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独り言ではない話
ある日の昼休み、職員室から戻った桜太郎は憂鬱そうな顔をしていた。
憂鬱というより、拗ねた子供の顔というか。食事の皿に苦手なものをてんこ盛りにされたのを目撃したような顔というか。とにかく、面白くなくてたまらなくて、機嫌がよくないという顔だ。
どちらかといえば常時ご機嫌な人種のため、そんな彼が憂鬱そうにしていれば、嫌でも目を引いたのだろう。珍しく、薫のほうから声をかけた。
「津島くん、どうしたの? お昼ご飯、買えなかった?」
しょぼしょぼと自分の机に帰った桜太郎に近づいていき、薫は自然な様子でその前の席に腰かけた。手ぶらなところを見ると、薫自身はすでに昼食を済ませたあとなのだろう。
「いや、昼飯はちゃんとあるよ。今日はでっかいおにぎり作ったんだ。鮭と梅と昆布の三種類の具を入れてる」
「山賊おにぎりとか爆弾おにぎりって言うんだよね、そういうの。そんな素敵な昼食があるのに、何で元気ないの?」
「美術の先生に呼び出されてたんだよ。俺の授業態度と課題の完成度が気に入らないって。このままだったら単位はないと思え、だってよ」
薫に心配されながら、桜太郎はひとつめのおにぎりにとりかかった。海苔で包まれた黒々としたおにぎりは大人の握りこぶしより一回りほど大きく、ひとつで米一合はありそうだ。その大きなおにぎりが桜太郎の胃に収められていくのを、薫はじっと見ていた。
「三浦先生、厳しいよね。でも、そうやって突っかかる生徒には何か特別な課題を出すって聞くよね。津島くんは、何か課題もらった?」
「そう、その課題が問題なんだよ。……今美術館で開催されてる展示を見に行って、レポートを二千字で提出しろって。友達と行けばいいって、招待券くれたんだけどさ……」
「そっか。一緒に行く友達がいないから落ち込んでるんだね。津島くん、友達いないんだ」
「違うよ? 友達いるよ? てか、俺と薫くんは友達だよね? 俺はね、二千字のレポートってとこにうんざりしてるんだよ? だって、二千字って、果てしなくない? 原稿用紙五枚もだよ?」
この瞬間までレポートの文字数で憂鬱になっていたのに、薫の「友達いないんだ」発言によって、桜太郎は不当に傷つけられた。
「二千字って、そんなに大変かなあ? まず、その展示の趣旨と飾られている画家の流派と時代背景についてネットで調べたことを貼り付けたら千五百字くらいいくでしょ。あと五百字、頑張って感想を書いたら完成だよ」
桜太郎を傷つけたつもりなどないらしく、薫は涼しい顔して言った。
この薫という生き物についてわかり始めている桜太郎は、諦めて先ほどもらってきたチケットをひらりと目の前に出した。
「そんなに言うならさ、薫くん。一緒に美術館行こうよ。このおにぎりもあげるから」
薫は差し出されたチケットをじっと見て、それからおにぎりに手を伸ばした。ほっそりとして整った見た目をしているが、その見た目に反してこの美青年はよく食べるのだ。大きなおにぎりをもりもり食べながら、口の中のものを飲み込むとすかさず言う。
「この時代の絵は好きだからやぶかさじゃないけど、でも僕に頼み事をするなら、ほらいつもの」
「……何かだんだん雑になってきてない?」
お菓子でもねだるかのような気軽さで“いつもの”を要求されて、桜太郎は何とも言えない気持ちになった。
だが、それでもこの薫のことを友人だと思っているし、ついてきてくれるならありがたいから、最近思い出した怖い話を語り始めるのだった。
これは俺がまだ小学生の頃の話なんだけど、“おしゃべりおじさん”って呼ばれてる変な人がいたんだ。
おじさんって言っても、見た目はもうおじいさんでさ、洗ってないし散髪もしてないような白髪頭で、正直言って清潔じゃなさそうであまり近寄りたくない感じの人だった。
おしゃべりおじさんとか呼ばれてるけど、この人は別に誰かと話すことはない。むしろ、ずっとひとり。誰も近づきたがらないし、おじさんも自分から誰かに近づいてくることもない。
じゃあ何でその人がそんなあだ名で呼ばれてるかっていうと、ずっとひとりで話してるからなんだ。
