§3

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§3

 それからは、一日に何度か「いとでんわ」で知らない人と短い会話をするようになった。  通話の相手は様々だった。家で暇を持て余しているという高校生もいたし、リモートワークの息抜きにかけてきたというビジネスマンもいた。  声以外に相手の情報が何ひとつわからないというコミュニケーションは、思った以上に心地よかった。無闇と居丈高な人とかセクハラまがいのことを言ってくるような人は一人もいなかった。相手を容姿や服装などで判断することがないせいかもしれない。  その夜も、狭いバスルームでなるべくゆっくりとお風呂に入り、ネットで覚えたばかりのストレッチを一通りやった後で、私は「いとでんわ」にアクセスしてみた。すぐに通話がつながる。 「もしもし」  珍しく若い男性の声だった。私は少しだけ緊張する。 「はい、もしもし」 「どうですか、元気にしてます?」  まるで知り合いに話しかけるみたいな言い方に、私は思わず笑ってしまった。それを聞いて相手の人は「うん、元気そうだ」と言ってくる。 「あなたはどうですか。元気ですか?」  問い返すと、気さくな返事が返ってくる。 「うん。おかげさまで、割と」  少しだけ間が開いたが、続きがあった。 「でも、何か少しだけ足りないような気がして、それでここにアクセスしてみたんです」 「雑談が、足りない?」 「それそれ。なんだろうな、前は無駄だと思っていたものが、実は意外に大事なものだったような気がしてきて」  ちょうど私が感じていたようなことを、彼は自分の言葉で語ってくれる。 「仲のいい友達とか仕事の取引先とか、そういう自分にとって意味のある相手だけじゃなくて、本当は一度も会ったことのない誰かだって俺の人生に必要な人なんだなあ……なんて、謎のポエムみたいなこと考えちゃって」  最後の方は照れくさそうな声になる。私は思わず、スマートフォンを握りしめて大きく頷いていた。 「よくわかります」  今ここにいるあなたも、私にとって必要な人だ。  すると彼は、ふっと安心したような笑いを漏らした。 「ありがとう。あなた、いい人だな」  その言い方が、私のことを律儀と評したレナの口調に少しだけ似ている。  私は、クッションを抱え込みながら首を振った。 「いい人じゃないです。ただ、掃除当番をサボらなかったタイプってだけで」  すると彼は、虚を突かれたような一拍の後、愉快そうな笑い声を上げる。 「掃除当番か。俺は、デートに間に合わないって言う友達に代わって当番を引き受けてやったことならあるな」 「いい人じゃないですか」 「でしょ。で、そんないい人の俺に、神様はちゃんとご褒美をくれたんですよ」 「ご褒美?」 「神様じゃなくて、校内の誰かなんだけど」  彼は懐かしそうな声でその思い出を語り始める。教室のゴミ箱を校舎裏の集積所まで持っていって、中身を空けようとした弾みに、くしゃくしゃに丸めた紙屑がひとつ、コンテナから転がり落ちてしまったというのだ。 「拾い上げたら、隅の方に俺の名前が書いてあるのが見えて、思わず広げちゃったんです」 「名前?」 「そう。手書きで」 「それって、もしかして」 「そうなんです。まさかのラブレターでした」  電話の向こうの彼は、照れくさそうに、でもとても嬉しそうに笑う。 「いや、すごく控えめな書きぶりだったから確信は持てないんだけど、多分そうだろう、って思うことにしてるんです。相手の名前も何も書いてなかったし、『どうしても声をかけられずにいるので、思い切ってお手紙を書くことにしました』ってあったから、多分話もしたことのない相手なんだけど」 「……ひょっとしてそのお手紙、今も持っていたりするんですか?」  あ、今頭を掻いてるな、と手に取るようにわかる。 「持ってます。捨てようとしたその人には申し訳ないけど、嬉しかったから」  その答えに、私はほっと溜息をついた。 「書いた人も、それを知ったら嬉しいと思うかも」 「そうだといいんですけどね」  私も彼も、そこでしばらく口をつぐんでしまった。なんだか破ってしまうのが惜しいような沈黙だった。  テーブルの上に置いた小型の加湿器から、細かな水滴が断続的に吹き出す。それが部屋の空気に溶けていくのをぼんやりと眺める。  私は最初の老婦人との会話以来、「いとでんわ」の相手に必ず告げている言葉を口にした。 「ありがとうございます。今日はあなたと話せて、よかったです」 「俺もです。ありがとう」  そのまま、電話は静かに切れた。  スマートフォンの通話記録には相手の情報は何ひとつ表示されない。けれど、空気に溶けた水蒸気のように、その相手は目に見えなくても確かに存在している。  そして、その人の存在は必ず、どこかで今の私につながっているのだ。
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