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ジジイの過去
「私はその頃学生だったのよ。そう、この近くにある有名私立大学のね。おばさんも頭良かったのよ」
俺はあの女のことを思い出した。やはりあの女もインテリだったのか。
「ここの銭湯、かなり歴史が古いのよ。もちろん時代の流れとともに、何度か取り壊されそうになったんだけどね。でもね、今も昔もこの近辺に住んでる寮や一人暮らしの学生さんに人気があるのよ。だからいっつも何とか潰れないで残ってるの。……私もそんな学生の一人でね、定期的にここに通ってたの。なぜか心が安らぐのよね。一人暮らしの寂しさと、人間関係の煩わしさ、どちらも癒してくれるって感じかな」
おばさんは遠い目をしながら語っていた。
「そんなある日、受付をしていたら、変な男が私のことをジロジロ見ていたの。あれは本当にひどい目つきだったわね……」
「えっ」
俺は思わず声を漏らした。
「それでもお風呂に入ったら、そんなことすぐ忘れちゃったんだけど、露天風呂に浸かりながらふと上を見上げたのよ。そしたら一人のお爺さんが顔を出して覗いていて。……今でも覚えてるわ。あのニヤけっぷりといったら……」
おばさんはチラリと爺さんを見た。爺さんは頭を掻いた。
「私は思いっきり悲鳴を上げたわ。……当たり前よね。そしたら酒井さんはヒュッと姿を消したの」
「爺さんまさか……。俺と全く同じじゃないか!」
「バカタレ! だから一緒にするなって何度も言っておるじゃろうが。お前は力がなくて壁から落ちて行っただけじゃろうが。本当に情けないのう。あんな壁、ワシは80歳じゃったが簡単に登れたぞ」
嘘つけと言わんばかりに俺は目を細めた。しかしおばさんは首を振って爺さんの肩を持った。
「それが本当なのよ。どこにそんな力があるのか、本人は無限の探究心だとかなんとか言ってるけどね。……とにかく私が覗き魔がいるって騒ぎ立てたせいで、犯人捜しが始まったの。番台さんが悲鳴を聞いてから男湯から出た人はいないので、この中に犯人がいるだろうって、男たちが並ばされたわ。……でもその中に老人はいなかったのよ。最高でもせいぜい40代のサラリーマンにしか見えなかったわね。するとしばらくして、一人の男性が運び出されてきたの。どうやらサウナで倒れてたみたいで、すぐに病院に運ばれてったんだけど、その前に従業員さんに『もしかしてこいつですか?』って聞かれて。恐る恐る顔を見ると、まさにさっき目が合ったお爺さんだったの。でもそのとき不意に、この人可愛そうって気持ちが湧き起っちゃったのよね。そして気づいたら口が勝手に違いますって言ってたの。それで騒ぎは私の勘違いってことで収まったの」
おばさんはそこまでしゃべるとやっと一息ついた。
「人騒がせなって白い目で見られたけど、みんなゾロゾロと引き下がって行ったわ。そこで私一人が取り残されて佇んでたんだけど、急に後ろから話しかけられたの。また悲鳴を上げるところだったわよ。まさに今運ばれていったばかりのお爺さんが、今度は透明になって立っていたんだから。でもそのあと言われた言葉があまりに突拍子もないもので、怖さなんてすぐに吹き飛んでっちゃったわ」
何と言ったのだろう。俺はワクワクしながら続きを待った。
「『ワシと結婚してください』ですって。当然戸惑ったんだけど、まあそんなこともありかなあって……。私、ちょうどその頃大学の人間関係に悩んでたのよね。言い寄ってくる男はたくさんいたんだけど、みんなガキっぽい男ばっかりで辟易していたの。サークルでも常に誰かしら粉をかけてきて、サークルでやりたいことにも弊害が出てきて、それで男が嫌いになってたのよ……」
「え? オーケーしたんですか!?」
あまりの展開に驚いていた俺は思わず聞き返してしまった。おばさんは少し頬を染めた。すると爺さんが武勇伝を誇るようにワハハと声を上げた。
「言うたじゃろ? ワシはモテモテじゃったと。ワシは女に飽き飽きしとったんじゃが、その日銭湯の受付で光子さんを一目見て雷に打たれたような衝撃を受けた。それから露天風呂に入って悶々としておった。当然じゃのう。相手は20歳前後、ワシは80歳。さすがに好意を受け取ってもらえるはずがない。じゃが気持ちはどうにも収まらん。なすすべなく空を見上げると、女湯を隔てている壁が目に入った。それから周りを見回すと幸運にも誰もいない。ワシは意を決して壁に手をかけた。……そこからは光子さんが語った通りじゃ。光子さんと目が合ったワシは笑みを投げかけた。しかし叫ばれてしまったのでワシはすぐに逃げようとしたんじゃ。が、騒ぎは予想以上に早く広まり、ワシは着替えて外に出るのは間に合わんと踏んだ。そこでワシはサウナに隠れとった」
爺さんはため息をついた。
「ワシも歳だったんじゃのう。いつの間にか意識を失い、気づいたらワシが転がっておった。そしてワシの亡骸は光子さんの前に差し出され、いよいよ審判の時が来た。……しかしワシは耳を疑った。こんなワシを庇ってくれる光子さんの健気さに、ワシはすぐにプロポーズしようと決めたんじゃ。こうしてワシは顔も性格も体も好みの女性をものにしたというわけじゃ」
爺さんはウンウンと頷き、美しい話だといわんばかりに締めくくった。
「というわけで、ワシはお前と違って女の裸が見たいから成仏せんわけじゃないんじゃ。それは楽しみの一つでしかない。……お主は可哀そうじゃのう。独り身でこんなところに彷徨っておって」
爺さんは舌を出して冷やかしてきた。俺は話を反らしておばさんに問いかけた。
「それで、爺さんのためにこんなところにわざわざ勤めちゃったんですか? おばさん頭がいいなら、もっといい会社もあっただろうに」
おばさんは肩をすくめた。
「最初はもちろん大きな会社に就職してみたんだけどね、でもその頃はまだ女性差別も多くて、思うように仕事が行かなかったのよ。それで悩んでいた時、思い切ってここを訪れたの。何とか雇ってもらえて、それ以来ここにいるってわけ。でもここに来て全然後悔してないわ。ほんと、酒井さんがいると毎日退屈しないんだから。あ、でも私がいない間に彼、寂しさのあまり変な癖を覚えちゃってて。とにかく覗きが趣味になってしまったのよ。当時はまるで単身赴任中に浮気された気分だったわ」
「こ、これ! 余計なことは言わんでいい!」
当時のことを楽しそうに話す二人を見て、俺はやるせない気持ちになって肩を落とした。そんな俺を見ておばさんがエールを送って来た。
「あら、あなただってガールフレンドができたんでしょ? あなたもガールフレンドにプロポーズとまではいかなくても、告白でもしれみれば? 案外いい結果が待ってるかもよ」
おばさんはウインクして見せた。そう言われても俺の気持ちは晴れなかった。
爺さんはそれなりに男らしく、勇気があったようだ。俺は自分の卑屈さを改めて思い知らされていた。
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