あんたアホちゃうか。あんたかてアホやで。ほんならお笑いしよか。もうやってるで。

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一 いたよ・いないよの登場 舞台に二人の女性が勢いよく飛び出してきた。 「いたよでーす」 「いないよでーす。二人合わせて、いたよ・いないよでーす」 「無理に、合わせんでもええわ。それに、いたよ・いないよ、って、そのままやんか。もっと洒落たこと言えんのかいな」 「どうも、どうも」 「どうも、どうもやないで。それにしても、いないよちゃん。あんた、どうしたん?」 「どうしたんて何?いたよちゃん。何か気になることがあるんか。あはーん。あたしの美貌に妬いとるな」 「何が美貌や。ビリリバリリブみたいな顔して。それよりもそのかっこうのことや」 「ちょっと待ちまい。ビリリバリリブみたいな顔ってどういう意味や。まあ、ええわ。長い付き合いやから、許してあげるわ。それよりもええことに気がついたな、いたよちゃん。この姿、かっこええやろ。パリコレやで。パリコレ。パリッとしたコレや。インターネットで見つけて、買うたんや。高かったで」  いないよが舞台の上で体をくるりと一回転させた。お客さんがどっと笑う。 「何がパリッとしたコレや。浮輪みたいなもんを四つも付けて」 「どれが浮輪や」 いないよが、大きな目を更に丸くして見開いた。 「これやこれや」 いたよが、いないよのせり出したお腹を掴んだ。 「体が四段やないか。鏡餅でも二段やで。一番上に、だいだいを乗せても三段までや。いないよちゃんは、それを上回る四段や。将棋は四段からプロ棋士やから、いないよちゃんはプロのデブや。略してプロデブや。たいしたもんや」 「何が、プロデブや。そんなもん、略さんでもええわ。いたよちゃんが掴んどんのは服やのうて、あたしの肉や。それに一番上はお乳で、その下は三段腹や。全部合わせて四段や。ほんまや、四段になっとる」  いないよも、自分の体を確かめるように上から順に掴んだ。 「ほらみてみい。自分でも認識しとるやないか」 「認識しとるから無視しとんのや。それが乙女心やろ」 「何が乙女心や。それも言うなら浮輪心やろ」 「浮輪心やて?そんな言葉聞いたことはないわ。それよりも、いたよちゃん。あんたこそ、そのかっこ何や?」 「ええやろ。シャネルや。ブランドやで。質屋で買うたんや」  いたよも、いないよを真似して舞台の上で体をぐるりと一周させる。お客さんからため息の声が上がる。 「そうやろ。お客さんにはわかるんや」  誇らしげな顔のいたよ。 「何がシャネルや。それを質屋で買うたんかいな。自慢にならんで」 「ええもんを安う買うて、何が悪いんや。節約や。今、流行りのエコや。なあ、お客さん」  舞台の上からお客さんに同意を求めるいたよ。 「節約するんやったら、買わなんだら、一番ええんや」 「ほっといて。あんたこそ、その四段腹を、まずは節約したらええやんか」 「こっちこそほっといて。なんぼその服がブランドや言うても、どう見ても、昨日二日酔で家に帰らんと、そのまま車の中で寝てしもうたみたいなかっこうやで。なあ、お客さん」  お客さんにも受けたのか、客席からどっと笑いが出た。 「訳がわからん例えやけど、何で、車の中で寝てしもたこと知っとんのや」 「あたしはあんたの相方やで。昨日も一緒に飲んだんやんか」 「そりゃそうやったなあ。忘れとったわ。まだ、二日酔から冷めてないんかいな。いないよちゃんのお腹がひっこんで見えるわ」  いたよは、眼をしばたたかせる。 「それやったら二日酔いやないで。ちゃんと現実を認識しとる」  いないよは、三段腹を膨らまして、自慢そうに両手で叩いた。お客さんが笑う。 「いい加減にして。それはそうとして、車の中で寝てしまうこととシャネルとどういう関係があるねん?」 「車中で寝るから、車寝る、シャネルや。どうや」  お客さんからは失笑の声が聞こえた。 「何、どや顔してんねん。ちょっと無理があるんとちゃうか」 「無理があるんは、あんたの体や。えもんかけに、服をぶら下げているやんか」 「誰がえもんかけや」  いたよは、両手を挙げて、かかしのようなかっこうをする。 「えもんかけが嫌やったら、バラバラの鳥ガラを集めて組み立てたようなスタイルや」 「また、ドヤ顔したな。えもんかけも鳥ガラも嫌や。この体型はダイエットした成果や。細いやろ。スマートやろ。あんたと違うで」  いたよが、もういちど、舞台の上で体を一回転させる。 「やせ過ぎや。顔は頭骸骨にサランラップ貼ったみたいやで。特に、その首や」 「首がどないしたんや。鶴のようなしなやかやろ」 「しなやかじゃなくて、筋が浮き出てるで。その筋で縄跳びができそうや」  いないよは、下唇を下げて、自分の首筋をいたよの首筋に似せた。そして、浮かび上がった首筋を両手でわざと掻きむしる。 「なんや。あたしの首筋で、小学生が大波小波や二重飛びをするんかいな」 「最近の小学生は運動不足らしいから、ちょうどええんとちゃうか。縄跳びの首筋おばさんとして人気者になるで」 「もうええわ」  満場の拍手の中、二人は舞台の袖に引っ込んだ。 目の前を黒い大きな車が立ち去った。臨席する多くの人たちがポケットから数珠を取りだすと、両手を合わせ、深くお辞儀をした。それなのに、あたしは茫然と立ち尽くすだけだ。どこからか啜り泣く声が聞こえる。一番泣きたいのは、このわたしだ。今聞こえる声よりも大きな声で、髪を振り乱し、手足をぐるぐると振り回しながら、眼から三リットル以上の涙を流したい。 それなのに、あたしは眼をまんまると見開いたまま、立ち尽くすだけだ。声も出ない。ただし、何度も、何度も、唾を飲み込む。唾を飲み込み過ぎたために、声が出ないのかもしれない。悲しみに包まれた唾は、あたしの喉を通り過ぎ、胃へと落ちた。 胃液は、あらゆる食物を消化し、体に取り込まれた風邪など菌に対して殺菌作用があるが、堅い殻に包まれたあたしの悲しみまでは駆逐できない。この悲しみは、自らが分解し、血液中に沁み込んで、あたしの体中を巡る。 悲しみは何色なのだろうか。赤い色ではないことは確かだ。悲しみは、皮膚に、髪の毛に、指の爪に、瞳に、唇に、耳たぶに浸透していく。体全身が悲しみ色に染められた時、あたしは体全身から力が抜けて、立っていられずに、その場に崩れ落ちた。 「誰か、誰か来て。いないよちゃんが倒れた」 隣の人だろうか。慌てて叫んでいる。大丈夫。あたしは、そう呟こうとするけれど、声が出ない。そのまま気を失った。 「なあ、いないよちゃん。たくさんのお客さんに来ていただいてありがたいなあ」 「どこが、たくさんや。いたよちゃん。いち、に、さん・・・・」  いないよが、舞台の上から椅子に座っているお客さんを指差し始めた。 「あんた。お客さんの人数を数えんでもええわ。それに、品のある方ばっかしで」 「どこに品があるんや。品がある人ならお笑いなんか見にこんで。ここにいる人は、怪しい人ばっかしや。ここやろ、あそこやろ・・・」 「こら、こら。お客さんに指差してどうすんねん。そりゃあ、一部の人はそんな人もおるかもしれんけど。ほとんどの人は上品な人やで」  いたよが、舞台の上から、お客さんに近づこうとするいないよの背中の服を引っ張る。 「ほら、あんたも認めたやんか。ほな、下品な人はどこや。見つけた。ほら、あそこや」  いないよが、今度は、自分のあごでお客さん差した。 「こら。もうええから。あごでも差したらあかん」 「ほな、何で上品な人が馬鹿ばっかしのお笑いを見に来るんやろ。いたよちゃん」 「そりゃ、社会勉強や。何でも勉強せなあかんのや。まあ、演芸場は動物園みたいなもんやなあ」 「なんや、あたしたちは檻に入った動物かいな」  いないよが、三段腹を勢いよく叩いた。お客さんが笑う。 「そうや。例えて言うたら、あたしは白鳥やなあ。この白いスマートな体でお客さんを魅了すんのや」 いたよが、バレエの白鳥の湖の踊りをマネして、舞台の上で一回転をした。 「魅了?魅了って、そんな難しい言葉どこで覚えてきたん」  いないよが、目を丸くして、いたよの顔に自分の顔をわざと近づける。 「そんなに近づかんでも十分見えとるわ。それに、魅了の言葉ぐらい知っとるわ。人をアホみたいに言わんといて」 「その鳥ガラみたいな体やったら、魑魅魍魎やろ」  いないよが、お客さんに同意を求める。 「誰が魑魅魍魎や。あんたこそ、難しい言葉を使うたけど、魑魅魍魎を漢字で書けるか?」 「書けるわけないやろ」 「自分で言うとって、何を腹張ってんねん」  いたよは、いないよのお腹を叩く。 「誰が腹を張るんや。自慢する時、張るんは、胸や。胸。お腹は、食べ過ぎたときに張るもんや。それにしても、いたよちゃん。あんたが白鳥なら、コンビの相棒のあたしも白鳥や。たーらりらら、たーらら。たーらりらら、たーらら」 いないよも、いたよを真似して、舞台の上で踊り出す。 「何、四股踏んどん?」 「どこが四股や。あたしはお相撲さんないで。見かけはそう見えるけれど」  あえてガニ股になって、四股を踏む、いないよ。 「やっぱり、自覚症状はあるんやなあ。それなら、あっち系の病院に行かんでもええわ。ほな、何してんのや」 「見てわからんか。ダンスや。あんたと同じ白鳥の湖を踊ってんのや」 「どこがダンスや。白ブタ印の引越し便が、タンスを運んどんのかと思っとったわ」 「誰が白ブタや。何んで、あたしが一人でタンスを運ばなあかんのんや。昔、アルバイトでやってたことはあるけどなあ。その話題からちょっとは離れてえなあ。話は戻るけれど、動物に例えたら、あたしは何に見える?。お相撲さんや白ブタはもうええで」 「そうやなあ。よく見たら、あんたの笑顔は可愛いいし、その年齢でえくぼもあるし・・・」  いたよは、いないよの体をじろじろと見まわしながら、一周する。 「そうや、そうや、ええこと言うわ。いたよちゃん。もっと言うて」 「そうや。思いついた。あんたはカバや」 「カバ?何を思いつくねん。カバのどこが可愛いんや」  いないよは、カバよりも大きな口を開けて、いたよに向って怒鳴る。 「可愛いいやん。目が小さくて、耳も小さくて、その割りに、鼻の穴も大きく、口も大きいやろ。おまけにしっぽもついとるで。こんなアンバランスな顔ないで。ぷっ」  自分で言いながらも、つい笑ってしまう、いたよ。 「笑わんとって。何がアンバランスな顔や。おまけにしっぽもついとるやて。おまけなんかいらんわ。いたよちゃん。ほんまに、それ、誉めとんのか?」 「何言うとんのや。いないよちゃん。全国の動物園愛好家一万人に聞きました、では、カバが一番人気やったんで」 「ほんまかいな?そりゃ知らんかったわ」 「特に、逆立ちしたら最高やで」 「逆立ちかいな。あたし、この太った体やろ。逆立ちは苦手なんや。だけど、人気者になるためならやってみるわ」 「前向きやなあ。いないよちゃん」 「いや。逆立ちだけに、逆向きや。いくで。足持ってよ。ほら」  いないよは、舞台に手を着くと、足を思い切って蹴り上げた。その両足を持つ、いたよ。舞台の上では、逆立ちをした、いないよとそれを支える、いたよの姿。 「すごい。一発でできたで。いないよちゃん。それにしても重いな」 「しっかりと持っといてよ。いたよちゃん。いかん。はや、頭に血が上って、いや、下がって来たわ。ほんで、カバが逆立ちしたら、何で最高になるんや?」 「カバだけに、バカやろ」 「もうええわ」  いないよが逆立ちをしたまま、舞台の緞帳が下りた。  二 喪失 「大丈夫?」 耳元で声がした。あたしは何時間も前から目を見開いていた。目に映るのは、白い天井と水色のカーテン。ただ、それは目に映っているだけで、あたしの心には何も響かない。 「びっくりしたわよ。突然、倒れるんだから」 やさしく、心配した声だ。どこかで聞き覚えがある。そうだ。マネージャーだ。マネージャーの高橋さんだ。それでも、あたしは声のする方には向かず、目を見開いたまま天井をずっと見つめている。高橋さんの微笑んだ顔が突然目の前に現れた。まるで映画のワンシーンだ。 「本当に心配しているのよ」 高橋さんの顔が曇った。あたしは無表情のまま頷いた。ありがとう、と言おうとしたが声は出ない。声を出そうとはしているのだけど喉に、舌に、歯の裏に、唇に引っ掛かって言葉が出ないのだ。引っ掛かった声は、うなだれたまま喉下へすごすごと戻っていく。もう一度、出ていくための打ち合わせをしているのかもしれない。 そう。打ち合わせだ。彼女とは何度も打ち合わせをした。彼女の家で。あたしの家で。地下鉄の中で。演芸場の近くのコンビニで。喫茶店の時もあった。演芸場のトイレの時もあった。もちろん、楽屋でも。これから始まる舞台の裾でも。 それから、目で合図しながら、舞台の上でも。そう、本番中にも関わらず、打ち合わせをした。これも、全て、お客さんを喜ばすため。いいや、違う。あたしは、お客さんのためにお笑いをしていたわけじゃない。彼女と一緒にいるため、彼女を笑わすため、彼女を喜ばすため、彼女とお笑いのコンビを組んだのだった。 二人の約束事は、どんなにお互いのことを舞台の上でボロクソに言い合っても、お互いに敬意を払うことだった。いや、敬意というよりも、愛すべきというか、愛情を持つというか、相手が自分であるという気持ちになることだった。まさに、一身同体。こんなことを言うと、すぐに、世間の人は、二人は同性愛者だったんだ、と下種の勘ぐりをする。ある意味では、同性愛、いや、人間愛、「いたよ」愛だ。「いたよ」だから愛せたのだ。 お互いが空気のような存在で、そこにいるのは当たり前の関係で、でも、空気だから、いないと互いが死んでしまう。そんな関係だ。だけど、人の心は難しい。どんなにそんな風に思っていても、互いにストレスは溜まる。 この横綱ブタとか、ガリガリの鳥ガラとか、もうお笑いのペアは解散だとか、口に出さないけれど、腹の中でぶちまけた。いや、口に出したこともあった。もちろん、直接、本人に対してではない。マネージャーに対してだ。 それでも納まりが着かない時は、仕事が終わり、家に帰ってからでも、喉から唇の裏にまで溜まった感情が吹き出た。何でそんなこと言うんだよ。いくら、長い付き合いだからといっても、許せることと、許せないことがあるぞ。バカヤロー。死んでしまえ。お前の母ちゃんでべそ、と白い壁に向かって叫んだ。枕を投げた。ちゃぶ台をひっくり返した。あたしは小学生、いや保育園児か。 たぶん、いたよだって同じだったろう。一見、青春ドラマの、青春のバカヤローのように聞こえるかもしれないが、当事者においては修羅場だ。シュラバンバ、シュラバンバ。踊っている場合か。 ああ、一人で突っ込んだ。つい、面白いことを言わないと気が済まない。面白いことに頭が回ってしまう。可笑しい。でも、あたしがシュラバンバ、シュラバンバと踊っていたら、いたよはどんな突っ込みをしてくるのだろうか。半分は、思いがけない突っ込みを期待。半分は、予想通りのリアクションを期待。でも、その予想通りの方が嬉しい時がある。 「あんた。学生時代、何かスポーツしてやってたんか?」 「この体型見たらわかるやろ。ふん」 いないよは、右腕の袖をまくり力瘤を作った。 「すごい筋肉やなあ。ダムでも作りよったんかいな」 いたよは、いないよの力瘤を半ばうらやましそうに、半ば笑いながら触る。 「何で、可愛い女子高校生がダム作らなあかんのや」 いたよの手を払いのける、いないよ。 「女子高校生は客観的事実やから認めるけど、可愛いは否定させてもらうで」 「そんなん、いちいち否定せんでもええわ」 「それなら、引越しのアルバイトでもやってたんか」  いたよは、座り込んで、今度は、いないよの太ももを触る。 「そうや。冷蔵庫やグランドピアノでも一人で運んどったわ。ええお金になったで。おかげで、お笑いの学校の申込金も払えて、よかったわ。何、言わすんのや。あんたが聞いてきたんは、スポーツやろ。ダムにしろ、引越しにしろ、スポーツとどういう関係があるんや」  いないよは、太ももを触るいたよの手を払う。 「ヒッコシーて、ニュースポーツがあって、短時間でどれだけ物を運べるか競争するんや」 「そんなん知らんわ。誰が考えたんや」 「あたしが今、考えたんや。おもろいやろ。筋力はつくし、お金も貰えて、一挙両得、両手に花、二兎追うものはカバを得るや」 「誰がカバや。もう逆立ちはせえへんで」  そう言いながら、いないよは舞台の床に手を着こうとする。 「もうやめて。この前、あんたが逆立ちした脚を持ったら、一週間、筋肉痛が治らなんだわ」 いたよは、自分の二の腕をさする。 「そんな、大袈裟な」 「さあ、スポーツの話に戻ろ」 「あんたが無理矢理、他の話に振ったんやで」 「ほんで、何のスポーツやっとんたんや」 「キャッチャーや」  いないよが座り込んで、野球のキャッチャーのかっこうをして、立ち上がった。 「キャッチャー言うたら、ゴールの前で、蹴ってきたボールを素手で取るサッカーかいな」 「それはゴールキーパーや。