『犬の航海』

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『犬の航海』

 ふと空を見上げると、あまりの広大さに、自らの小ささを思い知らされてしまいます。それはまるで、深く、昏く、底の見えない海に恐怖を覚えるようなものです。それほどまでに、いつ飲み込まれてしまうかも分からない四つの角を持つ海の上を、行き先を決めることの叶わないままに、とても小さな一隻の船が浮かんでおりました。そこには、船長らしき人も、航海士らしき人も、また乗組員と思われるような人すら見当たりません。  つまりは、こうです。人の気配が感じられないばかりか、この先に待つ船の末路を知る者すらいないということなのです。一体、誰が舵を操っているのでしょうかと、気になるのが人の常ではあるのですが、肝心の人が乗ってはおりませんでしたので、その疑問を抱くことすらできません。ですが、唯一と言っても良いでしょう、果ての見えない海を何かが――そう、まるで波の調べにたゆたっているのです。  それは、人ではありませんでした。ええ、人であるはずがないのです。舵を操るには、当然ながら人の手が必要でありましたし、人の手を介さないのであれば、何か機械的なものに頼らなければならないのですからね。それこそ、人の意思を必要とせず、予め組み込まれた通りに動く寡黙な機械でなければ、舵を操るなど不可能なのです。  けれど、一隻の船を操っているのは、人でも機械でもなく、英語の綴りで書くのなら「ドッグ(犬)」となり、それを後ろから読めば、「ゴッド(神様)」として道を示すことのできる生き物。そうです、一匹の犬だったのです!  黄金色のような、焦げ茶色のような、美しい毛並みを持つ大きな犬は、とても利口で、聡明でもありました。名前はと言えば、大変にありふれたもので、「ポチ」と呼ばれています。  ああ、ですが、何ということでしょうか。このままでは、ポチが哀れでならないと、そう思う人が出てきても変ではありません。大きな波に追いやられてしまえば、瞬く間に海の底へと沈んでしまう船に犬が一匹だけなのですから、まったく本当の神様は、どのような意図なり、思惑なりがあって、その犬に乗り越えるべき試練を与えたのでしょうか。  揺らめく波にポチの体が震えているのが見て取れるようでもありましたが、何だか波の動きに応えるように、ポチの尾も左右に勢いよく揺れているようにも見えます。時折、恐ろしさからでしょうか、或いは、冷めやらぬ興奮からでしょうか、遠吠えとも雄叫びとも、或いは、ハッハッとするような息継ぎにも似た声がポチから聞こえてきます。  しかし、現実とは奇なもので、この航海は、もうすぐ終焉を迎えるのです。その終わり方とは、予想だにしないものではありましたが、けれども、決して想像に難くはないものでもありました。  そうなのです。ポチは、ただただ優雅に戯れているに過ぎなかったのですから。考えてもみてください。このポチのことを、こうも詳しく語っている「私」が何者なのかということをです。  ほらほら、岸辺という名の陸地に辿り着くと、そこには満面の笑みを浮かべている私がポチを待っているのですよ。ポチも水遊びで濡れてしまった体をぶるぶる震わせて、満足そうな表情で私に飛びついて来るではありませんか。 「沢山、遊んだね。おいで、今からおやつの時間だからね。今日は、飛びきり美味しいおやつを準備しているんだよ」  私の言葉を理解しているかのようにポチは、その口に加えていた玩具の船を足下に置いてから、元気よく鳴きました。それからすぐに、ぴたりと真横にくっつき、おやつはまだかと、催促する眼差しで、じっと私を見つめているのでした。〈了〉
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