『錆色の便り』

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『錆色の便り』

 その昔、クレアという名の若い女性がいた。彼女の日常と言えば、廃墟のような佇まいをした、家の中だけで完結するものだった。  彼女にとって、愛する者と過ごした家というものは、特別な意味を持っている。それ故に、彼が――ランディがこの世を去ってからも、自らが生きている間は、その家には繋がりがあった。  潮の満ち引きにも似ている哀しみが、幾度となく押し寄せてこようとも、クレアには、それ以上に強い意志がある。その証こそ、ランディの死後に於ける彼女の生き方だ。不器用でありながらも、一人の者のことを愛し続けるという点では、純粋であるとも言える。二度と帰らぬと分かっていても、それだけで彼女には十分だった。 「ランディ……あなたが、私の許を去られてから、幾つもの季節が過ぎゆきました。この辺りに人の気配など、するはずもなく。私の体も病に伏した今、もう、長くはないでしょう」  そう言いながら、クレアは、口許を手で押さえて何度も咳をした。口の中には血の味が広がり、手の平にも赤黒い血が見てとれた。彼女は、肺をやられていた。病は瞬く間に全身へと広がり、生きているだけでも、奇跡的だった。  最早、彼女に残された時間など残っていない。それは、彼女自身も理解していた。人の気配のない場所で、ランディと過ごしたこの家に居続けている理由も、そこにあった。死する時まで想い出に触れ、また、想い出に囲まれるようにして静かに眠りに就く。  ランディと出会う前、彼女は、孤独な人生を歩んでいたが、それ以上に過酷な運命を背負ってもいた。ある裁判が頻繁に行われるようになっていた時代に、たった一人の親しい友人が、あろうことか裁判にかけられ、断罪された。不幸の始まりは、まさしく、ここからだった。  当然、クレアも断罪された友人の関係者として目を付けられた。私は違う、私は何もしていないという訴えなど、聞き入れられるはずもなく。次第に町人たちからも冷たい声を浴びせられるようになり、行き場のない負の感情をぶつけられるようにもなった。  しかし、ランディだけは、クレアを真っ直ぐに見つめていた。今でこそ、病に体を蝕まれ、体は痩せ、食事も喉を通らない彼女だが、その美しさは、未だ目を見張るものがあった。気高さと言うべきか、苦難の連続が彼女を成長させたのか。惜しむのなら、生まれた時代が悪かった。  もしも、彼と出会っていなければ、今頃、クレアは野に朽ちていただろう。或いは、断罪されていたはずだ。そのこともあり、肩身の狭い思いを抱きながら、人目を避けて生きるしか他になかった。万が一、人目に触れでもすれば、次の瞬間には、想像を絶する業火に見舞われるのだから、恐れるのも当然だった。 「それでも、あなたは、私を傍らに置いてくださいました。叶うのなら、もう一度……そのお声が聞けるのであれば、それだけで思い残すことはなくなるというのに」  ランディが使っていた木製の椅子。クレアは、その上に腰を下ろし、繋ぎ合わせた厚手の布を何枚も羽織った。もうすぐ夏になるという時期に、彼女は酷い寒気に襲われていた。その身は、部屋に充満している腐敗臭にすら気づけぬほど、弱り、蝕まれている。  不意に意識が遠退いていく。彼女は、椅子の背にもたれたまま、弱々しい寝息を立て始めた。ここ数日、彼女は、小一時間ごとに眠っては起きることを繰り返していた。  だが、珍しくも、この日だけは、違っていた。何故か、充足感のある眠りだったのだ。胸が恋焦がれるほどの、幾日も見ていなかった夢を見た。ランディが、愛する者が会いに来てくれたのだ。 「ああ、ランディ……。私、あなたに、話したいことが沢山あるのよ。でも、それは、あなたの許へ逝くまで我慢するわね」  夢というものは、不思議なもの。本来であれば、夢の中で痛みを伴うことはない。しかし、クレアは、現実で起こっていることのように、生き生きとしたものがあったのだ。 「ありがとう、ランディ。私と共に生きてくれて、本当に――」  微笑む彼に触れると、彼女の指先に温もりが伝わってきた。忘れることのない彼の声と、優しい眼差しに感じるのは、絶対的な信頼と愛おしさ。彼女の瞳からは、心の奥底から生じる喜びと幸せによる、熱い涙が零れ落ちていった。  そう、落ちたのだ。涙が落ちるようにして、クレアも椅子から落ちていた。既に生気は失われ、呼吸も止まっている。泣いていたのだろうか、涙の流れた痕跡が薄っすらと頬にまで達していた。口許には、極めて少量の血が滲んでいたものの、それが逆に唇を美しく飾ってもいた。  彼女の視線の先には、埋葬できずにいた、ランディの体が横たわっている。たった一枚の布が、彼を包み込んでもいた。死の間際、彼女がそれを見ようとしていたのか、それは分からない。椅子から崩れ落ちた時、偶然にもその姿勢になったのかも知れないし、最後の力を振り絞って別れの言葉を告げたかったのかも知れない。  それを知っているのは、クレアと、それを見届けていた、この家だけ。彼女の人生もまた、廃墟と化した家の中でのみ完結したのだった。
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