『星祭りによせて』

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『星祭りによせて』

 一年に一度の星祭りの日は、とても大切な日であった。その女性は三十手前で、お祭りに新鮮味を得ないが、この星祭りの日だけは別で、必ずある場所を訪れることにしている。  それは、彼も同じであった。まるで、待ち焦がれるように、その女性を待っている。それ故に、女性にとっても星祭りの日の恒例行事となっていた。  そんな生活が十年ほど続いている。が、今年の星祭りを機に辞めようと女性は考えていた。ただ、彼のことを嫌いになった訳ではなく、一年に一度しか逢えないのが辛いという訳でもない――寧ろ、溢れんばかりの愛おしさで胸が一杯になるほどだ――が、女性は、敢えて辞めることにしたのだ。 「ねぇ、辰彦。私さ……もう、逢いに来るのを辞めようかなって思ってるの。今日は、それを伝えたくてね。辰彦は、許してくれる?」  女性の問いに、辰彦と呼ばれる彼が答えようとするも、言って聞かせる声量ではなかった。耳を澄ませても、澄ませなくても、聞き取ることはできない。端から見れば、女性が一方的に喋っているように映るだろうし、独り言を呟いているようにも思われるだろう。  ――詩織、やっと決めたんだな。僕は、君に幸せになって欲しいと思っていた。だから、僕のことなんか綺麗に忘れて。君が前に進む為の枷にはなりたくない。 「辰彦……あなたは、幸せだった? 私は、とても幸せだったわ。あの日、あなたに出逢えたから今の私がいるんだし、あなたがいてくれたから、今日まで歩いて来れた。それなのに、さ」  詩織と呼ばれる女性の瞳には、薄らと涙が浮かび、一つの雫となって頬を伝う。その涙は、別れることの辛さ故に流す涙でも、耐え難い哀しみから生じる涙でもない。辰彦に対する想いの強さと、積み重ねてきた思い出が涙となって流れ落ちたものだ。  胸に焼き付いて離れない、そんな焦がれる想いと、幸せに満ちた多くの記憶。それらは、辰彦と詩織の関係の強さを現すと同時に、離れていても見失うことのない、一つの繋がりをも示していた。 「本当、ごめんね……私だけ、こんなでさ……」  泣いていた。止め処なく、涙が溢れてくる。抑えの利かなくなった感情が、より後押しするように涙を流させる。こんなはずではなかった。笑顔のまま、お別れをしたかったのに。詩織は、そう言いながら、膝を抱えて涙が止まるのを待った。  ――詩織、泣くなって。別れというのは、笑顔でするものだろう? また逢えるって、笑顔を通して約束するんだよ。そうじゃないと、いつまでも哀しいままなんだから。  辰彦は、優しく諭すように詩織の頭を撫でた。同時にふわりと、風が抜けていく。 「本当……私って弱いね。こればかりは、治らないわ。私も辰彦のように強くなりたいなって、これでも頑張ってみたこともあるんだよ。でも、駄目だった。笑っている時より、泣いている時の方が何倍も多かったんだもの」  詩織の涙は止まらない。こうして年に一度だけ逢うのも、これが最後となる。決めたからこそ、次からは逢えない。いつか出逢える日を願い、笑って別れたとしても、この願いは叶わないのだ。詩織自身、頭では理解していても、心の部分では、やはり折り合いがつかなかった。  今年の星祭りの日で終わりにすると決意し、最後の言葉を交わそうと自らに言い聞かせ、辰彦の許を訪れた。そんな詩織ではあったが、これまでのことを振り返ると、簡単に割り切ることができなかった。長い時間をかけて歩いてきたのだから、来た道を戻るにしても、前へと更に進むにしても、同じぐらいの時間か、何倍もの時間がかかる。ならば、どちらを選択するべきか、どの道が正しいのか。 「でも……泣いてばかりじゃ駄目、それも分かってる。覚悟したんだから、前に進まなきゃって。塞ぎ込んでいたんじゃさ、辰彦も安心して眠りに就けないもんね」  言って詩織は、ハンカチをポーチから取り出して涙を拭う。その時の彼女の瞳には、力強い意志を感じさせるものがあった。迷いなど一切なく、淀みもない。その様子を見て、辰彦も安心したのか、穏やかな表情をする。  木々の隙間から差し込む光に、ふと詩織の左手の薬指が輝く。辰彦も、それには気づいていた。気づいていたからこそ、自分のことなど忘れても良いと、明日に向かって歩んで欲しいと答えたのだ。  ――やっと、心から慕える人を見つけたんだな。これで僕も心残りがなくなった。ありがとう。今更、こんなことを言っても、君には聞こえないけれど、ありがとう。  二人の想いが重なった時――それは、唐突に訪れた。辰彦と詩織の脳裏に、これまでのことが蘇ってきたのだ。楽しかった日のこと、幸せだった日のこと。出逢いから別れてしまうまでのことを、二人は映像を見ているかのように思い出していた。  二人は、高校三年の、星祭りの日に付き合い始めた。