『風の子守唄』

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『風の子守唄』

 その夏、母親は、初めての子育てに右も左も分かりませんでした。赤子は、生まれて半年を過ぎた辺りでしょうか。夜泣きが毎日のように続いているらしく、母親に至っては、自らの食事を作ることですら億劫なようで、いつ倒れても変ではなかったのです。  そこで、白羽の矢とでも言いましょうか、この私めにお声が掛かったのです。私めは、お声が掛かれば、どこへだって飛んで行くことができるのです。ええ、それが仕事なのですから。それのみが私めにできる、唯一のことでもあるのです。  私めは、風。どこへでも、どこまでも。時に嵐のように荒々しくもなりましょう。幼子に語り聞かせるような、そよ風にもなりましょう。  さて、私めを呼ぶのは、どこの母親か。私を招くのは、どんな赤子か。どちらにしても、急がなければなりません。 「はあ、疲れたわ……。私に、お母さんは無理なのかな……」  夏特有の嵐の夜が過ぎ去っても、未だ風が吹き荒んでおりました。その中で、独白にも近く、ただ言葉を発しているだけの母親が見えました。化粧台の前に座っていますが、もはや自らを省みることは難しく、鏡に映る顔でさえ輝きを失っていました。  私めには、母親が、とても努力してきたのが、その疲弊している様子からも窺えました。母親の視線の先には、赤子が泣き疲れてしまったのか、静かな寝息を立てています。なんと、儚いものでしょうか。小さき者のではありますが、それ以上に、大きな可能性を秘めているように思うのです。  私めが、そう思った矢先のこと、赤子は目を覚まし、大きな声で泣き始めました。どうやら、私めの気配に気づいたようですね。その証に――小窓が小刻みに震えています。  私めは、風ですからね。微かにでも触れさえすれば、小窓も家も、屋根でさえも、不規則に震えるのです。それは、決して恐れから生じるものではありません。そして、喜び故のものでもありません。風とは、受けるものによって、その意味と価値を変えるのです。  けれど、少なくとも今だけは、怒りや悲しみではなく、包み込むような優しい風でありましょう。だから、顔をお上げなさい。目の前を遮ってしまう垂れ幕から、灯りさえ入り込まない陰から、あなたが赤子にとっての唯一の母親である証を立てなさい。赤子は、あなたを求めているのです。  赤子は、より一層の強さをもって泣きました。その甲高い泣き声に、母親の表情に陰りが生じていきました。かと思えば、大きな溜め息は吐いたものの、やはり人の子であり、母親なのです。赤子を胸へと引き寄せると、優しい顔をして、あやし始めたのですから。 「ごめんね……。こんなお母さんで……。あなたのお母さんは私なのにね」  母親は、小さな声で泣いていました。赤子に釣られるように涙を流していたのです。溢れんばかりの涙が、ひとつふたつの雫となって、赤子の頬に当たっています。  あらあら、いけない。母親は、そう言うかのように、涙を優しく拭い取ってあげました。力任せに拭うのではなく、そっと触れるようにして、それとなく拭ったのです。  私めは、その者が一人の女性でありながらも、その身には、母としての人格と覚悟にも似たものが宿っているのだと、より強く確信しました。  人間という生き物ほど、感情に左右されてしまうものはありません。言葉で相手を罵ることも、眼差しや振る舞いで相手を傷つけることも、どちらも平然と行うのですから。けれど、同じ言葉や眼差しで相手を癒したり、赦したり、それができるのも人間なのです。  ただ、全ては、結び目と同じなのだと、私めは思うのです。固い結び目を解こうとしても、力任せではできません。紐や糸が絡み合ったものでさえ、一度に解こうとすれば、途中で切れてしまうのです。ゆるりと、ただ、自然に身を任せるようにして丁寧に。そうすれば、綺麗に解けゆくものなのですから。  私めに、でき得ることは、赤子を想う母親の唄に、そっと添える風の演奏ぐらいなもの。だからこそ、疲れた体を癒すように、絡んだ紐を解くように、唄に寄り添いましょう。 「唄をうたってあげるね。赤子よ、赤子――」  ごらんなさい。母親は、そう言って、ひとつの唄をうたい始めましたよ。その唄は、幼い頃に母親自らも聞いて育った、子守唄でした。ああ、懐かしい。私めも、その唄を知っています。何故なら、母親が乳飲み子であった頃、私めも、そこにいたのですから。  赤子よ、赤子。母の胸にて、心地良く。  赤子よ、赤子。母の腕にて、揺りかごみたく。  赤子よ、赤子。母の唄にて、静かな寝息を聞かせておくれ。  母親は、唄を続けました。とても短い唄でしたが、何度も繰り返して唄っておりました。耳を澄ませると、荒れていた風音も不思議と凪いで、赤子の顔も穏やかなものになり、微笑んでいるようにも見えました。  さて、私めの役目は終わりです。この唄は、これからも続いていくことでしょう。母が子を愛し、子もまた大きくなって、誰かを愛するように。  風の子守唄。本当は、ただ寄り添うだけの風音。さあ、お次は、どこへ行きましょう。私めを、呼ぶ声が聞こえます。
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