちゃんのこっとがね? 好っきすっきすっきすっきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきぃぃぃぃぃぃい!」  この人めちゃくちゃ気持ち悪いんですけど! わたくしのせいだとは分かっているんですけども、催眠に掛かっている最中は、その人の深層の心理を映し出す。この人には、こんなイタイイタイ甘え癖を宿している事を知らしめてしまいました。  わたくしは、観念しました。 「皆さん! 聞いて下さい! わたくしは、催眠術師です!」  また、クラスはざわめき始めた。 「こちらの、現在醜態を晒している猪本教諭。この方とわたくしは、正真正銘、初対面です! わたくしの事を好きになる催眠を掛けました。なので、この方とわたくしは、恋愛関係など全く無いのです!」  暴露するつもりなど無かったのに、思わず言ってしまいました。でも、もう切り抜ける術など無かったのです。 「そんな事急に言われてもさぁ、信じられる訳無いじゃん?」  多分彼女は、このクラスで一番発言権のある人なのでしょう。切れ長の瞳でわたくしを睨みつけました。そうですよね。にわかに信じられないですよね。お見せしましょう。わたくしの力を。 「よぉこちゃぁん。ようたん。ようたぁん? すきすき……」 「気持ち悪っ。では、まずこの男を眠らせますね」  容易い事なんです。両肩を掴み、揺らし、リラックスさせます。あとはタイミングを見つけて魔法の言葉を告げます。 「おやすみ」  猪本教諭は膝から崩れ落ち、数秒後にいびきをかいて眠りに落ちました。ここまででも、信じてくれた人は居るでしょう。 「じゃあ次は、猫宮さんにやってみてよ」 「へっ! 猫?」  猫宮さんは、怯えた声を出しました。でも、仕様がありませんね。 「猫宮さん? こっち向いて」 「い、嫌なんだよ! 怖いんだよ! いくら女神の頼みでも引き受けられないんだよ!」  あんまり警戒されると効き目が落ちるんですが、悠長な事は言ってられません。人差し指を眼前に立ててみると、気味の悪い寄り目になって、わたくしの指の動きを必死になって追っていた。 「チックッタックチックッタック」 「にゃあああ……」  にゃあああ? 名字が猫宮だからですか? キャラが強いですね…… 「予備催眠に掛けました。どんな催眠がお好みですか?」  クラスの皆さんに問い掛けました。 「服を脱がせて裸踊りでもさせてみてよ」  猫宮さんの発言から察するに、女神さん、ですかね? あなた、女神などと呼ばれているにも拘わらず、そんな倫理に反した事をさせようと思ってるのですか? 「裸は流石に可哀想なので、小気味良く踊ってもらいましょうか?」 「まぁ、それでもいいけど」  女神さんは、急に興味を無くされた様でした。なかなか癖が色濃そうですねぇ。 「猫宮さん? あなたは今、踊りたくて仕様が無くなってきました。皆さんに、お好きなダンスを披露なさってはどうですか?」  猫宮さんにそう言うと、うっとりとしていた目蓋が開かれ、黒目が縮んでいく様に錯覚した。 「ナビラカンタッチャオブロコントッチャエエーヤー」 「エェッ?」  猫宮さんは、謎の雄叫びを上げ、踊りました。踊って、踊って、激しく、時に柔らかく、合間に謎の言葉を叫びながら踊り続けました。 「ナンロンチェインナー、ナンロンチェインナー、ポポトゥロカスタムポポトゥロカスタム、ナンロンチェインナー」  そろそろ、催眠を解きましょうか?  でも、わたくしは気付いてしまいました。クラスの皆さんは、今わたくしの催眠術の事などどうでもよくて、猫宮さんの謎の踊りに夢中になっていたのです。 「ナビラカンタッチャオブロコントッチャエエーアー」  多分ここら辺がサビなのでしょう。その盛り上がりに釣られて手拍子まで鳴り始めました。わたくしは、偶然も偶然、とんでもない才能を開花させてしまったのでしょうか? 「ようたぁん、おはよぉう」  ヤバッ、猪本教諭の目が覚めた。催眠も掛かったままなんですね。今の内に解いておかないと! 「メカロンメカロンレミロナッターチャ、メカロンメカロンレミロナッターチャ、イエェーーーーーイ」  い、今、ラスサビ前くらいですかね? 思わず見てしまうんで大人しくしててもらいたいものです! 「はぁぁぁ!」  猪本教諭も夢中になっちゃいました。仮にも今は授業中なので、あなたは踊り狂う猫宮さんを止めるべき立場なんですよ! 教師の自覚を無くす様な催眠まで掛けた覚え無いんですけど?  猪本教諭の肩を叩いて視線を誘導し、手を叩いて催眠を解こうとしました。 「ようたぁん? すごぉぉんい! 猫宮たんすごぉぉんい!」  はっ? 解けてませんね。しきりになる手拍子と、猫宮さんの歌で手を叩く音が聞こえていませんね。 「ナビラカンタッチャオブロコントッチャエエーアー」  ラスサビに入っちゃいましたねぇ。最後は半音上がるタイプの曲構成なのですねぇ。  二曲目、三曲目と、クラスのボルテージが下がる事はありませんでした。誰かが止めるだろうと思って静観していると、他のクラスからも何事かと見物に来た人がいて、その人達まで魅了してしまうのだから、わたくしはもうお手上げでした。  それよりも、疲れきっていたわたくしの手を握ろうとして来る猪本教諭が、一番鬱陶しかったのでした。
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