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§2
――こんな状況だとさあ、やっぱり人の声が無性に聞きたくなったりするじゃない?
電話を切ってからも、レナの言葉がずっと耳に残っていた。
人づきあいが苦手な私は外出禁止令が出たとき、これで正々堂々と引きこもれる、と少しだけほっとした。我ながら不謹慎だとは思う。けれど、通勤電車の中で会社の人を見かけてしまい、慌てて気付かなかったふりをして車両を移ったり、知らない人と密室に閉じ込められるのが嫌なばかりにエレベーターよりもエスカレーターを選んだり、お洒落な人に話しかけられると思うと気後れがして、ずっと憧れているネイルサロンにいまだに脚を踏み入れられなかったり、そういう些細なコンプレックスが降り積もっていく日々から一時的にせよ解放されると思うと、重たい鎧を脱いだような気持ちになれた。扉を閉ざして空間を独り占めして、自分が好きなものにだけ囲まれていたらさぞ気持ちが安らぐだろうと思った。
それなのにまさかほんの数日で、街の雑踏が恋しくなるとは想像もしていなかった。
ほとんど誰ともすれ違うことなく一日を過ごしていると、空のコーヒードリッパーにお湯を素通ししているみたいな味気ない気持ちが広がっていくのだ。
自分を作っている成分は、思っているよりも雑多なものなのかもしれない。混雑した通勤電車の中で回りに気を遣いながら本を開いたり、店員さんに声をかけられないかびくびくしながらスカートのサイズを探したり、退職する人への寄せ書きにいかにも無難なことしか書けなかったり、といったことすらも、「私」を形作るものの一部だったんだと思い知る。
パイを四分の一だけ切り取ったみたいな不完全な円を、切り口を内側に向けて四隅に並べると、そこに四角形が浮かび上がって見える。そんなだまし絵みたいだ。欠けている部分がそこにはない何かを炙り出す。
私は、レナに教えてもらった「いとでんわ」のアプリをダウンロードしてみた。
「通りすがりの誰かと立ち話をするような気持で使っていただきたいアプリです」
そんな紹介文の下に、淡々と事務的な説明が続く。
悪用を避けるため、氏名と生年月日と住所と電話番号を登録するが、それらの個人情報は厳重に管理され、通話の相手方に知らされることは一切ないこと。通話はいつでも自由に切ることができるし、通話内容が不快に感じられたら、サービス提供者であるNPOや自治体に通報できること。外出禁止令が解かれるまでの一時的なサービスで、その後は個人情報などはすべて破棄されること。
素っ気ないほどビジネスライクなその説明書きにむしろ安心を覚えて、私はアプリの「通話可」のボタンをタップした。
ほどなくして電話がかかってくる。画面には「いとでんわ」のアイコンだけが表示されている。
「もしもし」
恐るおそる電話をとる。すると、おっとりとした声で「こんにちは」と返ってきた。
どうやら年配の女性のようだ。
「おばあちゃんのお喋りに、少しだけお付き合いいただける?」
緊張で固く握りしめていた手を、私はゆっくりとほどく。
「ええ。もちろん」
相手に見えていないのはわかっていても、こくりと頷いてしまう。
老婦人はピアノの旋律を思わせる華やかなトーンで世間話を始める。
「今日は風が強いわねえ。ベランダに干していた洗濯物が飛んでしまって、でも外に取りに行っていいのか、一瞬躊躇しちゃったのよ」
「そういうのは緊急事態っていう解釈で問題ないんじゃないですか」
「そうよねえ。お気に入りのクッションカバーなんですもの、救出しなきゃね」
老婦人が朗らかに笑うので、私も釣り込まれるように笑ってしまう。顔も名前も知らない相手と笑い声を響かせ合っているのだと思うと、なんだか不思議だ。
「あら、猫がごはんをねだっているわ。そろそろ切り上げてもよろしいかしら」
「ええ」
「ごきげんよう。お話しできて嬉しかったわ」
柔らかな声でそう挨拶を残して、老婦人は電話を切った。
「ごきげんよう、って本当に使う人いるんだ」
通話を切った自分のスマートフォンを眺めながら、思わず独り言をつぶやいてしまう。
その晩、一人分の夕飯を用意しながら、あの上品な老婦人は猫のいる家で今夜何を食べるのだろう、と想像してみた。
「私と同じものじゃないことは確かだわ」
さらりと「ごきげんよう」なんて挨拶をする人が、豚キムチ炒めを食べているところはちょっと想像できない。誰とも会う予定がないのをいいことに、私はフライパンにいつもよりもふんだんにニンニクを投入する。気が付いたら、菜箸を片手に鼻歌を歌っていた。
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