受験のこともあり、本格的に交際を始めたのは、大学生になってから。つまらない理由で喧嘩をしたり、他愛ない話で盛り上がったり、成人式を迎えるまでの二年間があっという間に過ぎていった。  お互い二十歳になると、一緒に成人式に出ようと約束を交わし、美味しい葡萄酒を飲もうと準備もしていた。辰彦も詩織も忘れることなく、昨日のことのように思い出せる。そう――思い出せるのだ。哀しいことまでも。  成人式の当日、辰彦だけ会場に現れなかった。行きたくても、行けなかった。不運としか言いようのない出来事。詩織が成人式に出席している時間帯、彼は病院にいた。医師に看護師が忙しく動き、容態を確認しては適切な処置を進めていく中で、微動だにできなかった。  辰彦は、生死の境を彷徨っていた。その日、珍しく寝坊をしてしまった彼は、急いで会場に向かっていた。身支度を整えると原付のバイクにまたがり、途中の信号に足止めをされながらも、あと少しのところまで進んでいたのだ。  その時だった。急な車線変更をした自動車、それを避けようと道を逸れた際に転倒。大事故にこそならなかったが、打ち所が悪かった。被り方が甘かったのだろう、転倒時にヘルメットが外れ、頭部をぶつけてしまった。しかし、意識は鮮明で、特に異常は感じられなかったことも不幸を招く要因となった。本人でさえも軽傷だと思い込むほど、多少の青あざを作る程度で、無傷に近かったのだから。  念の為にと、駆けつけた救急隊員が精密検査をするべきだと説明するも、この時の辰彦には、成人式に遅れることの方が問題だった。日を改めて検査を受けると伝え、すぐに会場へと向かう。  だが、結局は会場に辿り着けなかった。信号待ちをしている間に意識を失い、その場で倒れたからだ。そうして、救急診療の指定を受けている病院に運び込まれたが、処置の甲斐もなく、医師の口から死亡時刻が告げられる。辰彦の所持していた携帯には、何通もの履歴が残っていた。 「辰彦……もう十年が経ったんだよ。ずっと、あなた以外には、誰も考えられなかった。お陰で、すっかり三十手前。あなたの年齢を超しちゃったわ」  ――ごめんな、詩織。あの時、救急隊員の言うことを聞いておけば、君を哀しませなくて済んだのにな。情けないぐらいに悔しいよ。 「あ、それとね、見える? 私、来月には結婚するんだよ。この指輪も、その人がプレゼントしてくれてね。何とか、幸せになれそうよ。だから……あなたに逢いに来るのも今日で終わり。ごめんね」  ――良いんだって。謝らないといけないのは、僕の方なんだし。君を独りぼっちにさせたのも、他でもない僕だ。でも、最後に君の笑顔が見れて嬉しかった。 「帰る前に、もう一つだけ済ませるわ」  詩織は、短い一本の笹を飾った。そこには、二枚の短冊が結びつけられている。交際を始めた記念にと、一緒に書いた短冊だ。それぞれに相手の幸せを願い、名前を書いたもの。 「星祭りの日に、私たちは付き合い始めたから、菊の花よりも笹の方がずっとお似合い。それから、これ――二十歳のお祝いに準備しておいた葡萄酒。奮発して買ったものだから、封を開けずに大切にしてたんだ。折角だし、別れを祝して開けよっか」  出逢いではなく、別れを祝う為に十年越しの葡萄酒を開ける。その矛盾しているような行為に笑いながらも、詩織は、辰彦の眠るお墓に葡萄酒を傾けた。流石に、そのままかける訳にはいかなかったが、代わりに紙コップに注いだ葡萄酒をひと口飲み、自らの唇に染みらせてから、そのままお墓に重ねた。葡萄酒の持つ芳醇な香りが漂うのが分かった。 「それじゃあ――行くね」  詩織の言葉に重ねるようにして、辰彦も別れを伝えようとした。事故には注意しろ、親を泣かせるな、他にも言いたいことがあったはずなのに、彼は上手く言えなかった。  本当はもっと、生きていたかった。親孝行もしたかった。大切な彼女を哀しませて、自分一人がいなくなる。でも、そんなことよりも、たった一つだけ伝えたい言葉があった。あの日、死の間際に抱いた気持ちを――辰彦は、手を伸ばす。そして、叫んだ。 「――詩織! 君に幸あれ!」  不意に声が聞こえた。詩織は、驚いて声のする方へ視線を移す。けれど、そこには誰もいなかった。気のせいかも知れない。しかし、はっきりと名前を呼ばれたような気がする。確証はないけれど、聞き慣れた声を聞いたのだ。 「きっと、違うかも知れない……でも、ありがとう。辰彦」  そう呟いた詩織は、ほんのりと頬を紅色に染めながら、嬉しそうに笑った。辰彦のお墓に飾られた一本の笹と結ばれた二枚の短冊が、彼女の笑顔に釣られて揺れた。  詩織は、再び歩き出す。ありがとう。さようなら。彼女を見送ってから、辰彦は静かに瞼を閉じた。優しい風に融け込むように、いつまでも、愛する人に幸あれと願いながら――。〈了〉
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