知ってて、わざと間違えんといて」 「お客さんに喜んでもらうためや」 「そんなんで、お客さんは喜ばんわ。キャッチャーやけど、野球やのうて、ソフトボールや。他にもやったで。さっき言うたサッカーのゴールキーパーに、ハンドボールのゴールキーパーに、ホッケーのゴールキーパーに、先生に頼まれて、朝、遅刻した同級生を掴まえる校門キーパーもやったで。家に帰ると、おかんやおとんに代わって、掃除・洗濯・買い物をこなすハウスキーパーや。はてまた、鳥取県の境港市では、妖怪のぬり壁もやって、観光客もキープしたで」 いないよは、舞台の上で、両手両足を広げ、大の字の姿になる。 「すごいなあ。いないよちゃん。鳥取県まで行ったんかいな。全国展開や。でも、よう考えたら、キーパーばっかしやなあ」 「あたしもようわからんけど、大会前になったら、同級生たちが寄って来て、いないよちゃん、キーパーになって、って頼みに来るんや。あたしは人の頼みごとを断れん性格なんで、全部受け止めたんや」 「なんや、性格までキーパーなんかいな。ほんでも、そんなにたくさんのスポーツやったら、ルールを覚えるだけでも大変やったんとちゃか?」 「そうや。あたしも友だちに、ルール知らんのやけどええんかいな、って聞いたんや。そしたら、友だちが、「いないよちゃん。ルールなんか知らでもええで。ゴールの前に立っとるだけでええから。ほっといてもボールがいないよちゃんの体に当たるから、壁の役割を果たすんのや。それでええんや。後はあたしたちに任しとき」って言うてくれたわ」 「それ誉められとんのか、貶されとんのか、どっちや」 「ようはわからんけど、頼りにされとんのには変わりはないやろ。その時に付いたあだ名が「大壁」やから」 「「大壁」かいな。その大壁にボールが当たって「壁ドーン」かいな」 いたよが、いないよの右頬の横に開いた右手を押し出した。 「そうや。あたしに寄ってくるんは、かっこええ男やのうて、ボールばっかしや」 「まあ、何でも、寄ってくるということはええこっちゃ」 「もてとんとちゃうで。あたしを狙って来とんのや。時には、恐怖も感じたわ。殺されるんとちゃうかと思うたわ」 「そんな大げさな。壁でもやっぱり恐いんか」 「あだ名は「大壁」やけど、あたしはか弱い乙女や。どうや。このピンクのスカートのフリルが似合うやろ」 いないよが、スカートの裾を持って、右に首をちょこんと傾ける。 「何、可愛娘ぶっとんのや。確かに、ピンクのカーテンを掛けたら、汚れた壁や破れたビニールクロスが見えんでええわ」 「それ、どういう意味や。それなら、いたよちゃん。あんたは学生時代何やっとんたんや?」 「あたしもソフトボールやけど、キャッチャーやのうて、ピッチャーや。エースや。しかも四番バッターで、キャップテンや」  手を振り回して、ウインドミルでエアボールを投げる、いたよ。 「なんや。同じ女子高校生でもえらい違いやな。やっぱり、ボール投げる時は、コケコッコーって鳴くんかいな」  いないよが、顎を上げて、いたよの首筋に似せて、自分の首筋を手で掻く。 「あたしはニワトリか。なんでボール投げる時に、鳴かないかんのや」 「どうせ、高校の時も、鳥ガラ体やったんやろ。コケコッコーって鳴いたら、相手を威嚇できて、三振とれるやろ」 「鳴き声はコケおどしかいな」 「上手いこと言うなあ。座布団やのうて、あたしの三段腹あげるわ」 「そんなもん、いらんわ。こっちが腹を壊してしまうわ」  いたよは、いないよのお腹を叩く。 「いたよちゃん。あんた、やっぱり、ソフトボールのピッチャーよりも、お笑いがむいとるで」 「あんたに言われとうないわ。それよりも、いないよちゃんも、あたしの突っ込みのボールをその大きな壁でちゃんと受け止めてよ」 「任しといて。この胸にどーんとぶつかってきなさい」  シコを踏む、いないよ。 「それ、キャッチャーやのうて、お相撲さんやで」 「お後がよろしいようで」  三 診察室にて 「声が出ないんですか?」 さっきまで画面のカルテばかり見ていた医師が、丸椅子を回転させて、こちらに向いた。 「いいえ。普段の会話は大丈夫なんですけど、舞台に上がると声が出ないんです」 あたしの代わりにマネージャーの高橋さんが答えてくれた。 「舞台?相撲ですか?」 医者は何のためらいもなく言い切った。 何で、相撲やねん。土俵やないで。舞台と言うてるやろ。あたしの体から判断するな。心の中では突っ込んでいるけれど、何故か、面白いことを言おうとすると言葉が出てこない。 「いいえ。相撲じゃありません。確かに見た目は相撲取りですが、実は、お笑いです」 おいおい、こらこら。身うちが肯定してどうすんのや。あたしは高橋さんの顔をきつく睨んだ。だが、高橋さんはあたしの視線に全く気がつかない。 「この方は、お笑い大賞を取ったこともある実力も人気もある人なんです。コンビ名は「昔いたよ、今いないよ」で、お相撲さんの方が「いないよ」ちゃんです。先生、ご存じないですか?」  だからお相撲さんじゃないって言ってるじゃないの。あたしはもう一度、高橋さんの顔をきつく睨む。だけど、高橋さんは医師の顔ばかり見て、あたしの視線には気がつかない。 「いえ。知りません。私は、あまり、テレビは観ないもので。でも、「いないよ」って言っているのに、目の前にいるじゃないですか」 医者は初めて見る生き物のように、あたしの顔を不思議そうに眺める。 「いいえ。「いたよ、いないよ」は、芸名なんです。この人は本当にいます。ほら、ちゃんとお相撲さんのようなふっとい腕と胸と腹と足があるでしょう。どこからが腕や胸や腹や足かはあたしも区別ができませんが」 「なるほど」 医師が大きく頷いた。そして、聞き取った内容をカルテに打ち込んでいる。  何を納得しているんだ。横で聞いていると、医師と高橋さんの二人がお笑いをしているように聞こえる。高橋さんがあたしの右足を急に持ち上げた。 「おっとっとっと」 足を急に持ち上げられたものだから、あたしの頭はバランスを崩して後ろに倒れる。それにつられて、あたしのふっとい腕も、ふっとい乳も、ふっといお腹も、後ろに移動した。ゲルマン民族の大移動じゃない。あたしの肉の大移動だ。この慣性の法則を誰が止められるのか。 幸い、椅子には背もたれがあり、あたしの体は背もたれに支えられると同時に、今度はバウンドするように跳ね返り、前のめりとなった。あたしの体はシーソーのように後ろに倒れたり、前に倒れたりする。一体ここはどこだ。児童公園か。あたしはどこへ行くんだ。どこへ行こうとしているんだ。それよりも、高橋さんだ。こんなことをして許せん。 「急に何すんねん。危ないじゃないの」 あたしは高橋さんに向って怒鳴った。 「ごめんね。いないよちゃん。先生に「いないよちゃん」の本当の姿を知ってもらいたかったの。それで、病気が治ればいいでしょう」 平身低頭の高橋さん。その口から舌先が垣間見えた。あっかんべえだ。本当に、どいつもこいつも油断がならない。素人のくせに、すぐに笑いを取ろうとする。あたしは憤慨する。 「やはり、いるじゃないですか」 あたしたちのやりとりを見ながら、医師が唐突に返事をした。 当たり前じゃ。さっきから言っているように、「いないよ」は芸名だ。あたしはここにいる。だが、よく考えると、「いたよ」はこの世からいなくなり、「いないよ」がまだこの世にしがみついている。何だか変だ。 本当は、いたよが生き残り、いないよのあたしがこの世から消え去ればよかったんだ。そうすれば、あたしはこんな目に会わなくてもすんだのだ。「いたよ」なら、あたしのように病気にならずに、この危機を乗り越えただろう。乗り越えたはずだ。いや、きっと乗り越えている。あたしは、何かをしゃべろうとすりものの、口からは吐く息しか出ない。そのまま、顔を伏せた。 「こんな調子なんです」  高橋さんが、あたしのことをわかっているのか、わかっていないのか、あたしの肩に手を置いた。 「かなり重症ですね」 医師はあたしの顔を見ずに、再び、カルテに何かを打ち込んでいる。 「先生。彼女の病気は何ですか?」 高橋さんが恐る恐る医師に尋ねた。 「イップスですね」 医師は何の感情もなく断言した。 「イップス?それ何です。「アリとキリギリス」とか「金の斧とか銀の斧」とかの童話ですか。それが、いないよちゃんの病気と何の関係があるんですか。いないよちゃんは、確かに時間はルーズで、できるだけ楽をして儲けようとしていました。ギャラが百万円と十万円の仕事だったら、その仕事の内容にも関わらず、百万円の仕事を選びました。でも、結局、依頼者が逃げてしまって、仕事をしたのにお金が支払われなかったこともたびたびありました。本当に、目先のことしか考えていないんです」 高橋さんは身の乗り出して、ここぞとばかりにあたしの悪口を医師に訴えた。 「それはイソップの童話でしょう。私が言っているのは、イップスです。主にスポーツ選手が罹る病気で、例えば、有名なプロゴルファーが緊張のあまり手が震えて、三十センチほどの距離のパットも外してしまうことがあると聞いたことがあるでしょう」 「ええ。でも、それはゴルファーや野球選手などのスポーツ選手が罹る病気でしょう。いないよちゃんは、正真正銘のお笑いです。そりゃあ、口は一般の人よりも動かしますが、お笑いはスポーツではないでしょう?」 高橋さんが不思議そうに首をひねる。 「あなたのおっしゃるとおり、イップスはベテランのスポーツ選手に発症しますが、お笑いだって、シコを踏んだり、まわしを握ったりするでしょう。立派なスポーツ選手ですよ」  医師は、自分の診断に確信を持ったように頷く。  だから、あたしは相撲取りじゃないと言っているだろう。その言葉は喉を通りすぎ、歯の裏にまで到達したものの、口が開かないので、歯の裏に当たって、再び、喉元に戻って来た。言葉が発せられないものだから、うっぷんが溜まり、心の中で、怒りは倍増する。 「先生の言う通りです。確かに、シコを踏んだり、まわしを握ったりします」 高橋さんも大きく頷く。  違うだろ。身内さえにも裏切られたいないよは、怒りからあきらめに変わり、肩を落とすしかなかった。もちろん、見合って、見合っての相撲の型ではない。 「治療には、少し時間がかかりそうですね。まあ、気長にいきませんか。この病気はプレッシャーが一番よくないんです」 医者は看護師に次の患者を呼ぶように指示した。 「でも、いないよちゃんには、仕事があるんです。舞台に立って、人を笑わすのが彼女の仕事なんです。このままでは、仕事になりません。先生。何とかしてください。あなた医者でしょう。病気を治すのが医者の仕事じゃないんですか?」 高橋さんが、先ほどまでのボケた顔ではなく、必至の形相で医師に噛みつく。 「病気は本人が治すものです。私たち医者はそのお手伝いをするだけです。お笑いもお客さんが笑うんです。そのお手伝いをする、ちょっとしたきっかけを与えるのが芸人さんの仕事じゃないですか?自分が思う通りに、人に何かをさせるなんて、そんなおこがましいことは私にはできません」  医師は、これまで、高橋さんと一緒になって、ピントはずれの会話をしてきたのに、この時だけは的を得た発言をする。 「わかりました」 あたしの口からは素直な言葉がすんなり出た。その横で、高橋さんは診察室の天井を茫然と見つめていた。 「あんな藪医者の言うことなんて信用せずに、他の医者に診てもらいましょう。あたしがいい医者を見つけますから」 高橋さんは車を運転しながら、バックミラー越しにあたしの顔を見つめる。 「ありがとう。でも、お医者さんの言うことはもっともだから、少し休ませてよ」  あたしはバックミラーに映る高橋さんの視線をはずして窓の外を見た。いつもの演芸場から家へ向かう帰り道だ。誰もあたしのことに気がつかない。 「そう。いないよちゃんがそこまで言うのなら、事務所の社長にはあたしから言っておくわ」 車はあたしの住むマンションの前に止まった。 「ありがとう。高橋さん。ファンには気付かれないようにするから」 あたしは赤い帽子を被り、黒いサングラスをかけ、白いマスクをする。首には虹色のマフラー。服装は縦じまのジャージだ。 「いないよちゃん。元気を出して。いえ、そのままで」 高橋さんが、慌てて、訂正をした。先ほど診察を受けた医者からは、がんばれとか、元気を出せとか、など、励ましの言葉がかえってプレッシャーになるから控えるように言われたばかりだったからだ。 「でも。その姿、どう見ても十分に目立っているけど。ぷっ」 高橋さんが右手で口を押さえた。やはり、あたしはお笑いの根性を捨て切れない。相方がいなくなって、面白いことがしゃべられない病気になっても、体だけはお笑いをしようとするのだ。 あたしはできるだけ目立たないように、大きな体を小さく丸めた。だんご虫作戦だ。その時。ビリ。ビリリリリ。縦じまの服が横に引き裂かれた。見知らぬ通行人が口を押さえて笑っている。やはり、あたしはどこまで行ってもお笑いだ。自分を犠牲にしてまで、人に笑ってもらおうとする。 「いたよちゃん」 あたしは天国にいる、いるはずの、いたよに向って声を掛けた。あたし、このままでいいんだよね。いいはずよね。何か、言ってよ。いたよ。でも、天国からは何の返事もなかった。 「いないよちゃん。この前、雨が降ったでしょう」 「へえ。雨が降りましたのー。いたよちゃん」 「ちょっとやめてよ。いないよちゃん」 「へえ。何をやめるんでごわすか。いたよちゃん」 「その、へえ、とか、のー、とか、ごわす、とか、一体、どこの生まれ?乙女がそんなこと言うか?」 「へえ、そない言うちょったがな」 「よけいにおかしくなっとるで。どないしたん?」 「それぞれの地域で方言がありまんねん。ほやから、あたしも見習って、わし、自分方言を使おうと思ったんじゃが」 「自分方言はええけど、相手に伝わらんかったら、意味ないで」 「ほなけん、うどん県に、野球拳、会話の一部だけ、方言を使ってまんがな」 「やりにくいつか」 「わしだけでなく、あんたも使ってまっせ」 「やっちゃれや、やっちゃれや」 「よさこい方言かいな。いたよちゃんの方が、乗っとりますなあ」 「しゃべる阿呆に、聞く阿呆や」 「どうせしゃべるなら、使わなそんそん」  二人は右手右足、左手左足を同時に動かしながら、舞台からはけた。 あたしは今日も自分のベッドの中にいる。いたよちゃんが亡くなってから、何か月がたつのだろう。相変わらず、頭の中ではいろいろと、お笑いのネタを考えているものの、いざ、口に出そうとすると出てこない。マネージャーの高橋さんは気を使って、舞台じゃなく、ラジオ番組の仕事をとってきてくれたけど、いざ、マイクの前に立つと、やはり言葉が出てこない。 頭の中には白い氷原が広がっている。その氷原の下の海中には、溢れるぐらいの言葉が群をなして泳いでいるものの、厚い氷に閉ざされて、出てこない。突き破れない。あたしは氷原に身を呈す。体温でその氷を溶かそうとする。それでも溶けない。 反対に、あたしの体の方が凍りつきそうだ。仕方がないので、紙に言葉を書き、番組の司会者に渡す。司会者があたしの言葉を読んでくれて、何とか番組は成立する。でも、お笑いのようなテンポはない。視聴者の期待に応えられない。せっかく仕事を見つけてくれた高橋さんには悪いことをしたが、これがあたしができる精いっぱいのことだった。 それ以来、ラジオ番組からも呼ばれることはなくなった。日がな一日、自分のマンションで、しかも自分のベッドで過ごし、家の外には出なくなった。週に一回、あの、世間知らずの、話の噛み合わない、医師のいるクリニックに通う以外は。高橋さんは、あたしのマネージャーを離れ、別のお笑いコンビの担当となった。それでも、あたしのことを気にかけてか、月に一回くらいは、あたしのマンションを訪れてくれる。 「どう、元気?いや、変わりない」 無理には元気づけようとしない高橋さん。彼女のためにも何とかして、お笑いの世界に戻ろうとするものの、ギャグを言おうとすると、うぇっとえずいてしまう。すぐさま、濡れたティッシュで口を拭う。ウェットティッシュだ。こうした状況でも、体はお笑いは忘れない。 うぇっと症候群。クリニックの医師が診断した病名だ。何でも、病名をつければいいわけではない。それに、病名がわかったところで、あたしのうぇっとが治るわけでもない。病名をつけること、病名をみつけることが医者の仕事だと思っている。だが、そんな医者でも、あたしは治療のために通った。他に頼るすべがなかったからだ。高橋さんを除けば、世間と、社会と唯一のつながりであったからだ。  四 続、診察室にて 「どうですか」 このすっとボケたしゃべりがいい。いつものように電子カルテを見ていた医師がこちらに向いた。 「ええ、変わりないです」 「そうですか。変わることも大事ですけど、変わらないことも大切ですよ。はい、診察しますよ」 医師はあたしの眼を見開き、鼻の穴を広げ、「はい。あーんして」と口を開けさせる。服を上げてください、とあたしのお乳とお腹の四段堤防を見て、聴診器をあてる。