カミサマの母親

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「……姉貴さ」  殴られても、罵倒されても、どこかで落ち着いていた。それはお乳をあげる少し前に蒲公英からある話を聞いていたことと――心の中で、既に強い決意を固めていたせいかもしれない。 「姉貴はさ、テニス大会のことを話す時、よく言っていたよな。誰にだって人生で、絶対負けられない戦いに挑まなきゃいけない時がある。自分にとってはそれが今なんだって」 「え、あ……うん」 「母さんもその話聞いて笑って言ってたよな。子育てが、自分にとって戦いだった。お前を育てるのには本当に苦労した……って」 「……それが何よ」  母は、僕に嫌悪しかない目を向けて言う。もうその眼に、傷付かない僕がいた。そうだ。  僕の世界に必要なものはもう、とっくにわかりきっていたからだ。なんせ彼らは半年も、僕が女の子になったことにも蒲公英と暮らしていたことにも気づかなかったのだから。 「僕にとっての負けられない戦いは、今だってこと。……お前たちから、愛する我が子を守ることが、僕の戦いなんだ」  僕は――ずっと、ギラギラした眼で僕の家族を睨んでいた蒲公英をそっと抱き寄せた。  殴られても、蹴られても、否定されても。この子を命がけで、命を捨ててでも守る――それが母親の愛情なのだ。  僕が欲しくて、けれどけして手に入らなかったものを。この子には溢れるくらい与えたいと思って、一体何がいけないんだろう。 「蒲公英が教えてくれた。僕ももうすぐ、完全に人間じゃなくなる。本当の、カミサマの母親になるんだ。だから……さよなら。今日までご飯を食べさせてくれて、ありがとう」 「ちょ、待ちなさい葵!葵!!」  慌てて母が立ち上がり、掴みかかろうとして来た手はするりと僕の身体をすり抜けた。僕の体は、蒲公英と一緒にキラキラとした粒子になって消えていこうとしている。  もうすぐ時間が来ることはわかっていた。けれど、それまでは僕はただの人間でしかなかったから。それまでは、殴られてでも時間を稼ぐ必要があったのである。 ――確かに、僕は“普通”じゃないかもしれない。こんなことを当たり前に受け入れて、現実の家族を捨てていけるなんて。でも。  神様の国へ。光の中に消えていく中で、最後に見えた戸惑う家族を見て――僕は心の中で呟いたのだ。 ――たった一人、必要としてくれる誰かのために生きたい。そう思うのは人間もカミサマもきっと同じ、そうだろ?  短くて、それでもけして譲れない戦いの――終わり。  けれどこれからまた、新しい戦いが始まるのだ。愛する“娘”が、幸せになるところを見届けるという――新たな人生という名の、戦いが。けれどそれはけして、苦しいばかりのことではない。多くの喜びに満ちた日々であるはずなのである。  多くの親達が、そうして生き抜いてきたように。
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