しかもさ、ぶつぶつ独り言言うって感じじゃなくて、誰かと話してるふうなんだ。相槌を打ったり、誰かに尋ねられたことを応えてるみたいな、そんな感じ。一人二役してるわけじゃなくて、その話し相手の声は当然聞こえないんだけど、内容に耳を傾ける限り、相手がいるような話しぶりなんだよ。
よくいう、電波をキャッチしてる系の人なんだろうなって、子供心に俺は思ってた。他のみんなは怖いもの見たさでおじさんに興味があったけど、俺は誰かを笑い者にしてるのがどうしてもダメだったし、本音を言えば怖いから近づきたくなかった。
でもあるとき、仲がいい友達と一緒に帰ってるときに、こっそり打ち明け話みたいなのをされたんだ。他の誰にも言えないけど、怖いから聞いてほしいって。
何かと思えば、そのおしゃべりおじさんの話で、そいつはおじさんと話したことがあるって言うんだ。正確には、おじさんのお腹についてるもうひとつの顔と。
そいつが言うには、塾の帰りに突然おじさんが話しかけてきて、「見てごらん」って言っていきなり服をまくったんだと。変態かと思って焦ったらしいけど、服の下から現れたお腹の皮膚に小さな顔があるのを見て、動けなくなったんだって。
友達が動けなくなってると、その小さな顔が言ったんだって。「暗くなるから早くお帰り。雨が降るし、危ないよ」って。
言われてること自体は全然普通で、でもしゃべってるのはお腹の顔でってことで、友達はパニックになったらしいけど、何とかお礼を言って家まで逃げ帰ったんだってさ。
だからそいつが言うには、おしゃべりおじさんは独り言を言ってるわけじゃない。お腹の顔としゃべってるんだって。
それを聞かされた俺は、どんな反応をしたらいいかわからなかったよ。
いつか確認してやろうとは思ってたんだけど、そのあとすぐおじさん死んじゃって、結局わからずじまいなんだけどさ。
嘘をつく感じの友達じゃなかったから、冗談だったのか、本気だったのか。
本当だとしたらお腹に気持ち悪い顔がついてるおじさんで、冗談だとしたら結局気持ち悪い独り言おじさんで、どちらにしたって気持ち悪い話だからさ。
「こんな話でよかった? 小学生の頃の、よくある意味わかんない話だけど。成長して思い出すと、この意味わかんなさが怖いと言えるかなって」
自分で話しながらいまいちだったかなと感じて、桜太郎は不安になりながら薫を見た。
だが、薫にとっては気にいる内容だったようで、目をキラキラさせている。
「津島くん、それって人面瘡だよ! 人面瘡は知ってたけど、こういう話では初めて聞いた」
「人面瘡……?」
何が琴線に触れたかわからないが、薫はいたく気に入ったようで喜んでいる。桜太郎は薫の口から出た耳慣れない単語に首を傾げた。
「知らないか、人面瘡。傷口が化膿して、そこに人の顔に見える腫瘍みたいなものができて、話したりものを食べたりするって言われてるものだよ。奇病とも妖怪とも考えられているんだけど、毒や薬を与えると治療できるって言われてたらしい。すごいよね、傷が人の顔になってしゃべるなんて」
「へ、へえ、そうなんだ……」
最近ようやくわかってきたが、薫は好きな怪談のこととなると目を輝かせて早口になる。この姿を知るまではクールで知的な同級生だと思っていたが、どうやらそれは違うようだ。
「その人面瘡、おじさんが亡くなったあとはどこに行ったんだろうね」
まるで宇宙に思いを馳せるかのように、どこか夢見る表情で薫は言う。
おじさんの死とともにその人面瘡もいなくなったとばかり思っていた桜太郎は、薫の言葉に背筋がほんのり寒くなった。
「……え? おじさんと一緒に死んだんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、人面瘡は人の体を渡り歩いて生き長らえてるって考えてる人もいるみたいだよ。それだったら、もしかするとその人面瘡は今なお誰かの体に宿って、おしゃべりを楽しんでるのかなって」
うっとりする薫を見て、桜太郎はふるふると身震いした。
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