「はい、反対向いて」と、服を上げたままの状態で、今度は、背中に聴診器をあてる。 「異常ないですね。はい、以上」 しょうもない洒落だが、今のあたしには心地よく聞こえる。それから二人で、とりとめもない会話をする。ここで話をする時は、胸の高ぶりはない。うぇっという吐き気もない。素直に話せる。次から次へと言葉が出てくる。プレッシャーがないためなのか。 そう言えば、お笑いをしていた頃は、何を見ても、ネタになるんじゃないか、これおもろいわ、いたよは笑ってくれるやろか、お客さんに受けるやろか、と一分六十秒、一時間六十分、一日二十四時間、一年三百六十五日、四年に一回は三百六十六日、一生百年、そんなに生きられるか、と自分に突っ込みを入れながら、やっぱり笑いを求める性分だ、とずっと考え続けていた。 それはそれで面白く、楽しく、刺激的だったが、どこかで過剰な無理をしていたのかも知れない。過大なストレスもあった。それを、毎日の仕事、舞台、いたよとのネタ合わせで、忙しくふるまい、ストレスさえも意識的に忘れようとした。それが、いたよが亡くなり、あたしが一人ぼっちになったことで、あたしを縛りつけていた緊張がほどけて、バベルの塔がもろくも崩れたのだ。「笑いは緊張の緩和だ」と、自殺した天才的な落語家が言っていたように、あたし自身が緩和してしまったのだ。 あーあ。崩れる。そうわかっていながらも、あたしは何もすることができなかった。いや、反対に、あたしのバベルの塔にあたしが乗り込んで、ストレスと一緒になって、塔を壊し始めたのだ。 額にタオルを巻き、お腹に腹巻をして、黒い長靴を履いたあたしが、ツルハシを持って、塔を壊している。なんだ、そのかっこうは。それじゃあ、悲劇のヒロインにならないじゃないか。傍観するあたしがツルハシ女に突っ込む。すると、ツルハシ女は「突っ込んじゃいないよ。壊してんだい」と、汗を拭いながら、何度も何度もツルハシを持ちあげては、そのまま落としていく。あたしは突っ込むことやめ、ただ、ツルハシ女のすることを黙って見つめていた。 「話変わるけどなあ。いないよちゃん」 「なに、なに、なに?」  いないよが、お腹を突き出していたよに迫る。 「そんな大きな体で、寄って来んとって。押しつぶされそうになるわ」 「なに、なに、なに?いたよちゃん」 「もうええから、向こうへ行ってえなあ」  いたよは、いないよのお腹を両手で突き飛ばす。それでも、いないよは、更に、お腹を突き出して、いたよに迫る。 「なに、なに、なに?」  いたよは、寄り切ろうとするいないよから身ををかわす。いないよは、目の前にいたよがいなくなったにも関わらず、そのまま突き進む。 「あんた、どこへ行くんや。舞台下りて、お客さんのとこ行ったらあかんがな。はよ、戻っておいで。すんませんなあ、お客さん。これから首輪と鎖をつけて、半径一メートル以上は行かせないようにしますから」  いないよが、客席から舞台の上のいたよに向かって叫ぶ。 「ワン。あたしは犬か。キャッ。それとも、猿回しの猿か。ワンワン、キャッキャッ」 「やかましいわ。いないよちゃん。あんた、自分から犬や猿の鳴き声しているで。はよ、戻っておいで。骨とバナナあげるから」 「何が、骨や。何が、バナナや。あんたが向こうへ行け言うたから、行ったんやで。はあ、はあ、はあ」  いないよは、夏の木陰に寝そべっている犬のように、舌を出しながら舞台に上がってきた。 「息をするんのに、舌まで出さんといて。息づかいまで犬になっとるで」 「適応能力が高いんや」 「難しい言葉知ってるなあ。早い話が単純なんやろ」 「単細胞とも言います。あんまり、誉めんといて」 「誰も誉めとらんわ。その性格、いないよちゃんがうらやましいわ」 「だから、あんまり誉めんといて」 「あんたやったら、世界中に誰もおらんようになっても、一人で生きていけるわ」 「そうかいな」 「素直やなあ。感心するわ」 「お客さんなあ。何でも素直が一番ですよ。この素直のおかげで、こんなにすくすくと大きくなったんです。今ではスクール水着は入りません。風船のように破けてしまいます」 「スクール水着や言うて、懐かしいなあ。それにしても、腹張ってどうすんのん?」  いないよの腹を叩く、いたよ。 「腹やないわ。胸や。胸張っとんのや。腹張っとんのは、食べ過ぎやからや」 「そりゃそうや。朝からどんぶり飯三杯も食べたら太るで」 「三杯やないわ。四杯や」  いないよは、親指を曲げて、四本の指を示す。 「威張ることかいな。そんなんどっちでもええわ」 「ええことないわ。最近、昨日の夕飯、何食べたんか、思い出せんようになってきてなあ。いたよちゃんは、そんなことないか?うどんやったかいな、カレーやったかいな、カレーうどんやったかいな」 「うどんとカレーしか食べてないんかいな」  いたよは、あきれたように両手の手のひらを上に向けた。 「いや、うどんカレーも食べとるで」 「カレーうどんとうどんカレーは一緒やろ」 「一緒やないで。うどんにカレーをかけるのがカレーうどんや。カレーにうどんをのせるのがうどんカレーや」  自慢そうに、うんちくを語る、いないよ。 「順番が違うだけやろ」 「その順番が大事なんや。先にカレーを味わうのと先にうどんを味わうのでは、これからの人生の進む方向が大きく変わるで」 「そんな大げさな。ほなら、どう変わるんや」 「先にカレーを味おうたら、華麗なる人生で、先にうどんを味おうたら、う鈍な人生になるんや。どうや」 いないよがドヤ顔になる。観客から拍手が鳴った。 「お客さん。お客さん。拍手はいらんで。癖になるから」 いたよは、観客席に向かって大きく否定の手を振る。 「何が、癖になるんや。わたしらお笑いは、お客さんの拍手を食べて、芸人として大きく成長できるんや。なあ、お客さん」 再び、観客席から拍手が鳴り響いた。 「たまには、ええこと言うなあ。それで昨日の夕食は何を食べたんか思い出したか?」 「ラーメンやった」 「カレーやうどんと違うんかいな」 「まあ、そういうこっちゃ」 「そればっかしやなあ。そやけど、いないよちゃんは、昨日何食べたか忘れてもしょうがないわ」 「なんでや」  いないよは、眼を丸くする。 「あんたは、一日十食以上も食べとるやろ。どれが朝ごはんで、どれが昼ごはんで、どれがおやつで、どれが夕ごはんかわからんようになるやろ」 「ほな、これから、全部朝ごはんにするわ。これで間違えんで済むからな」 「もうええわ」 いつも面白いことを言わなければならないというプレッシャーがあった。プレッシャーに負けまいと、いろんな面白いことを考えた。思いつくたびに、ネタ帳に書きこんだ。だが、一つも思いつかない時もあった。そんな時は、自分の存在自体を否定されたような気がした。 お前なんか、名前の通り、いなくなってしまえ。どこからかそんな声が聞こえてきた。いやだ、いやだと思う気持ちと、その通りだと思う気持ちで、大きく振り子が揺れた。それを打ち消すかのように、あたしは食べた。お笑いはしゃべるのが商売だからと、目の前にあるのど飴を口に放り込んだ。それぐらいでは、面白いことは思いつかない。 そうだ。体にはビタミンCがいいんだ。あたしはかごに盛っているみかんに手を伸ばした。つめの先が黄色くなるくらい、多分、口の中も、喉も、胃の中も黄色くなるくらい、みかんをむさぼった。食べている間だけは、面白いことを考える必要がなかった。だから、純粋に、美味しいとか、辛いとか、もっと甘い方がいいとか、感じたままのことを口に出した。 だけど、食べ終わると、手帳の白いページを前に筆が止まる。もっと面白いことを考えなければと、強迫観念に襲われた。みかんの汁がその手帳に飛んだ。黄色いしみ。そのしみにライターの炎を近づけた。あぶってみた。だが、しみからは何も浮き上がって来なかった。あっちっち。あたしの指が燃えそうになった。あたしは笑った。これはネタになるのか。自虐ネタだ。 その間にも、ガムを噛んだり、ジュースを飲んだり、せんべいをかじったり、飴を舐めたりと、始終口を動かし続けた。舞台の前には、ポッキーを十本、それもポキポキポキポキポキポキポキポキポキポキと音を立てながら食べた。ちゃんと十回鳴った。もし、十一回鳴れば、ホラー、怪談になる。どうだ、ネタとして使えるか。早速、舞台にかけた。お客さんは笑わなかった。相方のいたよだけが引き吊った笑いをしてくれた。あたしの首がポキっと鳴った。 舞台が終わった後は、板チョコを十枚、甘さで口の中が痛くなるように、試練のように、踏み絵のように食べた。板チョコだから痛いチョコ。どうだ。だが、こんなネタでは誰も笑わない。 あたしの体は、高校時代にソフトボールのキャッチャーをしていたこともあり、もともとぽっちゃりとしていたが、食べ物から強制的に栄養分を搾取することで、ひと周りもふた周りも太くなった。お乳が垂れ、お腹が二段腹から三段腹の山脈になった。そこを相方のいたよが突っ込んで来る。 「いないよちゃん。あんた、牛さんみたいやで。お乳が八つもあるんとちゃうか」 その言葉にお客さんが笑った。受けたのだ。面白いことを考えることから逃げるために食べ続けた結果が、面白い体になっていた。あたしは救われた。食べることに、食べ過ぎることに嫌悪感を抱いていたが、それは間違いだった。食べることで、太ることで、あたしは笑いを、お客さんからの人気を獲得した。  あたしと正反対なのが、いたよちゃんだった。いたよちゃんも、あたしと同じように、面白いことを、ネタを考え続けていた。そして、思いつくと、あたしのようにネタ帳に書きなぐっていた。だけど、いつもいつも、そう面白いネタがあるわけではない。白紙のページが続く、ネタ帳を開いてもボールペンを持ったまま、お地蔵さんのように身動き一つしなかった。 それが続くと、ネタ帳を開くことが少なくなってきた。ネタを考えられない自分が悪いのに、まるでネタ帳が悪いかのように、ネタ帳を嫌悪した。眼に入れば、そこから遠ざけ、また、時には、ネタ帳をソファーに向かって投げつけた。その時、吐き気をもよおし、トイレに駆け込んだ。胃の底から、腸の中から、絞り出すように食べた物を吐いた。吐き続けた。 吐く間は、ネタを考えることから忘れることができた。吐く辛さよりも、ネタを考えることの方が辛かった。それ以来、物を食べる度に吐いた。以前は、喉に指を突っ込んで吐いていたが、今は、食べ物を見ただけで吐けるようになった。パブロフの犬じゃないけれど、いたよちゃんのおう吐だった。 もちろん、何も食べていない時は、出てくるものと言えば、胃液しかなかった。食べては吐く。吐いては食べる。食べなくても、胃液を吐く。そんな生活を繰り返した。あたしが太る一方で、いたよちゃんはやせ続けた。いたよちゃんは、そんな自分を嫌悪し続けていた。はたから見ても、いたよちゃんは、名前の通り、いたいたしかった。 ある日のことだ。 「いたよちゃん。出汁の出ない鳥ガラみたいやなあ」 舞台に立ったあたしは、何気なく呟いた。その言葉に、お客さんが笑った。受けた。首を絞められ断末魔をあげたようないたよちゃんの顔がぽっと赤くなった。生気が蘇った。 それからだ。いたよちゃんは、吐くことに何のためらいもなくなった。さすがに、舞台の上では吐かなかったものの、楽屋では、平気で、洗面台の前で吐いた。移動の車の中でも吐いた。エルメスのバッグからスーパーのビニール袋を取り出すと、その中に吐いた。おえーおえーの吐き続けるいたよちゃんの横で、えおー、えおーと掛け声をして、あたしはまんじゅうを、あんパンを、せんべいを、ほおばり続けた。 五 春やで・夏やで 「いないよちゃん。春やで」 「ほんまやなあ。いたよちゃん。春やなあ」 「春や言うたら、何を思いだす?」 「そりゃ、桜もちやろ。いちごも美味しいで」 「あんたは、食べ物のことしか頭にないんか」  いたよが、いないよの頭を掴んで揺する。 「頭を揺すらんといてなあ。頭だけでないで。ほら、この体を見てみい。全部、食べ物からできとるんやで」 「あたりまえや。何、開き直っとんのや」 「ほら見てみい」 手や足を開き、大の字になるいないよ。 「隕石の塊みたいな体をお客さんに見せてどないすんのや。ぶつかってくるんかと思うて、お客さんがこの劇場から逃げてしまうやろ」 「あんたが、あたしのことを開き直っとると言うから、体を開いただけや。それに、誰が隕石や。あたしは、M七十八星雲からやってきた、ウルトラマンの妻のウルトラウーマンかいな」  いないよは、右手の拳を握り締めて、空に向って突き出した。 「誰がウルトラ―ウーマンや。そんなこと、ミジンコほども言うとらんで。ほんま、あんたは、転んでもただでは起きん性格やなあ。あんたに何を言うても、そのゴムまりが爆発したような体で跳ね返されてしまうわ」  いないよのお腹を指で突く、いたよ。 「お腹を突かんとって。それにしても、隕石から、今度はゴムまりかいな。いたよちゃんは、いろんな例えが言えて、かしこいなあ」 「いや、いないよちゃんこそ、いろんな物に例えられて、うらやましいわ」 「ありがとう」 「いやに、素直やなあ」 「いたよちゃん。やっぱり、素直が一番やで。甘いもんも、辛いもんも、苦いもんも、酸っぱいもんも、みんな、美味しいんや。ほら、見てみい。何でも素直に食べたおかげで、こんなに大きくなったで」 「いないよちゃんの話は、やっぱり食べ物に行きつくんかいな」  いたよがあきれたように、そして、親しみを込めて、笑う。 「まだまだ大きくなるで」 「もう、ええわ」 拒食症と過食症、というコンビ。それを武器に、と言うか、結果的にそうなったのだが、お客さんから笑いを取り、仕事は、舞台からテレビ、映画と順調に増えた。ある意味、いたよちゃんは、自分の身を削りながら、あたしは食べ物と言う鎧を身に着けながら、お笑いの世界を突き進んでいった。そんな二人に転機が訪れた。人を笑わすことが好きで入った世界で、人を笑わすことの難しさを知り、人を笑わすことの意味に、迷いが生じてきたのだった。 自分は、自分たちは、何をしているのだろうか、どこへ行こうとしているのだろうか、このままでいいのだろうか。このまま年をとるのだろうか。年をとったらどうなるのだろうか。いつお笑いをやめるのだろうか。やめた後はどうなるのだろうか。不安と安不が交互に訪れた。 ああでもない、こうでもないと、様々なことが頭をよぎる。面白いネタは浮かばないのに、将来への不安は、モグラたたきのモグラのようにどこからでもあたしの脳みそを突き破って、しかも、たけのこのように大きく成長する。そうなると、叩いても引っ込まない。悪戦苦闘しながら、その不安をノコギリで押したり引いたりして切り取るか、鉈を振り下して倒すしかない。不安を切り取った瞬間、疲れ果てたあたしは大地に倒れる。その間にも、別の場所から、不安のたけのこが地面を突き破り、元気よくずんずんと伸びていく。 「いたよちゃん。もうすぐ夏やけど、夏休みにはどこかに行く?」 「そうやなあ。あたしは海や。最近、新しい水着を買うたんや。ひまわりの花柄やで」  いたよは、まるで水着を着ているかのように、舞台の上をモデル歩きをする。その様子を見て、いないよが 「いたよちゃんはスタイルがええから、水着がよく似合うわ」と誉める。 「そんなことないわ。あんまり誉めんといて」  誉められ慣れていない、いたよが、内股になって、可愛い子ぶる。 「最近は、犬と一緒にサーフィンをする人もいるから、鳥ガラも泳いでも許されるんとちゃうか」 「誰が鳥ガラや。それに、あたしが泳ぐのに、なんでいちいち許されないといかんのや。それなら、いないよちゃんはどこに行きたい?」 「そうやなあ。あたしも、やっぱり、海かな」 「海で何すんのん?ビーチ相撲か?」 「なんで、海水浴場へ行ってまで相撲せなあかんのや」 「最近、ビーチバレーやビーチサッカー、ビーチ将棋にビーチ神経衰弱なんか、砂浜でスポーツするのがはやっとるやろ」 「砂浜で、将棋やトランプはせんやろ。そんなんやっとったら、日射病で頭がくらくらになって、考えられへんで。それこそ、神経が衰弱してしまうわ」 「うまいこと言うなあ」  感心する、いたよ。 「そうか。それなら、ビーチアイススケートもあるし、ビーチ水球もあるで」 「夏のビーチでは、氷は溶けてしまうやろ。砂の上には水がないから、水球はできんで」 「あんまり細かいこと言わんといて。これはお笑いや。常識をくつがえすんのがお笑いや。ドラえもんのどこでもドアみたいに、どこへでも行けるし、何にでも笑えるんや」 「確かに、いないよちゃんは、ドラえもんや」 「今度はドラえもんかいな。人を体型で判断せんといて。それにしても、海や言うたら、やっぱり海水浴やで」  いないよが、舞台の上で、泳ぐかっこうをする。 「なんや。海水浴場で、夏祭りかいな」 「違うわ。これは盆踊りと違う。クロールや」 「いないよちゃんも泳ぐんかいな。そのドラえもんの体に合う水着を売っている店があるんかいな」 「失礼やなあ。ある訳ないやろ。あたしはドラえもんやで。店で買わんでも、自分のポケットから出すわ」 「何、自慢しとんのや。