『硝子の迷子』

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『硝子の迷子』

 私は、硝子だった。半透明で平面な姿をして、黙したまま雨風に打たれ、何かの拍子でひび割れもする。熱せられ、冷やされ、人の望むがままに形を変える日々。それが私の全てであり、他には何もない。その意味では不変。変わることのない絶対的なもの。けれど、満たされはしなかった。  私は、迷子だった。誰かが私を作り、鮮やかな色を付ける。それは、時に飾りとしての役割を持つこともあるけれど、ただ、そこに在るというだけで、硝子でしかない私に価値を与えることはなかった。それ故に私は、硝子以外の何ものでもなく、自分を持っていなかった。  そんな私にも、実に様々な表情を持つのだと言われたことがある。何故、そう言われるのか、不思議でしかたなかった。言われる度に、その理由を考えもした。答えなど、見つかるはずがないというのに。  ある朝のこと。私は、すぐそばの鏡に映っていた自分の姿を見た。そこには、美しい白百合の花が私という細めの硝子の瓶に生けてあり、部屋に彩りを与えていた。鏡がなければ、私は自分の姿を見ることができず、これほどまでの存在感を出していることにも気づけなかった。その時、私は自分の存在することの意味と、その価値について分かったような気がした。  しかしだ。分かった気でいただけという、その証とでも言うのか、それが一つの現実として私に降りかかった。些細なことだった。あどけなさの残る少女が唇に紅を塗っていた。その際に、誤って硝子の瓶を落としてしまったのだ。私は、少女の驚いた顔を見ながら、何も語ることなく落ちていった。  直後、床の一面には瓶の中の水が広がり、いくつもの花びらが散り、硝子でできた私の体も不揃いに割れてしまった。薄れ逝く意識の中で、私は思いを巡らせた。恐らくは、少女は母親の真似事をしたかったのではないか。化粧台の前に座り、紅を唇に塗る。それだけの行為でさえも、幼い少女には、美しく映ったのだろう。しかし、少女の気持ちを代弁するかのような私の思いなど、所詮は夢や幻のように、想像の域を出ることはなかった。意識が完全に消える前、少女の涙が砕けた私の体の一部に当たった。  次に目覚めると、私は、その姿を変えていた。平面だった私は、瓶という花々を生ける容器へと変わり、そして今は、全てのものを見下ろすかのような高い場所から、数えきれないほどの人を見ていたのだ。そばには、鏡が置かれておらず、自分の姿を見ることは叶わない。だが、一つだけ、明確に分かることはあった。  私は、再び平面な硝子へと戻っていた。また、あの頃のように雨風に打たれるのだ。硝子の体が粉々に砕けるまで、或いは、割れてしまうまで。  結局、私は硝子でしかなく、迷子のまま一生を終えていくのだろう。最早、絶望すら抱かない。平面となった硝子の私に抱くものなど、眩い光が透過することで浮き出される女性の姿を模したものだけだった。 「いつ見ても、優しい表情ね。硝子で作られたものではあるけれど、そこに慈悲深さを宿しておられるように感じるわ。聖堂に集まる私たちを見守りくださる聖母のように」  繊細な白百合の花の刺繍が施された白く薄い布、それで頭を覆っている一人の老婆が私を見つめていた。穏やかな表情で、その瞳には涙を薄っすらと浮かべ、何かを思い出しているようにも見えた。老婆の隣には、幼い少女が立っており、不思議そうに尋ねていた。 「お祖母ちゃん。どうして、ここに来る度に泣いちゃうの?」 「ああ、これかい? これはね、昔のことを思い出してしまうのよ。お祖母ちゃんがお前ぐらいの歳の頃に、私の母が大切にしていた花瓶を割ってしまってね……。その時の花瓶が、あの硝子に描かれた絵に何となく似ているのよ。きっと、雰囲気が似ているのね」  私には、老婆の話すことに心当たりがあった。私は知っているのだ。遠退いていく意識の最後に、いくつにも砕けた硝子の私に寄り添い、涙を流した少女のことを憶えている。硝子の身に刻まれた、数々の記憶の断片。特に強く、色濃く残っていたものが少女の涙だった。  あれから少女は歳を重ね、大きく成長したのだ。少女から大人の女性となり、愛する人を見つけ、幸せな家庭を築き、次の世代に想いを繋いでいくように、小さな孫と一緒に会いに来てくれたのだ。 「あらあら、いけないわ。歳を重ねると、どうにも涙もろくなってしまうのよ。でも、嬉しいの。こうして、何度も会えるんだもの。これも、一つのお導きね」  老婆は、そう言って涙を拭い、明るい笑顔を見せた。そのあとに祈りの言葉を紡ぎ、一礼した。  私は、硝子であり、迷子だった。人が望む形へ姿を変え、色を施し、無数の想いを宿してきた。それは、少女が老いるほどの歳月であり、長い旅でもあった。  私は、漸く旅の果てに答えを見つけた。この笑顔の為に私は生まれてきたのだ。全ては、この喜びの日を迎える為に――。
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