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§1
「『いとでんわ』って知ってる?」
高校時代の友人のレナがそんな電話をかけてきたのは、この地方全体の住民に外出禁止令が出されてから一週間ほど経った頃のことだった。
「紙コップに穴開けて、糸を通すやつ」
自分で遊んだ記憶はあまりないけれど、どんなものかくらいは知っている、と答えると、レナは「いや、それを『知ってる?』とは訊かないよ」と笑う。
「もー、さすがユリカ」
「さすがって、何」
「いちいち律儀だなあ、って」
「む。莫迦にしてるな」
「違うよ。ユリカのそういう雑じゃないところ、安心する。誰も見てなくても掃除当番サボらないタイプ」
そう言うレナは高校時代、何かと口実を見つけては掃除をサボろうとする男子を叱りつけるタイプだった。思い出して、二人でくすくすと笑い合う。
「で、リアル糸電話じゃないなら、何?」
「あーそうそう。あのね、自治体がNPOと組んで新しく始めたサービスらしいんだ」
スマートフォンに「いとでんわ」というアプリを入れてアカウントを作ると、そのシステムに登録した他の人のアカウントと、ランダムに通話ができるのだという。
「ランダムに?」
「そう。アプリを介しての通話で、相手には自分の名前も電話番号も一切知らされないの。だからお互い、完全に匿名でお喋りができる。電話料金もかからないんだって」
「……そんなことして、どうするの?」
「知らない誰かと、ただお喋りするだけ。ほら、みんな外に出られないから、人と話す機会が減ってるでしょ?」
「確かに」
私もここ三日ほど、まともに人と会話をしていない。今日などは朝起きてから夕方まで、狭い1Kのアパートの部屋から一歩も出ずに一人で過ごした。
新型感染症が世界的な大流行の兆しを見せる中、各国政府は危機感を強めている。爆発的な感染拡大を食い止めようと、この地方でも人との接触を最小限にとどめる緊急措置が取られた。基本的に、業務でやむを得ない場合や緊急時、そして生活必需品の買い物を除いて、外出は禁じられている。私の勤めている会社も臨時休業になり、社員は定期的にオンラインで安否の報告を行うことになっている。
人通りの消えた街角の風景は、シュールレアリスムの絵画のようだ。
「こんな状況だとさあ、やっぱり人の声が無性に聞きたくなったりするじゃない?」
「そういえば、電話でレナと話すのって久しぶりだよね」
「だって、テキストメッセージじゃ物足りなくてさ。リアルタイムで生の声が聞きたかったのよ」
「それなのに口数少なくてごめんよ」
「知っててかけてるんだから謝るなー。その分、私が喋るからいいの」
そう言って、レナはいつものような弾丸トークを繰り広げる。推しのライブが中止になってしまって最悪だけど、払い戻しになったチケット代で公式グッズ買って応援するんだ、とか、そろそろヤバいタイミングなんだけどどこも生理用品が品薄で困る、とか、すでにマスクをしているのに「マスクがない」と探し回るというのをやらかしてしまい、「本当に人間ってそんな間抜けなことをやっちまうんだ」とむしろ感動した、とか。
他愛もない話に相槌を打ったりツッコミを入れたりしながら、思い切り笑い合う。レナは「やっぱりガールズトーク最高!」と高らかに言い放った後、ふっと小さく息をついた。
「ありがと、ユリカ」
「え、何が?」
「こういうどうでもいい話ができる相手って貴重だな、と思ったの」
カイ君とはこういう話はしないの? という言葉を、私は危ういところで呑み込んだ。
カイ君とレナは、長い交際を経てついに今年結婚式を挙げることになった。ところが、婚約後にこの新型伝染病の流行が起きて、予定通り式を挙げられるかどうかわからない状況になってしまった。
同じく高校の同級生だったカイ君は、今は新米医師として病院に勤務している。患者が急増していて、ほとんど休みも取れない状況のようだ。「掃除をサボりまくってたあいつが殺菌消毒とか手洗いとか、ホントにできてんのかな」などとレナは軽口を叩くけれど、内心では心配でたまらないのだと思う。
「レナ」
「何」
こういうとき、何を言えば相手の気持ちを軽くしてあげられるのだろうか。いつもそんな明るい気持ちをもらっている大切な友達に、私は何を返せるだろうか。
「私も、レナと話してると楽しいよ」
ここで何か気の利いたことが言える自分だったらよかったのに。そう思いながら、なるべく重たくならないような言葉を懸命に探す。
「何かあったら、ううん、何もなくても、気が向いたらまた電話して」
「ん。ありがと」
レナはそう言って笑ってくれた。糸電話の向こうから聞こえてくるみたいな、遠いけど近い声で。
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