それやったら、いないよちゃんは水着を付けんでも、誰も気がつかんわ」 「そうかいな。真っ裸やで。そんな訳ないやろ」 「ダダダダダダダダ、って音楽が聞こえてきたら、海で泳いどった、あたしみたいな、若いスタイルのええ可愛いらしい女の子が、キャーって可憐な声を上げて、海中に引っ込まれるんや」 「なんや、いつの間にか、あんたも海に来たんかいな」 「あんたのお腹のドアを使わしてもろたんや。これなら、どこにでも瞬時に行けるで」 「それはええけど、あたしみたいなスタイルのええ可愛らしい、はいらんわ。ドラえもんのドアでも、そこまでは変えられへんで。それから、どないなるんや」 「いちいち突っ込まんといて。それが、何人も続いて、海水浴場では、何とかせなあかんや言うて、宇宙戦艦ヤマトに頼むんや」 「今度は、宇宙戦艦かいな。そこは宇宙やなく、海水浴場やろ?」 「何でも、話が大きい方がええんや」 「大きすぎるわ。ほんで、どうなるん?」 「また、ダダダダダダダダダと音がしてきて、宇宙戦艦ヤマトが、その音に向かって波動砲を撃つんや」  大砲を撃つ真似をする、いたよ。 「海水浴場に波動砲かいな。地球が壊れてしまうで。それに、音楽やけど、さっきよりダが一つ多いで」 「なんや、数えとったんかいな。体が太っとい割りに性格が細かいなあ。そんなんでは、このストレス社会を乗りきれへんで。もっと、おおらかに。おおらかに」 「そんなに、首に筋を立てて、しゃべらんでもええんとちゃうか。まずは、魁よりはじめよ、や。自分の首筋をおおらかにした方がええで。その首筋を見ているだけで、ストレスが溜まるわ。それが原因で、太ってしもたわ」 「ほっといて。あんたが突っ込むから、時間が押しとるで。ほら、舞台の袖から、進行係が手を回しとるで」  いたよは、下手の舞台を見る。 「あたしらはとんぼか。そんなに手を回したら眼を回して舞台の上で倒れてしまうわ。あはあーん。あんた、あたしに気があるな。あたしを気絶させて、どうにかしようという魂胆かいな。えげつないやっちゃ」  いないよも下手の舞台の方を見る。 「いないよちゃん。あんた、誰としゃべってんねん。お客さんはこっちやで」 「ほんで。宇宙戦艦ヤマトがどうなるん?」  正面を向く、いないよ。 「なんや。ちゃんと聞いてくれとったんかいな。変わり身が早いなあ。その音に向かって波動砲を撃つんや。すると、いないよちゃんが、海面に浮いとったんや」 「あたしは、鮫のジョーズか」 「いや水泳の上手なドラえもんや」 「ドラちゃん、ドラちゃん」  いないよは、背泳ぎから、平泳ぎ、バタフライ、クロールと泳ぐ真似をして、舞台の上を所狭しと動く。そんな姿のいないよにあきれて、いたよは 「お後がよろしようで」と、言って、舞台から袖に引っ込んだ。 「ちょっと待ってえなあ」  いないよは、いたよの後姿を追った。 お笑いのネタを考えるのにストレスを感じたものの、いないよちゃんと一緒に舞台に立つのは楽しかった。面白くないネタでも、彼女が突っ込んでくれるので、話が広がった。お客さんも楽しんでくれた。彼女なしでは生活が成り立たなかった。あんなにネタを考えるのに苦痛だったのに、いざ、いないよちゃんがいなくなった今、ネタを考えなくてもいいとなると、余計にストレスを感じた。生きること自体にストレスを感じた。 フロアーに落ちているゴミを見つけると、無性に拾いたくなった。床に座りこんで髪の毛一本でも拾った。ゴミがなくなると、ポケットからティッシュを取り出し、ちりじりに引きちぎると床にばら撒いた。そして、それを拾った。部屋の中を、熊のように。いや、いないよちゃんなら、相撲取りのようにと言うか、歩き回った。一周し終えたら、もう一周した。バターになるぐらい部屋の中をぐるぐると歩き回った。でも、体中に脂肪は着いているものの、バターにはならなかった。 それが何日も続くと、今度は、反対に、ゴミを拾うことに無頓着、無関心になった。パンの袋やチョコレートの銀紙をはじめ、新聞やチラシなどが、床やテーブル、洗濯機の上などに広がった。それでも、全然、気にならなかった。ゴミの上に、ゴミが重なる。まるで、ゴミの古墳で、ゴミの地層だ。その中でうずくまるあたしもゴミなのか。自己嫌悪を通り過ぎると、かえって、日向ぼっこをしているような長閑な気持ちになった。地球滅亡の最後の日は、こんな気持ちになるのだろうか。だが、地球滅亡の最後の日よりも、あたしの滅亡の最後の日の方が近いだろう。 「いないよちゃん。元気?きゃあー」 玄関から元気な声が聞こえてきた。元マネージャーの高橋さんだ。いつもなら、玄関から入って来た後、すぐにリビングのドアを開けるのに、今日は、なかなか入って来ない。そう言えば、さっき、悲鳴のような声もした。 のろのろと立ち上がるあたし。ところどころで、床に散らばっている雑誌や積み重なった新聞などにつまずきながらも、ようやく、この世界から抜けだせるドアを開けた。 いや。開かない、開かぬなら開けて見せよう、本能寺。久しぶりに、何にも考えていないけれど、面白いことが言えた。忘れないうちに、ネタ帳に書いておこう。それで、ネタ帳はどこだ。ない。いや、あるのだろうけれど、あまりにも、部屋中に物が散乱していて、どこにあるのかわからない。 早く書かないと忘れてしまう。何か書くものは。辺りを見回しても、ゴミの山ばかりだ。新聞紙の隅でも、チラシの裏でもいい。何かないのか。あった。広告のチラシだ。 あたしはそのチラシを裏返して、さっきのお笑いのネタを書き留めようとすると、「た、助けて」とかぼそい声が聞こえた。高橋さんの声だ。どうしたんだろう。何かあったのか。ネタを記録することよりも人命救助が先だ。 あたしは、あたしになりに急いで(第三者から見れば、動物園のなまけもの動きだろうが)玄関に向かった。リビングから玄関に通じるドアが、ドアが開かない。何かが邪魔している。ガラス越しに見えるのは、人影だ。高橋さんか。 「ちょっと、そこをどいてくれない?ドアが開かないの」 声だけでなく、ドアを叩く。ノックだ。中からノックだ。ふと思う。部屋の中から外に向かってノックするのは可笑しい。だって、自分はここにいる。入っています、と、外から声を掛けられる前に、先に、中からノックをすればいいのか?これは可笑しい。恐怖の中からノック。そんなトイレの個室には、誰も近づかないだろう。これは、ネタになるかな。鉛筆は?ボールペンは?ネタ帳は?と、再び、物だらけの部屋の中を見渡す。そのうちに、ノックもないのにドアが開いた。 「いないよちゃん。大丈夫?」 そこには顔を引きつらせた、大丈夫そうには見えない高橋さんが立っていた。 「ありがとう。それより、マネージャーこそ大丈夫?」  高橋さんの顔から足先までを、上から下へ、下から上へと順に見つめる。 「ちょっと滑って、転んじゃった。あははは」 高橋さんは、ところどころに見え隠れする茶色の床を確認するようにゆっくりと足を出した。 「ちょっと、ひどいんじゃないの」 高橋さんが、あたしの部屋の中を見回した後に出た、第一声だった。 「そうね。ちょっと散らかっているかも」 「ちょっとじゃなくて、かなりよ。ふう」 高橋さんは安住の地をやっと見つけたかのように、椅子に腰を下ろした。 「痛い」 高橋さんが突然立ち上がり、お尻を触っている。椅子には数個の押しピンが転がっていた。ここには安住の地はないのだ。あたしにも、高橋さんにも。 「もう。やだ。帰る」 訪れた要件も言わず、その言葉だけを残して、高橋さんは部屋を出て行った。玄関前で、もう一度転び、二度あることは三度ある、の格言を実体験しながら。 あたし、高橋さんとお笑いのコンビを組もうかしら。高橋さんは、マネージャーからお笑い芸人に転向。転びマネージャー。面白い。早速、ネタ帳に書かないと。あたしは少し元気になったような気がした。  六 無存在の存在 「どうも。いたよです」 「どうも。いないよです」 「二人合わせて、無存在の存在です」  いたよが、無表情の顔をする。 「いたよちゃん。今日はどうしたん?熱あるんとちゃう?」  いないよが、いたよの顔を両手で挟む。 「何、額を触っとんのん。熱なんかはないわ」 「えらい、哲学的なこと言うから、びっくりしたわ」 「たまにはええことも言わんと、アホやと思われるやろ。やっぱり、勉強せなあかんで。勉強や。勉強や」  ポケットから本を取り出して、読むふりをする、いたよ。 「ええ!」 「何、驚いとん?」 「いたよちゃん。アホとちゃうかったんや。いつもアホなこと言うとるから、てっきりアホやと思っとったのに」 「それこそ、アホや。アホをしとんのは、仕事や。お仕事、お仕事。舞台の上は、かりそめの姿や。家に帰ったら、新聞や本を読んだり、わからんことはネットでサーフィンしたりして、勉強しとるで。普段の生活まで、アホしったら、ほんまにアホになってしまうし、生きていけんわ」 「かりそめ、やて。また、むつかしいこと言うわ。あたしも、かりそめしとんのや」 「いないよちゃんもか。何、かり そめしとんのや」 「ほら、この髪の毛見て。ところどころに、白いん入れてるやろ。仮に染めとんのや。次は、黄色を入れて、緑も入れて、赤も入れて、最後は黒や。どうや、オリンピック染めは。これで、世界が平和になるで」  いないよは、ショートカットの髪の毛をおもむろに両手で掻き上げた。 「かりそめの意味が違うわ。ただし、髪の毛を染めんでも、あんたの頭の中は、平和やと思うわ」 「それ、どういう意味や。「かりそめ」って、髪の毛を仮に染めるんと違うんやったら、火縄銃で、「そめ」を狩るんかいな。まだ真っ暗の朝の三時に起きて、山に入り、抜き足、差し足、忍び足で、まだ寝ている「そめ」に近づくんや。「そめ」は夜行性やから、朝はまだぐー、ちょき、ぱーといびきをかきながら寝とんのや」 「どんな、いびきや。いびきでじゃんけんしとんのかいな」  右手でぐー、ちょき、ぱーをする、いたよ。 「多分、夢の中で、仲間とえさの取り合いしとんのやろ。「そめ」は平和主義者やから、争い事は好まんのや。そやから、じゃんけんで、エサ場を決めとんのやろ」 「ほう。それなら、「そめ」はええ奴やなあ。ほんで?」 「その寝ている「そめ」に向かって、火縄銃を向けるんや。向こうは寝ているから、一発で仕留められるわ」 「平和主義者の「そめ」を人間は銃で殺すんかいな。人間は「平和主義者」やないんやなあ」 「そんなことないで。「そめ」を仕留めた後は、「平和主義者」になるんや。みんなで仲良く一緒に、「そめ」を食べるんや」 「それは、平和主義やのうて、ご都合主義や。それにしても、今の時代に、火縄銃はないで。それに、「そめ」って何や。クマか、鹿か、それともいのししか?最近、クマが人里にあらわれて人間を襲うらしいからなあ。イノシシも街中を走るらしいで」 「わかりましぇーん」 いないよは、三段腹を突き出す。 「何、胸、いやお腹を張っとんのや。わからんのやったら、言うな」 「あーあ、わかった。近所に住む「刈り 祖芽」さんのことやろ。この人はえらい人で、毎朝、散歩しながらゴミを拾とんのや。人の家に入っては、新聞受けの新聞を取ったり、配達された牛乳を空にしたり、花が咲いとったら、摘み取って、自分の家に飾る有名人や」 「それは、犯罪やで。警察に言わんと!」  エア電話で警察に電話をするふりをする、いたよ。 「ほんでも、たまに、「刈り 祖芽」さんに会ったら、「いないよちゃん。仕事を頑張ってるなあ。テレビ観て、応援してるで。これを飲んで、元気つけて」って、脇の下から牛乳を出すんや。それが微妙に温うて、人肌言うんかいな、美味しいんや」 「あんたも泥棒の仲間かいな。ほんまに「刈り 祖芽」さんいう人、おるんかいな?」 「わかりましぇーん」 いないよは、再び、三段腹を突き出す。 「またかいな。そんな恥ずかしいもん、人目にさらさんといて。それに、わからんかったら、無理に、名前にせんでもええやろ。いないよちゃんは、早い話、かりそめの意味を知らんのやろ」  いたよは、いないよを小ばかにしたような目で見る。 「おっ、上から目線やなあ。こうやって、あることないこと言うて、そのうち死んでいくんが、人間のかりそめの世界や」  悟り切ったような顔で目をつぶる、いないよ。 「なんや、難しいこと言うなあ。ほんでも、あんたは、あることじゃなくて、ないことばっかり言うてるで」 「なんせ、名前が「いないよ」やからな」 「もう、ええわ」 「どうですか」 相変わらず電子カルテの画面だけを見つめている医師。こちらを見ようとしない。でも、その方が安心できる。見つめられると言葉が出てこない。診察室の椅子に座っただけでも、舞台に立っているような気がするからだ。お客さんはあたしはひとり。 確か、いたよちゃんとコンビを組んだ最初の頃は、お客さんが一人だった。それでも、舞台の上でしゃべり続けた。お客さんのことは目もくれずに、目の前の、いたよちゃんを笑わすことに一生懸命だった。多分、お客さんを見る余裕がなかったからだろう。それでも、そんな舞台を繰り返し続けた。 ある日、「あっはっはっ」とあたしの耳に笑い声が聞こえた。いたよちゃんの声じゃない。男の人の笑い声だ。あたしはその笑い声がする方向を舞台の上から見た。観客席の一番後ろの席だった。年齢は五十歳ぐらいだろうか。背広を着ている。中年のサラリーマンか。仕事の帰りか。大きな口を開けて笑っている。そんなに面白いことをあたしは言ったおぼえはない。 あたしはその男の人を見た。そして、舞台の右奥から左奥、真ん中、前の端と、全体を見回した。お客さんの数は、まばらだ。でも、よく見ると、サラリーマンのように、笑い声は出さないけれど、手に口を当てたり、俯いて肩をふるわせたり、かすかに口を開けたりと、それぞれの方法で笑っている。お客さんが笑っている。ほっとした。緊張が緩んだのか、その笑い声であたしも一緒に笑った。面白かった笑いではない。安心し、安堵した笑いだった。 「いないよちゃん。あんた、どこを見てんの?お客さんが笑うんを見てる暇があったら、面白いこと言ってよ」 いたよちゃんが突っ込んで来た。 あたしは隣を見た。いたよちゃんも笑っている。目で、このままでいいんだ、と合図している。あたしはようやく、お笑いができたと思った。お笑いは、あたしだけでやるものじゃなく、あたしといたよちゃんとでもやるのではない。舞台を観に来ているお客さんと一緒にやるものだ。どれ一つが欠けても成り立たないものなのだ。 だけど、今は、いたよちゃんがいなくなり、合わせて、舞台も、お客さんも失った。笑いを得るために苦労し、時間がかかったにも関わらず、それを失うのは、こんなにも簡単で、早いものなのか。あらためて、自分の過去を振り返る。 「変わりないですか」 医師がくるりと椅子を回し、あたしの方に向いた。 「ええ。変わりないです。でも、変わりたいんです」 「そうですか」 医師は再び、くるりと椅子を回し、再び、画面の電子カルテに「変わりなし」と打ち込んでいる。 普通、変わりなしは、異常じゃない、良好な場合に使われる。だけど、今、面白いことが浮かんでこない、面白いことが言えない、結果、人前に立てない、仕事ができない、そんな異常な状態が、普通の状態、変わりない状態なのだ。変わりたいのに変われないあたし。 「それじゃあ、また、一か月後に来てください」 医師が再び、こちらを向いた。あたしは、はい、と返事をして立ち上がり、診察室から出て行った。 七 いないよ降臨 あーあ。暇やなあ。以前は、毎日が仕事、仕事で、寝る暇もなく、移動中の車でも、ネタを考えていたけど、今は、自由や。ご飯も食べんでええし、仕事もせんでもええし、いつでも眠たいときに寝とったらええから、こんな楽なことないわ。こんなんやったら、早う、死んでもよかったわ。 それにしても、死んでも、こうして街の中をうろうろと彷徨うとは思わんかったわ。死んだ後、たましいが空に向かって浮いていって、後一歩のところで天国の門が見えたんやけど、急に後ろ髪が引っ張られて真っ逆さまに落ちていったんや。 こりゃ、いかん。このままでは地上に激突や、死んでしまうわと思うたら、いや、もう死んどんのか、と思う間もなく、スカートがパラシュート代わりに開いて、ふわふわと地面に着地できてよかった。 おかげで、愛用のピンクの毛糸のパンツが丸見えで恥ずかしかったわ。まあ、たましいのパンツなんて、生きてる人間たちは誰も見えないと思うけどな。それにしても、たましいになってまで、なんで、あたしはスカートや毛糸のパンツを履いとんかいな。助かったからよかったものの、不思議でかなわんわ。それに、後ろ髪を引かれるとはこんなことかいな。まさか、死んでから、こんな体験するとは思わんかったわ。 ほんまに、誰かがあたしの髪の毛を引っ張っとんやろか。後ろを振り向いても誰もおらへん。そう言えば、街中では、病院やらマンションから、たましいがどんどんと空に上っていくのが見えた。でも、中には、自分の家や病院の周りをぐるぐる回っているたましいもおる。ガードレールの近くに置いている花束の側で蹲っているたましいもおる。あのたましいは、交通事故で死んだ奴のものかいな。 それにしても、相方のいないよちゃんは、どないしてんのやろ?元気してんのかいな。お笑いやっとんかいな。あたしもやったけど、あの娘もお笑いしかないから、今でも舞台に立っとるやろ。新しい相方をみつけたんかいな。天に召されもせず、この世をふらふらすることしかできんのやったら、ちよっと舞台でも観に行ってみようか。たましいやから人間には見えへんやろ。入場券を買わんでも、タダで入れるで。もちろん、たましいやから、金もないけど。 いたよのたましいは、生きていた頃、出演していた演舞場に向かった。空中にふわふわ浮いていればいいので、タクシーやバス、地下手に乗らなくてもよかった。ただ、風にはまいった。街中には、どういう訳か至る所に風が吹いていた。ビル風だ。 生きている時には、建物の中にいたり、屋外に出てもすぐにタクシーに乗るなど、あまり外気に触れなかったので、それほど気がつかなかったが、ビルとビルの間には、かなり強い風が吹いていた。ビルとビルの間の狭い空間を空気が通るため、風が起こるのだ。 そこの間を通ろうとしても、向かい風に煽られて前へ進めない。そうかと思うと、急に、背中の方から風に押されて、その間を通り抜けることができた。束の間でも、喜んでいると、風は吹き続けるために、演舞場に行くには、すぐの四つ角を右に曲がらないといけないのに、大きく通り過ぎてしまう。 慌てて、戻ろうとするものの、向かい風なので、前に進めない。道路のガードレールにしがみついて、風が通り過ぎるのを待つ。足がないこと、足場が固まらないことが、これほど大変なことだと思わなかった。 ビル風だけでない。道路の上を進もうとすると、自分の前を走る車の風に煽られて、後ろに吹き飛ばされる。車風だ。すると、反対車線を走る車の風に煽られて、今度は、大きく前に進む。やったあと小踊りしていると、再び、後ろから車が走って来て、その風の勢いで、元の場所に連れ戻される。結果的に、同じ場所でとどまっていて、とても目的地の演芸場までたどり着けそうにない。 道路がダメなら歩道だ。いたよは、道路を抜けだし歩道にたどり着いた。だが、歩道でも、多くの人が行き交い、その度ごとに風が起こる。人間風だ。そのため、前に進んだり、後ろに戻ったりして、結果的に、同じ場所でとどまっている。 それなら、できるだけ風の抵抗を受けない地面に這いつくしかない。いたよは、ふわふわする体を道路の地面のすれすれにまで近づけて、ほふく前進する。歩行者たちは、いたよの頭や背中、お尻、ふくらはぎを遠慮なく踏みつけていく。 それでも、歩行者の靴は、たましいであるいたよの体をすり抜けて地面を蹴るだけなので、いたよに痛みはない。だけど、人々の足が自分を串刺しにするのは、痛みはないものの、嫌な気持ちになる。風の影響は受けるのに、人間に踏みつけられる影響はない。 たましいって、変な体や。これって、お笑いのネタに使えるかな。たましい通信って、のはどうやろか。 あれこれと考えているうちに、目的地の演芸場が見えた。あと、ちょっとだ。だが、すぐ側には演芸場に行く人が利用する地下鉄の出入り口がある。お客さんがどんどんと上がって来ては、演芸場に下りていく。みんな、漫才や落語なんか、お笑いが好きなんだ。ありがたいなあ。いないよちゃんも舞台に立っているかなあ。と、思う間もなく、電車が駅を出発したのか、地下鉄の出入り口から風が噴き出てきた。あーれーの声とともに、たましいの体は吹き飛ばされた。演芸場まであとわずかの距離だったのに。 ちぇっ。またか。目の前には演芸場の入り口。だが、そこまでには、地下鉄の出入り口という大きな試練がある。その入り口をじっと見つめる。人の動きがない。いまだ。風の抵抗を受けないように、ふわふわする体を押さえ、地面に這いつくばって、すばやく進む。抜けた。地下鉄の出入り口を越えた時、演芸場から多くの観客が出てくる。午前中の舞台が終わったのだ。まずい。思う間もなく、いたよの方に人が向かってくる。地下鉄に乗るためだ。前進する人から空気の圧力が向かってくる。いたよは歩道に這いつくばったものの、圧力風に押し出されて、再び、遥か彼方に吹き飛ばされた。 いたよは、何度か、前進と吹き飛ばされる後進を繰り返しながらも、ようやく演芸場にたどり着いた。その時には、もう、周りは暗くなっており、観客は誰もいず、全ての舞台が終わっていた。 いないよちゃんは、もう帰ったかなあ。いたよは、演芸場の看板を見た。ない。いないよちゃんの名前がない。上から下まで、下から上まで、漫才、落語、歌謡ショー、マジック、漫談、お笑い劇場と、何度も繰り返して看板を見るけれど、いないよちゃんの名前はなかった。まさか。いないよちゃんは、お笑いをやめたのか。 いたよは、自分の体なのに、自由にならないふわふわする体を何とか操りながら、演芸場の中で、いないよの姿を探し求めた。舞台は既に終わっていたので、芸人たちはいなくなっていた。演芸場の廊下や控室を探し回ったが、やはり、いないよは、名前の通りいなかった。 誰かが急に廊下から飛び出してきた。いや、いたよが飛び出したのだ。だが、いたよの体は人間とぶつかることなく、そのまま通り過ぎた。あっ、マネージャーだ。いたよがぶつかった?のは、かつてのマネージャーの高橋さんだった。 「ちょっと、マネージャー」 いたよがマネージャーに声を掛けるものの、高橋さんはどんどんと廊下を進んでいく。いたよは、ふわふわする体で高橋さんの後姿を一生懸命追いかける。やっと、追いついて、久しぶり!と高橋さんのマネージャーの肩を叩いた。 驚く、高橋さんの顔。いたよちゃん、生きていたの?もちろんよ。ほら、どう。でも、体はこの通り、ふわふわしているけれど、生きているよ。それより、いないよちゃんはどこ?元気にしているの?看板に名前がないけれど、お笑いはやめてしまったの?と、会話がはずむことを期待していた、いたよだが、高橋さんはいたよに気付くことなく、部屋の中に入った。そうか、あたしの声は聞こえないのか。あたしの体は生きている人には、気付かないのか。 じっと自分の手を見るいたよ。その手を顔に近づける。顔に触れる。手は皮膚を触らずに、いたよの後頭部を突き抜けた。ひゃー。ホラー映画だ。慌てて、手を元に戻し、再び、じっと手を見る。これじゃあ、だめだよな。 あらためて、自分が実体のないたましいだと思い知る。何でやねん。風の抵抗は受けるのに、人の体は触われないなんて。理不尽や。非常識や。金を返せ、と叫んだところで、どうしようもない。 でも、この体だからこそできることがあるはずだ。ピンチはチャンスだ。いたよは、高橋さんが入った部屋のドアを開けることなく、真正面から正々堂々と何の抵抗もなく入った。 部屋の中には、高橋さんと舞台監督の山ちゃんがいた。山ちゃんとは三十数年のつきあいだ。 「やまちゃーん」 死んで以来、久しぶりに会ったので、喜んでハグをした。だけど、いたよの両手は、やまちゃんの両肩をすり抜け、交差した両手はいたよの体もすり抜けた。 あちゃー。これってお笑いだね。死んでからも、まだまだネタが尽きない。生きる?こと自体がお笑いなんだ。これからは異界通信って、お笑いでもやろうかなあ。あれこれとお笑いのネタを考え続ける、いたよ。 それよりも、いないよちゃんのことが心配だ。ちょうど二人が、いないよちゃんのことをしゃべりはじめた。あたしの声は二人に届かず、また、あたしの手も二人に触ることはできないけれど、二人の声は聞こえる。よし。二人の会話にちょっと耳を傾けてみよう。 「どうなの。いないよちゃんは?」 やまちゃんは椅子に座った。これからじっくり話を訊こうとする姿勢だ。 「相変わらずね」 高橋さんは腕を胸に組んだまま、突っ立っている。 「相変わらずって?」 「人前に立てないの。いいえ。人前には立てるけれど、しゃべれないの」 「ネタがないのか?」 「ネタはあるみたい。本人はお笑いのネタを一生懸命考えたりして、ネタ帳に付けているみたい。でも、舞台に立って面白いことを言おうとすると、緊張して言葉が出てこないのよ」 「そうか。まだ、時間がかかりそうだなあ」 「そうね。あれだけの実績がある人だから、もう少し待つわ」 「そうだな。待つしかないな。それで、いないよちゃんは、ずっと家にいるの?」 「ええ。買い物や病院に行く時以外は、家に閉じ籠っているみたい」 「それから変えていかないといけないな。今度、俺も行ってみようか」  座っていたやまちゃんが立ちあがった。 「そうね。たまには、あたし以外の人が行った方が環境は変わっていいかもしれないわね。お願いするわ。やまちゃん」 「ああ。わかった。でも、なんて声を掛けたらいいのかなあ?いないよちゃん、みーつけた。そこに、いたの?いないの?って、ギャグはどう?」 「そうね。まずは、基本のおやじギャグからね」  高橋さんは、顎に手をあてて、左上を見ながら考えている。 「そんなにマジに分析しないでくれよ。俺は素人だよ。俺も部屋に閉じ籠ってしまいそうだよ」 「あはははは。ごめん。ごめん。つい、仕事柄、お笑いを分析する癖がついているの」 「おやじギャグでも、おばんギャグでもいいけれど、早く、いないよちゃんのお笑いが聞きたいなあ」  やまちゃんが再び、椅子に座り込んだ。 「それはあたしも同じよ。お客さんからも、いないよちゃんはまだって、よく聞かれるし、ファンレターだって、ほら、こんなにたくさん届いているのよ」  高橋さんは、控室の隅に置いてあるサンタクロースがプレゼントを入れるような大きな袋を指差した。 「へえ、すごいなあ。いないよちゃんには、見せていないの?」 「ファンレターが届いていることは伝えているわ。控室に置いてあるから見に来て、って話しているの。それが家から出るきっかけになったらと思って」 「それはいいね。ファンのみんなも、自分の境遇をいないよちゃんに重ねて、それを突き破ることを、いないよちゃんに期待しているんだろうな」 「そうよ。それがお笑いの力なのよ。後は、ほんのちょっとしたきっかけなのよ」 「そうだな。きっかけだな。それは、俺のおやじギャグかも」  やまちゃんが続けて何かを言おうとしたが、高橋さんがそれを手で制した。 「まあ、それは万が一にもないわね」 「ひえー。手厳しいね。でも、早く、いないよちゃんのお笑いの舞台が見たいね」 「それは、あたしも同じよ」 二人はそのまま黙り込んだ。 そうか。そうだったんだ。初めて、いたよは、今のいないよの状況を知った。舞台に立てないのか。人前でしゃべれないのか。いたよは、いないよとのお笑いコンビ時代のことを思い出す。これまでだって、お笑いのことを考え過ぎて、あたしは吐き続けざるを得ない拒食症になり、反対に、いないよは食べ続けざるを得ない過食症に陥った。それでも、二人でその病気とつきあいながら、舞台に立ち続けた。そう。二人で。 だけど、あたしは死んでしまった。もう、いないよと一緒には舞台に立てない。いや、舞台の上に漂うことはできるけれど、自分の姿はお客さんに見えないし、いないよにも見えない。あたしの声は、お客さんにもいないよにも聞こえない。これじゃあ、舞台に立っつても意味がない。いないよは、本当にひとりぼっちになってしまったのだ。 今のあたしでは、いないよを支えることはできないのか。こうして、ただ黙って、漂うことしかできないのか。また、拒食症になりそうだ。あっ、そうか。もう死んだのだから、食べる必要はないんだ。拒食症じゃなく、非食症か。何でギャグを言っているんだ。 あーあ。これからどうしよう。どちらにせよ、一度、いないよに会わないといけない。もちろん、会うと言っても、こちらが一方的に見るだけで、会話を交わすことはできない。だろう。それでもいい。いないよに会いたい。 いないよは、以前のマンションに住んでいるのだろうか。高橋さんの話を聞く限りでは、そうらしい。そこへ、行こう。行ってみよう。でも、その前に、あたしたちが立っていた舞台をもう一度見てみたい。いないよを救えるヒントがあるかもしれない。 いたよは、たましいというふわふわする体に、いないよを何とかしたいという高揚する心が加わり、全身を天井に引っ付きそうになるまで浮かび上がらせながら、観客がいなくなった舞台へと向かった。 八 再会?さよか ようやくだ。ようやくここに立てた。立つことができた。いないよは、真っ暗な舞台の上にいた。今日の演目は全て終わり、観客席には誰一人残っていなかった。でも、だからこそ、こうして立っていられるのだ。いや、これまでも、舞台に立つことへの恐怖はなかった。ただ、お客さんを前にすると、面白いことを言わないといけないのに、面白いことが言えなくなったのだ。 頭の中には多くのギャグが渦巻いているのに、いざ、口から出そうとすると、言葉がブーメランのように戻ってきて喉仏にぶち当たってしまう。開いた口はふさがらないじゃなく、開いたままで、お客さんの前で、アホ面をさらしたままとなる。 それでも、そんなアホ面を見て、笑ってくれればいいが、お客さんは白けた顔であたしを見る。勢いがないとはこういうことなのか。以前なら、間抜けた顔でも笑ってくれた。でも、それは次があるからだ。次に面白いことを言うことを期待しているからだ。 無言が続けば、誰だって鼻白む。「もう、いないよは終わりだ」そんな声が舞台のあちらこちらで囁かれ、その声が集団化し、タイフーンとなって、いないよの自信を吹き飛ばした。そんな光景が目に浮かぶ。やはり、あたしは一人では無理なんだ。いたよちゃんがいないと無理なんだ。そう、もうダメなんだ。 いないよは、その場にしゃがみ込んだ。そして顔を両手で覆う。でも、涙は出なかった。いたよが亡くなった時に、体中の涙という涙は全て流してしまって、もう、体の中には一滴の涙も残っていなかったのだ。 涙も出ない女。枯れ果てた女。これこそお笑いだ。いないよは目をつぶった。ようやく、家を出て、劇場まで来て、舞台の上に立てたのに、やはり状況は変わらなかった。もう、お笑いはやめよう。いたよちゃんが死んで、あたしも死んだのだ。いつまでもお笑いにこだわるのは、すがりつくのはやめよう。 「あんた。どうしたん。うんこ座りなんかして。ここは舞台やで。うんこするんやったら、トイレ行ってえなあ」 誰かの声がした。聞きなれた声だ。決して忘れることのなかった声。そう、いないよちゃんの声だ。思わず立ち上がる、いたよ。まさか。いたよちゃんは死んだんだ。声がするはずがない。あまりにもいたよちゃんのこと、お笑いのことを考え過ぎて、とうとう、いたよの耳に幻聴が聞こえ出したのだ。 「そう、そう。立ちあがって。でも、立ち上がったら、ちゃんと、お尻ふいてよ。お尻だってきれいでいたいから」 昔はやったコマーシャルのセリフだ。とうとう、あたしは狂ってきた。頭の中で、一人お笑いをするようになったのだ。 「あんた、何を黙っているの。これはお笑いよ。あたしが突っ込んでいるんだから、少しはボケてよ。お笑いは二人の共同作業なんだから」 違う。これはあたしの頭の中の声じゃない。外からの声だ。あたしの耳を通じて聞こえている。いないよは、自分の耳をふさいでみた。 「いないよちゃん。言わザルだけだったのに、聞かザルにもなってしまったの?」 やはりそうだ。いたよちゃんの声だ。いたよちゃんがいるんだ。この舞台の上に。でも姿は見えない。ただし、声はすぐ近くでする。あたしは聞きザルにはなれても、見ザルにはなれないのか。 「いたよちゃん」 いないよは大声を上げ、いたよちゃんの声がする空間を両手で抱きしめた。だけど、両手は何も掴むことができないまま、交差して、自分の胸を抱きしめた。いたい。口から出た言葉は「いたよ」じゃなく、「いたい」だった。 そうだよね。いたよちゃんは死んだんだ。死んだいたよちゃんがいるはずがない。この痛みが現実なんだ。いたよちゃんの声が聞こえるなんて、あたしはどうかしている。あたしは、あたし独りで生きていかないといけないんだ。だからこそ、あたしは、あたしを抱きしめるんだ。涙が出た。枯れ果てたはずなのに涙が出た。 「あんた。眼から鼻汁が出てるで」 やはり、誰かが話し掛けてきた。涙を拭くより先に言葉が出た。 「鼻汁やないで。涙や。きれいな涙や。なんで、目から鼻汁が出るんや」 「なんや。涙やったんかいな。鼻汁かと思うたわ。それこそ、目からうろこや」 「あたしは魚やないで。なんで、目からうろこが出なあかんのや」 「いやあ。ちゃんとうろこを取っとかんと、いざ食べた時に、口の中が血まみれになるで」 「そりゃそうや。血まみれだけやないで。うろこまみれや。口の中が半漁人や」 「あんた、半漁人やなんて、古いネタ知っとるな。それにしても、おいしそうな魚を見とったら、口から涙がでるわ」 「そりゃ、よだれや。みっともないよだれや。目からは涙。鼻からは鼻汁。口からはよだれや」 「なんでもええやんか。涙も鼻汁もよだれも、みんな、同じところから出てるで」 「同じところってどこや?」 「人間や。涙も鼻汁もよだれも、同じ人間から出てるんや。きれいも汚ないも、みっともないもないわ」 「そりゃそうや。あんた、ええこと言うわ。ほんで、あんた誰や?」と言って、いないよは気がついた。今、しゃべっている相手は誰だ。やはり、いたよちゃんなのか。それとも、空耳なのか。意識までも、ここに在らずで、いないよちゃんとどこかに飛んでいったのか。 「心配せんでも、空耳やないで。ほんまもんの耳や。耳をダンボにせんでも、よく聞こえるやろ。でも、相変わらず、いないよちゃんは、体がダンボやなあ。それにしても、この声はあんただけには聞こえるんやなあ。不思議やなあ。でも、よかったわ」 いないよは目を大きく見開いた。間違いない。いないよちゃんだ。いないよちゃんが目の前にいる。だけど、姿は見えない。けれど、いないよは両腕で、いたよちゃんの声がする空間をもう一度抱きしめた。 「いたい、いたい。いないよ。そんなにきつく抱きしめんといてよ、あたしは、いるのよ」 「あれ。ごめん。いたよちゃん。つい、嬉しかったもんで」 「と、言うのは冗談。あたしはたましいなの。物質じゃないから、掴みようがないのよ。だから痛くはないの」 いないよはいたよちゃんの声がする空間を目を凝らしてじっくりと見る。確かに姿形は見えない。だけど、声だけは聞こえる。 「いたよちゃん。本当に、そこにいるの?」 いないよは手を伸ばし、てのひらで、いたよの顔のあたりを撫でる。 「やめてよ。こそばいじゃないの」 「えっ。感じるの?」 「嘘」 「やだ。本気にしたじゃない。でも、声は聞こえるね。不思議ね」 「そうよ。あたしも不思議。あたしの声は、いないよちゃんにしか聞こえないみたい」 「そうなの?」 右手を頬に当て、首を傾ける、いないよ。 「そうよ。さっき、マネージャーの高橋さんに声を掛けたけど、振り向いてもくれなかったわ。あたしは、いたよだから、過去の人で、いなくなったのかしら」 「それ、笑うね」 「笑うよ」 「また、二人でお笑いしたいね」 「そう、したいね。でも、こうした会話もお笑いじゃない」 いないよは、いたよちゃんの言葉に、はっとした。そうなのだ。お笑いのネタを考えるのに苦労したけれど、こうして、いたよちゃんと会話をしていること自体がお笑いなのだ。こんな相手はもういない。そう。いたよちゃんは言葉通り「いた」の過去形で、声は聞こえるけれど、もうこの世には存在しないのだ。 「いたよちゃん。お願い。「お笑い」しよ」 「しよって言っても・・・」 いたよは、黙り込んだ。いたよもいないよちゃんとお笑いをしたい。でも、いないよちゃんを始め、お客さんには、いたよの姿は見えない。声も、いないよちゃんには聞こえるけれど、お客さんには聞こえない。この事実をいないよちゃんに伝える。 「それじゃあ、どうすればいいの」 黙り込むしかない、いないよ。いたよちゃんがいなくなった、以前の状態に戻った。頭の中は、氷原に寒風が吹きさらしている。その中を、どこへ行くあてもなく彷徨する、いないよ。ああ、もうだめだ。このまま凍りついて閉じこもってしまいそうだ。 「いないよちゃん。いないよちゃん。目を覚まして、いないよちゃん。このまま眠ってしまうと、あたしのように死んじゃうよ。」 ゴーゴーと吹きすさぶ風の音の切れ間に、いたよちゃんの声が途切れ途切れに聞こえる。 いたよちゃんの声だ。そうだ。いたよちゃんの姿は見えなくても、いないよちゃんの声は聞こえるんだ。あたしはその声を繰り返せばいいんだ。あたしがしゃべり、いたよちゃんがしゃべり、あたしがいたよちゃんの言葉をおうむ返しでしゃべれば、お客さんには二人でお笑いしているように見える。 でも、いたよちゃんがしゃべった後に、あたしがいたよちゃんの言ったことをしゃべったんでは、間が空く。それこそ、間抜けだ。それに、お客さんから見れば、あたしが一人でしゃべっているように見える。それじゃあ、コンビにならない。そのことをいたよちゃんに相談をする。 「それなら、腹話術にすればいいのよ」 「腹話術?」 「そう、腹話術」 「腹話術って、お正月に、目隠しをして、目や鼻なんかの絵で顔を作るやつ?」 「それは、福笑い。何ボケているの?」 「じゃあ、鬼は外、服はユニクロって叫んで、豆をまくやつ?」 「それも言うなら、福は内でしょ。いないよちゃん。いいかげんにして。二人だけで、お笑いしてどうするの」 「じゃあ、腹話術って、具体的にどうやるの?」 「いないよちゃんが、あたしの人形を作って、その人形に話し掛けるの。あたしがすぐにしゃべるから、いないよちゃんは腹話術をやっているふりで、あたしが言ったことをそのまましゃべればいいのよ。そうすれば、少し間があっても、おかしくないわ」 「それ、いいわ。それ、いいよ。いたよちゃん、最高!」 いないよは、いたよちゃんのいると思われる空間を再び抱きしめる。「痛い」と再び、いたよちゃんが声を上げた。もちろん、いないよの両手は空を掴むだけだったが。 早速、いないよはいたよちゃん人形を作り、左手で動かしながら、口角を上げ、唇を動かさないでしゃべる腹話術のふりをする特訓を、いたよちゃんと二人で取り組んだ。 ここは、いないよの楽屋の外。 「いないよちゃん。どう?復活しそう?」 舞台監督のやまちゃんが、再び、マネージャーになった高橋さんの横に立った。 「ええ。以前と全く違うわ。それに、本当に、いたよちゃんとしゃべっているみたい」 「腹話術とはよく思いついたな。それは君のアイデア?」 「いいえ。いないよちゃんのアイデアよ」 「やっぱり、いないよちゃんは、いたよちゃんが忘れられないんだ。いないよちゃんが亡くなって、落ち込んでいたけれど、逆にそれを利用してお笑いにしたのだから、大したものだよ」 「そうね。ピンチはチャンスね。これからも、いたよといないよのコンビは永遠に続くのよ」 「期待しているよ」 「もちろん、私もよ」  やまちゃんと高橋さんは、楽屋のドアをそっと開けた。そこには、人形なのに、まるで生きている、いたよちゃんに向って、しゃべり続けているいないよがいた。  九 コンビ復活 「どうも。いたよです」  いたよ人形がお辞儀をする。 「いないよです。それにしても、人形が人間より先にしゃべるか」  いたよが人形に向って毒づく。 「人形じゃないよ。あたしは、いたよよ。れっきとした人間よ。ここにいたよ、なんて」  いたよ人形がボケをかました。 「ほら、早くもおばんギャグやね」 「何しろ、久しぶりに舞台に立つから、緊張するわ」  いたよ人形が体をよじる。 「人形のあんたでも、緊張するんかいな」 「そやから、人形やないと言うてるやろ。あたしはいたよや。ちゃんと、体を動かしてよ。人形なんやから自分で動けんのや」 「自分で人形やて、言うてるで」  いないよは、お客さんに同意を求める。 「ほっといて。それにしても、秋になりましたな」 「そうですね。秋や言うたら、コスモスですねん。コスモスや言うたら、ピンクやなあ」 「それで、いないよちゃん、あんた、全身、ピンクのカーテンを体に巻きつけとんかいな」 「どこがカーテンや。ドレスや。ドレス。高級ドレスや」 「何が高級や。ほんまに、それ、ドレスかいな。どれす、どれす?」  いたよ人形がいないよのドレスを掴む。 「汚れた手で触らんといてえなあ。これは貸衣装や。舞台が終わったら返さなあかんのや。それに、どれす、どれす、って洒落かいな。しょうもないなあ。高級ドレスに合わせて、もっと高級な洒落言うてえなあ」 「あっはっはっは。ごめん、ごめん。ドレス着てる人に合わせて、低級な洒落を言うてしもうたわ」 「相変わらず、癪に障るなあ」  いないよが、いたよ人形を睨みつける。そっぽを向くいたよ人形。 「ほんで。いないよちゃんは、コスモスの花を見に行ったんかいな」 「行った。行った。家の近所の公園にぎょうさん、コスモスの花が咲いとって、花見客がコスモスに負けんくらいお酒飲んでピンクの顔しとったわ。どっちがコスモスかわからんかったわ」 「わからんことがあるかいな。いないよちゃんも、お酒飲んだんとちゃうか」 「ちょっとね。たしなむ程度や」 「お客さん。ちょっと聞いて。この人なあ。ものすごくお酒飲むんやで。この体見てやってえたあ。お腹つついたら、おへそからビールが出てくるんやで」  いたよ人形が、観客席のお客さんに向ってしゃべりだす。 「あたしは人間樽酒か。急に、お客さんに話を振らんといて。お客さんもびっくりするやろ」 「何、言うてんねん。最近は、イベントでも何でも、お客さんの参加型が流行っとんのや」 「人形の世界もか?」 「人形やない。あたしは人間や。お笑いも、舞台に立っとる二人だけでするんやないで。お客さんも参加してもらわなあかん。その方が、お客さんも楽しいやろ。なあ」 「なあ、やないで。いたよちゃん。お客さんに無理強いしたらあかんで」 「なんか、お客さんと一緒になってしゃべったら楽しいなあ」 「そりゃあ、一人より二人。二人より三人。三人より四人の方が、おしゃべりは楽しいわ」  いないよは、実感を込める。 「ほな、これからもよろしく」 「こっちもよろしく」 「お客さんもよろしく」 「よろしく」 いないよといたよ人形は舞台の下手に引いた。観客の拍手が鳴り響いている。 「お疲れ様です」「お疲れ様」「お疲れ様です」「お疲れ様」 舞台関係者とあいさつを交わす、いないよといたよ人形。そのまま控室に向かう。 「お疲れ様」 楽屋では、マネージャーの高橋さんが待っていた。 「お疲れ様」「お疲れ様」 いないよといたよ人形が返事をする。 「もう、腹話術はいいのよ」 高橋さんが微笑む。 いないよといたよ人形は互いに顔を見つめ合う。 「二人は」 「一身同体」 「仕事も」 「私生活もないわ」 二人で高橋さんに微笑み返す。 「そう。それもいいかもね」 高橋さんは無理強いをしない。あれほど落ち込んでいた、いないよが、今はこうして元気を取り戻して、舞台に立っている。信じられないことだ。いないよは、何かを得たのだろう。そう、いたよという人形を得たのだ。少しくらい変わったことをしても許せる。 もちろん、このお笑いの世界は、普通の世界とは異なる。人と変わっていることが普通なのだ。だから、舞台が終わった後も、いないよがいたよ人形と会話をしても普通のことなのだ。 ただし、このお笑いの世界も、舞台では可笑しなことをしたり、言ったりしていても、日常生活では真面目にしている人が多い。昔は、舞台と同様、私生活も破天荒な人が多かったけれど、今は、その型破りな行動、反社会的な行動を、芸人だからと言って、社会は許してはくれない。反対に、より厳しい扱いを受ける。 必然的に、お笑いの世界の人間は、お笑い世界を終えると、一般の人以上に襟をただし、普通の人の見本として生活をしなければならないのだ。でも、いないよが、いたよ人形と腹話術の会話を日常生活においてもするくらいなら、他人に迷惑をかけるわけではない。認めよう。いないよといたよ人形のために。 「じゃあ。帰るで」 「帰るで」 着替えを終えた、いないよといたよ人形が楽屋を出た。 「お疲れ様」「また、明日も」 高橋さんは、人間樽酒と呼ばれた、いないよの後姿とその横にちょこんと引っ付いているいたよ人形を、目を細めながら見送った。 「やっぱ。みんな。腹話術と思うて、あたしのこと全然気がつかんなあ。いないよちゃん」 「そうや。これも、いたよちゃんのおかげや。これからも頼むで」 「・・・・」  いたよ人形の口が止まる。 「どうしたんや。急に黙ってしもうて」 「いいや。なんでもない。ちょっとしゃべり疲れたんやろ」 「いたよちゃんでも、しゃべりに疲れるんことがあるんかいな」  いないよは心配しているようで、気にも止めていない。 「そりゃ、あるわ。舞台ではしゃべるけれど、家では無口やで」 「六つの口の間違いとちゃうか」 「六つも口があったら、体がもたへんわ」  いたよ人形があきれたように口を開ける。 「いっぺんにしゃべらんでも、ひとつずつしゃべって、疲れたら、別の口がしゃべったらええん。野球のピッチャーやないけど、ローテーションしたらええんや」。 「ローテンションか。それ、おもろいな。ネタに使えるかいな。ほんでも、一週間は七日やで。ひとつ足らんで」 「日曜日もあったらええやろ。祝日もあったら、十分休めるで」 「ほなら、いないよちゃんに、もし、六つの口があったら、毎日、違う口でごはんを食べるんかいな」 「毎日、口を変えるんやないで。一回の食事で口を変えるんや。例えば朝食やったら、一つ目の口でご飯食べて、二つ目の口で刺身を食べて、三目の口でシュークリーム食べて、四つ目の口で・・・」  いないよは、指折りながら、食べることに夢中になる。 「もうええわ。口は六つでも胃は一つやで。それぞれの口で同時に食べたらお腹がパンパンになるやろ。ほんま、あんたは食べてばっかりやなあ」  いたよ人形があきれはてる。 「ははははは」  いないよは大笑い。二人なら、普段の、取り留めない会話さえもお笑いとなる。まだまだ、お笑いが続く。 「ほっといてえなあ。お笑いは体力やで。食べな、体がもたんやろ。それこそ、いたよちゃんも、もっと食べたらよかったのに」 「あたしがガリガリで、いないよちゃんがデブデブで、対照的な二人やからお笑いが成り立ったんや」 「それは、そうや。本当は、いたよちゃんは、食べたかったのに、食べられんかったんやろ」  いたよ人形は、過去を思い出して、一瞬、顔が曇る。それでも、無理やりに明るい声を出す。 「いないよちゃんこそ、本当は、食べとうなかったのに、無理して、自分勝手な大食い選手権をしとったんやろ」 「なんで、知っとん」  いないよも、過去を振り返る。 「知っとるわ。中学生、高校生からのバッテリーやで。あ、うんの呼吸や」 そうだ。いたよちゃんとは中学から、ピッチャーとキャッチャーのコンビだった。本当は、小学生の時からいたよちゃんのことは知っていた。すごいピッチャーがいると有名だった。いたよちゃんは忘れているかもしれないが、あたしのチームと対戦したことがあった。その時、あたしだけでなくチームメートのほとんどが三振で、五回コールドで大敗した。練習試合だったけど、空振りをする練習にしかならなかった。 それ以来、いたよちゃんのチームから練習試合の申し込みもなかったし、あたしのチームも恐れ多くていたよちゃんのチームに練習試合を申し込むことはなかった。大会では、もちろん、いたよちゃんのチームは優勝し、あたしのチームは一回戦負けか、よくて、二回戦まで進めるかどうかだったので、いたよちゃんのチームと公式戦で対戦することはなかった。 このピッチャーと一緒にやりたい。そして、できるだけ一緒にやりたい。あたしは、親を説得して、いたよちゃんが入学する中学校の近くに引越した。そして、同じソフトボール部に入院した。あたしは内野手だったが、キャッチャーを志望した。キャッチャーをやりたい人はいなかったからだ。それにキャッチャーならば、ピッチャーのいたよちゃんといつも一緒にいられる。それが動機だった。 いたよちゃんは、中学一年生からエースだった。でも、キャッチャーには先輩がいたので、あたしは三年生になるまで、正捕手にはなれなかった。三年生になって、いたよちゃんのボールをようやく受けることができた。 あの頃、いたよちゃんは、体を作るために大食いだった。でも、ハードな練習で太ることはなかった。いつもやせていた。あたしは、いたよちゃんがどんなボールを投げても、後ろには決してそらさず、全て捕ろうと思った。また、いたよちゃんが少しでも投げやすいように、大きな的になろうと思った。それで、食べて、食べて、食べまくった。吐いても、吐いても、食べ続けた。そして、今の体の原型ができた。 そう。あ、うんの呼吸だ。どちらが、あ、で、どちらが、うん、なのかはわからない。でも、それはどちらでもいいことだ。あたしが、あ、のときは、いないよちゃんが、うん。いないよちゃんが、あ、の時は、あたしが、うん、なのだ。あの頃、いないよちゃんは、今と違って、やせていた。 いないよちゃんは、小学生まで内野手だと言ってたのに、中学に入るとやったこともないキャッチャーを志望した。同じ学年でキャッチャーになりたい人はいなかった。だから、いないよちゃんは、キャッチャーのポジションとなった。でも、キャッチャーには先輩がいた。 あたしはその先輩とバッテリーを組んだ。でも、練習の時は、できるだけいないよちゃんとキャッチボールをした。いないよちゃんは、どんどん体が横に大きくなった。あたしが暴投しても、上下、左右にジャンプしてボールを取ってくれた。ワンバンになると、お腹や膝、時には、キャッチャーマスク越しだが、顔面でボールを止めてくれたこともあった。文字通り、体を張ってくれたのだ。 先輩が卒業し、三年生になって、いないよちゃんとようやくバッテリーを組めた。その時、いないよちゃんは大きな壁になっていた。その壁は縦にでも横にでも伸びた。どこに投げても大丈夫だ。どこか一点にしか投げなければならないと緊張して暴投になってしまうが、どこにでも投げていいとなると、面白いように、外角低めや、内角胸元など、思い通りのコースに投げることができた。 いないよちゃんは、サインを出さなかった。下手にサインを出すと相手に感づかれてしまうからだ。だから、あたしはあたしの思う通りに投げた。そのボールをいたよちゃんはどんなことしても捕ってくれた。でも、キャッチャーとしては、次にどんなコースで投げてくるかが判った方が捕りやすいだろう。あたしに変なプレッシャーかけまいと、あたしが自由に投げられるように、サインを出さなかったのだ。全てあたしのために。いないよちゃん、あの頃、本当にありがとう。でも、あたしは、いないよちゃんに一体何ができたのだろう。何の恩返しができたのだろう。 深夜。べッドでは、いないよがゴーゴーといびきをかいて眠っていた。傍らには、いたよ人形。小さな人形に大きな体のいないよが抱きついている。まるで、母に抱きつく子どものようだ。人形の眼が開いた。 もうだめだ。体が、髪が引っ張られる。なんとか、この人形にしがみついているけれど、もう限界だ。後ろ髪を引かれて、この世にとどまっていたけれど、今度は、反対に、あの世から前髪を引っ張られている。いないよちゃんが元気になればなるほど、不思議なことに、この世にとどまる力が弱くなってくる。もう、お別れなのか、いないよちゃんとは。 いたよは、いないよの顔を見た。いないよは、いびきだけでない。よだれも垂らしている。まさに、安心の真っ盛りだ。もう、この顔もまじかで見えないのか。いたよ人形の目から一筋の涙がこぼれた。 十 お笑いリサイタル 「どう。やってみない」 腰に手を当て、仁王立ちのマネージャーの高橋さんが、ソファーに座った二人に向かって微笑んでいる。 「いたよ、いないよ結成三十周年記念お笑いリサイタルよ」 誇らしげな顔の高橋さん。 「そうなんだ」 「忘れていた」 「三十周年なんだ」 「高校を卒業してから、すぐだもんな」 「あれから、三十年か。早いものね」 いないよといたよ人形が感慨深そうに呟いた。 「じゃあ。決定ね。スケジュールを押さえるわよ。今から、社長に話してくる。これから忙しくなるわ。いないよちゃん。リサイタルのネタは考えといてね。あっ、ごめん。いたよ人形じゃなく、いたよちゃんも一緒にね」 高橋さんは「大変。大変」と自分一人で叫びながら、楽屋から飛び出して行った。互いの顔を見つめ合う、いないよといたよ人形。 「どうする、いたよ」 「どうするって、やるしかないじゃないの。いないよ」 「大丈夫?」 「わかんないけれど、やるしかないじゃない」 「わかった。やろう」 「そう、やるのよ」  こうして、いないよといたよ人形は、コンビ結成三十周年記念お笑いリサイタルに向けて、準備を始めた。 「まず、ネタは何から始める?いたよ」 「そうね。三十周年だもの、あたしたちの軌跡よ。これまでのネタやギャグを全部網羅するのよ」 「でも、最初の頃は全然受けなかったわ。そんなネタもやるの?」 「やるわ。あたしたちの全てを出しきるの。さらすの。あたしたちが歩んできたことと、お客様の人生を重ね合わせるの。あたしたちの成長を、あたしたちのかいてきた恥を、お客様に全て見てもらうの。そうすれば、お客様も、あたしたちのお笑いに自分の人生を重ねて、喜んでもらえると思うわ」 「わかった。いたよちゃん。やろう。じゃあ、最初は可愛子ちゃんネタね」 「あれやるの?あれ、全く受けなかったね」  いたよ人形の目がしばたたく。 「今さっき、あたしたちの全部をさらけ出すって言ったじゃない。確かに、あの頃、あたしたち、自分を出すのが恥ずかしかったじゃない。自分を隠して、作りものの自分を出そうとしたから受けなかったのよ。かっこつけすぎたのよ」 「そうね。お客様はよく知っているわ。借りものじゃ、笑ってくれない」 「時事ネタもやったね」 「あれも受けなかった。どう見ても、あたしたち、時事からほど遠いもの」 「そうよ、あたしたちババだから」 「いいえ、あの時は、れっきとしたギャルよ」 「ギャルじゃなくて、存在はギャグだったのよ。あたしたちの笑いは、井戸端会議の延長なのよ」  いないよの目は遠くを見つめる。 「今でいうなら、女子会よ」 「女子会というよりもおばん会ね。でも、あの頃は、ぴちぴちで、二人とも若かったわ」 「いないよちゃんは、今でも、服がぴちぴちじゃない」 「ほっといて。いたよだって、化粧クリームのつけすぎで、肌がびちゃびちゃやったで」 「あっはっはっは。そうそう。お互いが本音で言い合えるようになってから、お客様に笑ってもらえるようになったんだ」  いたよ人形が相好を崩す。 「化粧をしない、本音トーク。半分本気で、半分ジョーク」 「それ、イヤミ?」 「ううん。それが、あたしたちの持ち味なのよ」 「持ち味というよりも、それしかなかったのよ」 「そうね。それしかなかったから、必死だった」  いないよの頭の中に、あの頃の記憶がはっきりと蘇る。 「顔は笑おうとしたけれど、こわばりは隠せなかった。その必死さが、今につながったのよ」  いたよ人形も頷く。 「これからも、ずっと一緒よ。いたよちゃん」  いないよが、いたよ人形をじっと見つめる。 「もちろんよ。いないよちゃん。ちょっと、しゃべり疲れたから、休みましょう」 「そうそう。さっきからおしっこちびりそうで、困っとったんや。ちょっと、失礼するで。ほな、さいなら」  いないよは、いたよ人形をテーブルの上に置くと、トイレに向かって駈けだした。 「もう。いないよちゃんったら、昔も今も全然変わらないんだから。まあ、それがいいことだけど」 たましいのいたよの髪が自然と持ち上がる。やばい。と、思うものの、自分にはなすすべはない。 「もう、すぐだな」 いたよは、ポツリと呟き、目を閉じた。 「さあ、いくで。いたよちゃん」 「もちろんや。いないよちゃん」 舞台の袖で、二人は互いに目を合わせる。「いよいよ、いたよ、いないよのコンビ結成三十周年記念お笑いリサイタル」が始まる。お客様は一杯だ。だが、みんな、二人のお笑いを期待して、会話を控え、会場は静寂に包まれている。二人に緊張感が走る。虎のパンツの柄の緞帳が上がっていく。二人からの特別注文だ。虎のパンツは、虎の穴ならぬお笑いの穴の象徴なのだ。それを見て、お客様は笑うが、二人には来し方の三十年のお笑いの軌跡が頭の中を駆け巡っていく。 「さあ、お待たせいたしました。「いたよ、いないよの三十周年記念リサイタル」の始まりです。皆さん、拍手を持って、二人をお迎えください」 司会は、マネージャーの高橋さんが自ら申し出てくれた。気心の知れた高橋さんだ。安心して任せられる。 「さあ。出番ですよ」 舞台監督の山ちゃんがキューを出す。そして、いないよの肩を叩いた。みんな、勝手知ったる昔からの仲間だ。家族だ。 「よし」「よし」 気合を入れて、舞台に駆けだした、いないよといたよ人形。衣装は、いないよが結婚式の白いドレスで、いたよ人形は赤いドレス。ただし、いないよの靴は動きやすいようにランニングシューズ。ドレスは床まで届いているので、お客さんからは足下は見えない。いないよが歩くたびに、お掃除モップのように床を掃く。だが、それが災いした。 「あっ」の叫び声とドスンと倒れる音とともに、いないよが舞台に這いつくばった。何がどうなったのかわからず、ただ目を丸くするいないよ。ただし、いたよ人形は無事に左手に握っている。会場からは爆笑の笑い。いないよがギャグで転んだものと思っている。 「何、ギャグしてんのん。早く起きてよ。いないよ」 いたよ人形が笑っている。ようやく、いないよは自分が転んだことに気がついた。足先がドレスの裾を踏んだのだろう。全くドジなあたし。この記念お笑いリサイタルの出番で転ぶなんて。もう、何が何だか、どうしたらいいのか、わからなくなった。転んだまま硬直し、じっと動けない、いないよ。もちろん、司会の高橋さんも舞台監督のやまちゃんも、受けを狙って、いないよがわざと転んだものと思って、お客さんと一緒になって肩を揺らして笑っている。 いたよ人形は、いないよの顔から血の気が引いて、真っ白になっていくのを見た。やばい。いないよちゃんは、わざと転んだんじゃないんだ。本当に、転んだのだ。なんとかしないと。あたしがなんとかしないと。いたよ人形は、いないよに小さな声で囁く。もちろん、大きな声を出しても、いないよ以外の人間には聞こえないのだが。それだけ、いたよもあせっていたのだ。 「さあ。いないちゃん。あたしの言葉をしゃべって」 ようやく、いないよもこのままじゃ駄目だと認識した。でも、何をどうすればいいんだ。それがわからない。頭を打ったわけでもないのに、頭が回らない。 「お笑いを始めるのよ。さあ、いくわよ。今から、声に出して」 「うん」 いないよは、何とか声を絞り出した。いたよ人形がしゃべる。同じ言葉をいないよもしゃべり始めた。 「もう、痛いじゃないの。早く起き上がってよ。いないよ」  そうきたか。じゃあ、こうしゃべろう。 「ええ?人形のあんたでも痛いの?」 「もちろんよ。でも、もっと痛いのは心よ」 心?心ってどういう意味?これからどう話をつなげるの。こんなネタはなかったわ。でも、こうなったら、お笑いのリードはいたよ人形に任せるしかない。いないよも続ける。 「人形のあんたでも心が痛むの?どうして?」 「だって、ギャグを言う前に、あんたがすべってしまったじゃない。あーあ。心が痛い」 ここでお客さんの笑い声。転んだ後の、次のお笑いを期待していたのだ。そうか。そういう展開か。それならこう続けよう。 「痛いのは、心じゃなくて、体やろ。それに、どうせ、お笑いですべるんやったら、ほんまに体ごとすべった方がえええやろ」 再びお客さんからの笑い声。この笑い声を聞いて、いないよはやっと心が落ち着いた。いける。ピンチはチャンスだ。マジに転んだことで、一時は頭が真っ白だったが、ようやくお客さんの心を掴めた。あんなに心配していたことが嘘のようだ。よし、これからだ。 「そうよ。これからよ」 いないよの心の声を聞いたのか、いないよ人形が励ます。いないよといたよ人形のお笑い魂が噴火した。立ち上がる、いないよ。一緒に立ち上がる、いたよ人形。 「話が変わるけれど、最近、あんた鼻水がよく出てるで」 いきなりのいたよ人形のフリ。これもネタにはないフリだ。いたよ人形の顔が笑っている。あせるいないよだが、そこは三十年のキャリアと四十年近くのいたよとの仲と腹話術という一瞬の余裕。その間を利用して返す言葉を考えた。アドリブにはアドリブ返しだ。 「いくら転んだと言っても、話の転換が早すぎやで。あんた」 ここでも観客の笑い。笑いとは現実からの遠い飛行だ。遠くへ飛べば飛ぶほど、笑い度は高まる。そして、現実に戻ってくることで、さらに笑い度は高まるのだ。これが、いたよ・いないよの笑いの目指すところだ。 「それで、その鼻水がどうしたん。いたよ。人間やから、鼻水ぐらい出るやろ」 「折角出た鼻水を飛ばして、虫でも撃ち落とせんか」 いたよ人形が、また変なことを言ってきた。いたよがどの方向に話を持っていこうとしているのか、今のいないよには、わからない。だけど、黙ったままだとお笑いは続かない。 「あたしはカメレオンか」 いないよが。カメレオンの顔を真似して目を見開く。 「カメレオンは舌を伸ばすんや」 「ほなら、あたしはてっぽう魚かいな」 今度は口を尖らす、いないよ。 「てっぽう魚は、口から水を飛ばすんや」 「いたよちゃん。あんた詳しいなあ。今日は、お笑いやのうて、素晴らしき動物の世界かいな。お客さん、勉強になるやろ。ほなら、あたしもやってみよ」 いないよが鼻の穴の片方を押さえ、お客さんに向かって鼻水を飛ばそうとする。 「こら。お客さんに向かって何すんのん。いないよちゃん」 「カメレオンやてっぽう魚にできるんやったら、あたしにもできるやろと思うてなあ」 「カメレオンやてっぽう魚は、虫を捕まえるんやで。あんたは、何を掴まえるんや。ハエか、蚊か、ゴキブリか」 「あたしがどんなに喰い地がはっとると言うても、ハエや蚊、ゴキブリは食べへんで。狙いは財布や、財布」 「財布?」 「そや。舞台の上からお客さんに向かって鼻水を飛ばして、お客さんの財布に引っ付けるんや。その後、思い切り鼻を吸うと、鼻水と一緒に、お客さんの財布があたしの手元に届くんや。どや、すごいやろ」 「すごいやのうて、それは泥棒やで。いないよちゃん」 「いや。泥棒とちゃうで。このすごい技に対する、お客さんのおひねりや。おひねりやったら、泥棒にならんやろ」 「おひねりを強制的に奪う奴がおるんかいな」 「そんな奴がおってもええやろ。誰を狙おうか」 いないよが舞台の上をうろうろし、目星をつけたのか、あるお客さんを目がけて鼻水を飛ばそうとする。 「こら、やめんかいな」 いたよ人形が、いないよを止める。 「ジョーク。ジョーク。これはお笑いやで。あんた、人形になっても、首に青筋をたてるんやなあ。かゆわ。かゆいわ」 いないよが、いたよ人形の真似をして、自分の首筋を手で掻く。 「あんたやって、人間のままなのに氷山の一角の体型やで」 「ほっといて。何があっても大丈夫なように、ドスンと構えとかなあかんのや」 「ほんまや。ドスン、ドスンと舞台の上でしこを踏んどるわ」 「あたしは相撲取りか」 いないよは、いたよ人形の言葉通り、しこを踏み出した。 「ほんまにやらんでもええんや。あんたがドスンと言うたから、ちょっと腹びれをつけただけや」 「誰が魚や。それも言うなら、尾びれやろ」 「尾びれやったら、人魚になってしまうやろ。そんなクジラみたいな人魚はおらんわ。だから、腹びれにしたんや。どうや。ええやろ」 「何を自慢しとんのや。氷山から、今度は、クジラかいな。あたしの体はどうなっとんや」  いないよは、足の先からお腹、胸と、自分の体を眺める。 「いないよ様は、いろんなもの変われて、ホントうらやましいわ」 「急に、様付けかいな。あんたは人形になっても、口だけは減らへんな」 「そんだけ、いないよちゃんが人気者やいうことや」 「ほんまかいな。それ嬉しいなあ。いたよちゃんもええこと言うわ。口が立つと言うことはそれだけ頭がええ証拠や。AQ二百と違うんか」 「それも言うならIQや。それでも、誉めてくれたらあたしも嬉しいわ」  いたよ人形の頬が緩む。 「それにしても、お互い単純やなあ。ちょっと誉められたら、すぐに舞い上がってしまうわ」 「舞台だけに、上がらなあかんのや」 「ええこと言うなあ。いたよちゃん。もう二度とあの世に登らんといてよ」 「わかってまっせ。これからもずっと一緒や」 「ずっと一緒はわたしらだけやおまへんで。お客さんも一緒や。三十周年だけでなく、五十周年や百周年も、二百回忌もお客さん、応援してよ」  いないよが、再び、舞台の上で、シコを踏む。 「いないよちゃん。あんた、いつまで生きる気や。それに、ニ百回忌やいううたら、死んどることやで」 「そうやったんかいな。そう言えば、この前、おとうちゃんの七回忌が終わったとこや。忌やいうたら、お祝いすることやと思うとったわ」 「あんたはほんまに長生きするで。それに今日来とるお客さんの中には、後何年持つかどうかわからん人もおるで」  いたよ人形が、観客席を見回す。 「こら、いたよちゃん。そんなこと言うたらあかん。何でも、ほんまのこと言うたらあかんのや」 そう言いながら、目ぼしいお客さんを指差すいないよ。 「こら。お客さんに向かって指差してどないすんのん。あんたの方がきついで。いないよちゃん」 「とにかく、これからも「いたよいないよ」のコンビを」 「どうぞよろしくお願いします」 二人は客席に向かって頭を下げた。お客さんからの拍手がホール中に鳴り響いた。 「もう、だめだ。髪が空に引っ張り上げられる」 たましいのいたよは、自分の髪を下に降ろそうと掴む。だけど、同じように、手も空に引っ張られる。バンザイ。まさに、グリコのお手上げの状態だ。 神様。もう少し、もう少し、待って。もうすぐ、三十周年のリサイタルが終わるから。それまで・・・。 なんとか。なりそうだ。最初の出だしは想定のネタじゃなかったけれど、いたよちゃんの機転で乗り切れた。このまま続ければいいんだ。やっぱり、いたよちゃんのおかげだ。表向きは腹話術お笑い。でも、実際はいたよちゃんとあたしの二人のお笑い。 いたよちゃんがしゃべる言葉を、ただ、あたしが腹話術のように見せかけて、しゃべっているだけだ。自分ひとりでは、こんな突っ込みはできない。元々、あたしはボケだ。だから、上手くいっている。今回のリサイタルだけじゃなく、このまま、このまま、ずっと、いたよちゃんとお笑いを続けたい。 十一 フィナーレ 「いやあ。三十周年記念リサイタルもそろそろ終わりの時間やで。いないよちゃん」 「ほんま。長かったなあ。お笑いを始めて三十年はあっと言う間やったのに、リサイタルは、なんでこんなに長く感じるんやろ。ほら、もう舌が疲れ果てて、べろべろや。普段の二倍にふくれあがってしもうたわ」 いないよがお客さんにむかって、口から舌を出し入れする。 「気持ち悪う。あんた。体だけやのうて、舌まで太っとんのやなあ」 「何を、今さら感心してんのや。そりゃ、当たり前や。体が太っといて、舌だけがやせとったら、バランスが崩れて、気持ちよりもかっこが悪いやろ」 「そのドラム缶を引っつけたような体の、どこがかっこええんや」  いたよ人形が、いないよの全身を冷静な視線で眺める。 「ええやんか。魅力的やろ。この豊満な体。心も体も豊かな証拠や。昔、高貴な方は、財力に任せて、栄養豊富な食事を摂っていたから、豊満やったんや。太っとんのとは違うで。豊満なんや。反対に、庶民は、十分食べられんかったから、ガリガリでやせとったんや。どうや」 「何、そのドヤ顔。ほなら、あんたは生まれてくるのが。千年遅かったということかいな」 「まあ、そういうことや」  いないよは、ドヤ顔のまま、腰に両手を当てて、胸か腹か区別のない体を張る。 「あんたはおめでたいなあ。でも、これからは、人口が爆発的に増える割りに、食糧生産が追い着かんから、食糧難の時代が来るで。そうなったら、できるだけ、あたしのように、スマートで、エネルギーを使わんエコな体がええんとちゃうか」  いたよ人形がモデル歩きのようなかっこうをする。 「何、言よんかいな。それは反対や。食糧難やからこそ、体に蓄える施設をもっとる方が長生きできるんや。ガリガリやったら、あっという間に、体が衰弱してしまうで」  いたよは、自分の腹を叩く。 「その三段腹、いや五段腹は、らくだのコブかいな。どうりで、いつまでたっても、やせんとおもっとったわ。ほんなら、お腹が減った時は、いないよちゃんのお腹にかぶりついたらええんかいな」  いたよ人形が、いないよのお腹にかぶりつくふりをする。 「そうや、そうや。いつでもおいで」 自分の太鼓腹を、再び、叩く、いないよ。 「それに、この前も、家を新築した親戚から、棟上げに呼ばれたんや」 「何で、棟上げに呼ばれるんや。棟上げとそのお腹が、何か、関係しとんのかいな」 「あたしは、二階のお立ち台から、自分のお腹の肉をちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・」 「あんたのお腹はおもちかいな。そんな肉もち食うたら、お腹こわすで」 「こわすどころか、その肉もちがお腹にひっつくんや。これで、食糧不足になっても大丈夫や。お客さんも、一つ、いかが?」  いないよが、自分のお腹肉を掴んで、お客さんに向って、エアもちなげをする。 「こぶとりじいさんやのうて、肉もちばらまき、おばさんかいな。もう、ええんかげんにして!」  いたよ人形が、いないよのお腹を軽く叩いた。 終わった。なんとか持った。いないよには見えないだろうけれど、あたしの髪の毛は、蜘蛛の糸のように空高く伸びている。顔もムンクの叫びように細長く伸びている。めまいがしそうだ。だけど、何とかリサイタルは終了した。役目は果たせた。ありがとう。いないよちゃん。 あたしが本当にいなくなっても、もう、一人で大丈夫。空から活躍を見守るわ。もし、万が一、いないよちゃんも空に昇ってきたら、今度は、天国の舞台に立って、神さんたちを笑わせてやろう。さよなら。 あーあ。疲れた。あーあ。ようやく終わった。本当に、どこで終わるのかわからなかった。いたよちゃんとはある程度、ネタを決めていたけれど、思わぬ突っ込みが入るため、ボケるのが大変だった。いたよちゃんは、あたしのどぎまぎする顔をいつも横目で楽しんでいる気がする。でも、それがかえって、新たな笑いを生みだす力となった。 ある程度の漫才のストーリーは必要だけど、予定通り進んだのでは、あたしたちが面白くない。あたしたちが面白くないと、それを見たり、聴いたりしているお客さんも面白くないはずだ。 だから、いつも、いたよちゃんは、わざと、意図的に、その場のお客さんの状況を瞬時に感じて、何が受けるかをひらめいて、その話題を突っ込んでくるのだ。全く何もない、無のところから、笑いを生みだす。それは、コンビによってやり方は異なるだろうけど、あたしといたよちゃんの笑いは、こうして生まれている。二人の丁々発止、真剣勝負なのだ。 ようやく、このお笑いのリサイタルは終わった。本当に疲れた。脳みそが、頭の中の洗濯機でぐるぐる回され過ぎて、鼻や耳から溶けだしそうだ。あっ、これは面白いネタだ。忘れないうちに、メモっとこう。 お笑いから二十四時間、三百六十五日、四十年間、離れられない。だからこそ、脳がジュースになるのだろう。とにかく疲れた。いたよちゃん。本当にありがとう。また、少し休んだら、三十一年目のお笑いが始まる。いたよちゃん。楽しみにしてるで。  アンコール。アンコール。お客さんが拍手しながら立ち上がる。お笑いコンサートでアンコールだなんて聞いたことがない。舞台の袖で、いないよちゃんといたよ人形は顔を見合わせてとまどっている。 「何をためらっているの。アンコールよ。お客さんが呼んでいるわ。早く、舞台に立ちなさい」 傍らのマネージャーの高橋さんが微笑んでいる。 「そうだよ。いないよちゃん。お客さんがいたよ・いないよのお笑いに感動したんだよ。もう一度、お笑いで感動させてやれよ」 舞台監督のやまちゃんがいないよの肩を叩く。 「でも、ネタが・・・」 いないよが呟く。 「そう、ネタが・・・」 いたよ人形も繰り返す。そう、いないよといたよ人形は、ネタを全て使いきっていたのだった。 「何よ、ネタなんて必要ないわ。いたよ・いないよのコンビの存在自体がネタなんだから」高橋さんがやさしく微笑む。 「そうだよ。お客さんはあんたたちの顔をもう一度見たいだけなんだよ」 やまちゃんが二人の背中をそっと押す。いないよといたよ人形はお互いに顔を見合わせる。 「やろう。いないよ」 先に口火を切ったのがいたよ人形だった。いたよ人形の顔をじっと見つめるいないよ。 「わかったわ。いたよちゃん」 いないよは、いたよ人形を抱えたまま、舞台に飛び出した。 「どうも」 「どうも」 二人のこの声にお客さんからの拍手が一層高まった。と、その時、いないよの態勢が崩れた。あまり急いで走り込んだので、自分のふとももとふともものがぶつかり合い、足がもつれたのだ。 あっ。自分の体が倒れていく。出だしと一緒だ。最初、転んで立ち上がったのに、最後もまた、転ぶのか。あたしの人生は転びで終わるのか。そう思う間もなく、目の前に、舞台の床がだんだんと近づいてくる。まるでスローモーションだ。 でも、一旦、崩れ出した体は、態勢を立て直せない。刻々と迫りくる舞台の床。だけど、左手にはいたよ人形を持ったままだ。このままだといたよ人形を潰してしまう。じゃあ、どうする。自分の顔面で受けるのか。これ以上、顔の形が変わるわけはないだろうけれど、顔から落ちるのはやはり痛い。 目と鼻と口の先にまで近づいた舞台の床。もう、だめだ。と思う間もなく、咄嗟に右手のてのひらが出た。五本の指が広がっている。親指、人さし指、中指、薬指、小指とそれぞれの指にいないよ自身の体重がのしかかっていくのが感じられる。この五本指であたしの体重が支えきれるのか。 いないよの体重の圧力が、指からてにひら、手首、ひじ、右肩に押しあがっていく。もうだめだ。耐えきれない。あたしの体なのに、あたしの右手だけでは支えきれない。その時、右ひじがくの字に、ぺちゃんこ字に、折れ曲がった。と、同時に、いないよの体は右肩からくるっと回転した。そして、その回転の勢いのまま、偶然にも、立ち上がることができた。 観客席からは盛大な拍手が起こった。何がなんだかわからないままのいないよであったが、お客さんからの拍手を受けて、これまでの芸歴の経験が、いないよに瞬間的にガッツポーズをさせた。更なるお客さんからの拍手。そう。二転び三起きだ。あたしはどんなに転んでも立ち上がることができるんだ。 「どうも。どうも」 頭を掻きながら、つい、お客さんに向かってドヤ顔になる、いないよ。 もうだめだ。このままつぶれるのか。それでも、いい。これまで、いないよちゃんのおかげでここまでやれたんだ。いたよはいないよに身をゆだねるしかなかった。だが、意外なことに、いないよが転んだのにも関わらず、回転して立ち上がった。回転レシーブだ。 いないよちゃんって、ソフトボールだけじゃなく、バレーボールもやっていたの?こんなにも身軽だったの?でも、そう言えば、中学、高校の時、あたしの投げたボールのうち、バッターの頭の上を越すような暴投でも、大きくバウンドしたボールでも、全てキャッチをしてくれた。身軽じゃなかったら、そんなことはできない。さすが、いないよちゃん。いたよ人形は、お客さんと同じように拍手をしようとした。だが、その時。 あっ、だめだ。いたよの体は人形から離れ、上へ上へと登っていく。これまでなんとか、いたよ人形にしがみついていたものの、いないよが回転した振動で、その手も離れてしまった。いたよ人形の頭、いないよの頭、お客さんの姿、劇場の屋根、建ち並ぶ多くのビル群などが、どんどんと小さくなっていく。ごめんね。さよならも言わないで。でも、楽しかった。いたよは、空の上から、もう見えなくなったいないよの姿に向かって手を振った。 「どや。この身重な体で、身軽な動きのいないよさんはどう?」 いないよはドヤ顔のまま、いたよ人形に話掛けた。さあ、いたよちゃん、しゃべってよ。あたしに突っ込んで。だけど、いたよ人形からは、うんともすんとも返事がない。 「どうしたの。いたよちゃん。転んだ時に、頭でも打ったの?ホントに、いたよの過去形になったの?」 お客さんに聞こえないように、小さな声でギャグをかますものの、いたよちゃんからの返事はない。その時、いないよは、気付いた。本当に、本当に、いたよちゃんはいなくなったんだ。いないよの顔から笑みが消えた。頭の中は、霧が湧き出てくるように白くなっていく。何も見えない。何も考えられない。もう、だめだ。折角、いたよちゃんが戻って来てくれたおかげで、ここまで復帰できたのに。また、元に戻ってしまう。何か言ってよ、いたよ。だが、今は、舞台の上だ。お客さんが自分を、自分たちを見ている。何か言わないと。その意識だけは、はっきりしている。 「いたよちゃん。何か言ってよ。あたしの回転レシーブよかったでしょう?」 「どこが回転レシーブや。牛が食べ過ぎて、急に横たわったんかと思うたわ」 思わず、いたよ人形の口から、いないよの言葉が出た。 「あたしはいつから牛になったんや。これまで、鏡もち腹とか氷山の一角とか言ってたのに」 自分のボケに、いたよ人形の口を使って、自分で突っ込むいないよ。 「もう、三十年もお笑いをやっとんやで。同じことばっかり言うてどないすんねん。人間は進化する動物や。昨日と違う今日、今日と違う明日。京都大原三千院や」 「ええこと言うけど、なんや、最後の、大原三千院と、どういう関係があるんや?」 「京都には、金閣寺や銀閣寺、八坂神社など、有名なお寺や神社があるけど、大原にもええお寺があるということ、つまり、もっと目を見開いて、広く物事を見ろ、というこっちゃ」 自分一人なのに、次から次へと二人分の言葉が出る。 「あら、まあ。いたよ、転んで頭打って、頭が可笑しくなったんとちゃうか」 「何、言うてんねん、あたしらはお笑いをやっとんのや。可笑しいんが当たり前や」 「そりゃそうや。ええこと言うわ」 「お客様。これからも」 「よろしくお願いします」 いないよといたよ人形は同時に頭を下げた。会場からお客さんの盛大な拍手が、再び湧き起こった。 十二 お笑いは続くよ、どこまでも 誰一人としていないホールの舞台の上で、しゃべり続けている人がいる。その人をホールの一番奥の柱に隠れて見ている人がいた。 「どうなの?」 その人に向かって背中から男が声を掛けた。舞台監督の山ちゃんだった。 「もう、私が知っているだけで、一人で二時間以上もしゃべり続けているわ」 スマホで時間を確認し、あきれたように答えたのは、いないよの元マネージャーの高橋さんだった。 「そうか。二時間も一人で、か。でも、ひきこもりから、演芸場に来て、舞台の上でしゃべっているんだから、一歩、前進じゃないか」 山ちゃんは、無理にでも笑顔を作る。 「そうね。まさか、いないよちゃんが舞台の上にいるなんて思わなかった。帰ろうと思って、ふと気になってホールのドアを開いたら、舞台の上で、誰かがしゃべっているのよ。若手が練習しているのかと思って目を凝らして見たら、いないよちゃんじゃないの。びっくりしたわ」 「じゃあ、高橋さんは、いないよちゃんが来ていることは知らなかったんだ」 「もちろんよ。あんなに誘っても、あんなに腕を引っ張っても、演芸場の方向には一歩も前に進まないし、家で寝る時も、演芸場に足を向けているらしいわ」 「それ、いないよちゃんの一流のギャグじゃないのか」 「そうかもね」 高橋さんは肩をすくめた 「じゃあ、いないよちゃんは、もう立ち直ったんのかな」 山ちゃんは、いないよを少しでも近くで見ようと、足を一歩前に出した。 「さあ、どうかしら。お笑いの練習と言うよりは、これまで溜まっていたうっぷんを晴らすかのように誰かとしゃべっているわ。それに、さっきから見ていると、ただしゃべるだけでなく、舞台の上で寝転んだり立ち上がったりしているのよ。まるでドタバタ新喜劇よ」 「一体、誰と?」 山ちゃんの目が大きく見開く。 「人形よ。左手に人形を持っているわ」 山ちゃんとは反対に目を伏せる高橋さん。 「とうとう、いないよちゃんは・・・」 言葉に詰まる山ちゃん。 「狂っているんじゃないわ。多分、あの人形は、いたよちゃんじゃないかな」 慌てて否定する高橋さん。 「幻想のいたよちゃんか。その方が恐いんじゃないか」 「いいえ。人は誰でも幻想を持っているのよ。その幻想の中で生きているのよ。いいえ、幻想の中でしか生きていけないのよ。そうしないと、人格崩壊になるわ」 「それは、高橋さんも俺も、全ての人が、ということか」 確認するかのように山ちゃんが、高橋さんに尋ねた。 「そうよ。あたしはあたしの幻想。山ちゃんは山ちゃんの幻想。こうして話が通じるのは、二人の幻想が交わっているところだけ。そして、それはほんの一部分なのよ」 確信を持って高橋さんが言い放つ。 「それ以外は・・・か」 「みんな、自分の幻想の中で笑ったり、泣いたり、話しかけたりしているのよ」 「じゃあ、いないよちゃんは、幻想の中で何をしゃべっているんだい?」 「よくわからないけれど、いたよちゃんと二人でお笑いをしているみたい」 それまで引きつっていた高橋さんの顔が、最後の言葉でゆるんだ。 「二人で?一人二役か。腹話術じゃあるまいし」 山ちゃんは鼻で笑おうとした。 「そうかもね」 大きく頷く高橋さん。それは全てを許す肯定の頷きだった。 「まだ、いたよちゃんのことが忘れられないんだ」 山ちゃんは目を伏せた。 「そうね。でも、無理に忘れなくてもいいのよ。無理に忘れようとするから苦しいのよ。いないよちゃんといたよちゃんは一心同体。ずっと一緒でいいのよ。いたよちゃんがいて、いないよちゃんに引き継がれるのよ」 高橋さんは、自分で自分に納得させるように呟いた。 「そうだな。俺たちも、いたよちゃんといないよちゃんとずっと一緒だ。その部分だけは共同幻想だな」 高橋さんと山ちゃんは、舞台の上で終わりなくしゃべり続けているいないよの姿を、二人でいつまでもじっと見つめていた。 「小話を一つ」 「よっ、大統領」 「ちょっと掛け声が古いで。もっと新しい掛け声は、ないんかいな」 「それなら、内閣総理大臣」 「はい。いたよ議員の質問にお答えいたします。なんで、あたしが国会議事堂におるんや」 「相変わらずノリがええなあ。いないよちゃん。はよ、小話を続けてよ」 「あたしがしゃべりたいのに、あんたが邪魔しとんのやろ。ほな、しゃべるで」 ある日、右手が左手に向かって言いました。 「いつもお箸や荷物なんか持たされるんで、疲れたわ。たまには、交代してくれへんか」 左手はすぐに返事をしました。 「ええで」 その日から、右手が左手に、左手が右手に変わりました。すると、ぎっちょになりました。 「どうや」 「何や。体は変わっても、役割は変わらへんのかいな」 「あたしらも一緒や。あんたが天国にいっても、あんたは突っ込みで、あたしはボケや」 「そや。いたよ・いないよのお笑いは永遠に不滅や」 「ほんでも、今日のお笑いはここで終わるで」 「一時的に、全滅かいな。ほな、さいなら」 いたよ人形といないよは、舞台の上から誰一人としていない観客席に向かって頭を下げた。 「冬でんなあ」 「ええ。冬でっせ」 「寒うおますなあ」 「冬やからなあ」 「答えになっとらんで」 「なってなくても、冬は事実やで」 「ほな、あたしはこたつで丸くなるから、あんたは庭を駆けずり回っとって」 「なんで、あたしだけ庭を駆けずり回らなあかんのや」 「ほな、一緒に冬眠しましょか」 「舞台に出てきたばかりやのに、もう冬眠でっか」 「おや」 「すみ」 「目が覚めたら」 「春やで」 04c2a861-fcc2-44ce-a7b2-995b13755ac8
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