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うつし世のこと
ある日の放課後、帰ろうとしていた桜太郎は、違うクラスの女子に呼び止められた。
「あの、津島くん、だよね……?」
「そ、そうだけど」
その女子は、まっすぐな黒髪と眼鏡以外これといって特徴のない、控えめな子だ。人の名前と顔を覚えるのがわりと得意な桜太郎でも、まだ覚えていない。だが、そんな子にでもそうやって声をかけられるとドキドキしてしまうし、この恥じらう様子から何の用かと期待してしまう。
その期待は、あっさり壊されてしまうのだが。
「薫くん、呼んでもらえますか? あの、津島くんって薫くんと仲がいいでしょ? だから……」
「あー……オッケー。待っててー」
ほのかに期待してしまったものの、薫の名前を出されてすぐに察した。これは、よくあるやつだ。モテる人間の友達になると、異性に声をかけられる率だけは上がるというあれだ。告白の呼び出しの中継ぎをさせられたり、バレンタインのチョコを預けられたりという、あれだ。
悲しいな、自分もそんな立ち位置になったのかと、桜太郎は我が身を憐れみながら薫のもとに向かった。
「薫くん、何か他のクラスの女子が呼んでるよ」
「誰?」
「あ、名前聞くの忘れた……あの戸のところにいる子」
ゆっくりと帰り支度をしていた薫に声をかけると、至極真っ当なことを返されてしまった。自分に声をかけられたと思ったのが一転中継ぎだと判明したことがショックで、当たり前のことを聞くのを忘れてしまっていた。
「ああ、確か中野さんだったかな。美術部の」
「何だ、知り合いかよ」
「ううん。彼女が美術のコンクールで賞とってたから、それでたまたま名前と顔を知ってただけ。話したことはないよ」
「へえ」
薫が中野という女子のところへ向かうのを、桜太郎も興味本位でついていった。用件をそばで聞いていたら迷惑がられるかとも考えたが、そのときはそのときで考えればいいかと思ってそばに張り付いていた。
「あの、来てもらってごめんね。薫くんにお願いがあって、それで呼んでもらったの」
中野は、緊張した面持ちで口を開いた。だが、その頬は赤く、表情は晴れやかだ。イケメンを前にすると女子はこんな顔をするのかと、何だか格差のようなものを見せつけられて桜太郎の気持ちはカサカサした。
「薫くんに、絵のモデルをしてもらいたいんだけど……いいかな? 次のコンクールに出す絵、すごくいい構図が浮かんだの! それで、その中にぜひ薫くんを描きたいなって……」
「いいよ。椅子に座ってるのでも、ポーズをとるのでも、何なら資料として写真を撮るのでも何でも手伝う」
「ほ、本当……? ありがとう!」
中野は駄目で元々で頼みにきていたのか、それとも薫があっさり了承したからか、感激していた。頼み事を引き受けただけでこんなに喜ばれるなんていいもんだなと、桜太郎はますます面白くなくなる。
だが、薫がただでは頼み事を引き受けないことを思い出し、さてこれからどうなるものかと、ちょっと意地の悪い気持ちで見守った。
「でも、僕は人から頼まれ事をされて引き受けるとき、必ずひとつ怪談をしてもらうって決めてるんだ。中野さん、何かある?」
薫が感じよく尋ねると、中野はひるむことなく頷いた。そんなこと、最初からわかっていたという反応だ。それを見て、桜太郎は少し残念に思う。怖い話ができなくて、中野が頼み事を引き受けてもらえなければいいのにと、ちょっとだけ思っていたのだ。
「その話は噂で聞いてたから、ちゃんと用意してきたよ。というより、私は前からこの話を誰かにしてみたかったんだ」
そう言って、何か秘密の告白でもするように、中野は話し始めた。
これは、まだ私がうんと子供だったときの話ね。
私は、今でこそ普通に暮らせているけど、昔はすごく体が弱かったの。重い病気を持って生まれたとかいうわけじゃないのに、すぐ熱を出して寝込むし、家が清潔じゃないと咳が出るしで、共働きで忙しい両親ではとても育てられないっていうことで、母方の祖父母のところに預けられてることが多かったの。
とはいっても祖父母だって暇ではないし、私も好き勝手に動き回れるわけではないから、預けられた先でほとんど寝て過ごしてたんだけど。
そんな病弱な私の楽しみが、縁側から庭に出て水たまりを覗くことだったんだ。
不思議なことに、祖父母の家の庭には雨上がりとか関係なく、よく水たまりができていたの。小さな小さな水たまりだったんだけど、そこにはいつもきれいな景色が広がってた。
最初に覗いたときは、空を映してるのかと思ったんだけど、よく見たら違うことがわかった。
だってその水たまりの中には、昼間の青空だけでなく、虹がかかった空や、星がいっぱいの夜の空、オーロラの浮かぶ空、空だけじゃなくて魚がたくさん泳ぐ海、見たこともない外国みたいな街並み、知らない広大な景色……そんなきれいなものがたくさん映ってたから。
それに何より、覗き込んでも自分の姿が映らないから、すぐにこれは普通の水たまりじゃないんだって気づいたんだ。
だから、私は夢中になった。
寝てるしかない私の日常の、唯一の楽しみで癒やしだったといっても過言じゃないくらい、すごく夢中だったの。
でもあるとき、あれは危険なものだったんじゃないかって気づかされたの。
それまで、景色や空ばかりで人間の姿を見たことはなかったのに、ある日自分と同じくらいの齢の女の子がいるのが見えたんだ。しかもその子が、私に向かって手を振ってるの。
嬉しくなって、私も手を振り返した。
そしたらその子、おいでおいでって手招きしたんだ。でも私は怖くて、首を振った。
その子はそれを見て悲しそうにしてから、ポケットに手を入れて何かを取り出したの。その子は一生懸命手を伸ばして、私にそれを渡そうとする。
でも、ある一定以上は近づけなくなっていたから、私も手を伸ばしてそれを掴もうとした。
あとちょっとで手が届くってなったとき、おじいちゃんが驚いた声をあげて、私の体を掴んで水たまりから引き離したんだ。「うちの孫を連れて行くな!」って。
バシャンッて音がして激しく水が跳ねて、私はびしょ濡れになってしまった。でも、水たまりを見るとそこには何もなくなっていて、あとに残ってたのは乾きかけの泥水だった。
それ以来、私はその水たまりを見ていないし、タイミングよく体も丈夫になったから、祖父母の家に預けられることもあまりなくなったんだ。
あのとき見たきれいなものを何とか再現できないかと思って絵を描き始めたんだけど、私はまだ思う通りには絵を描けてないの。
できればまた、あの水たまりの中の素敵な世界を見てみたいと思うんだけどね。
「変な話でごめんね。でも、これも一応怪談かなって」
これまで誰にも話したことがなかったからなろう。どんな反応を得られるのか心配だったのか、中野は恥ずかしそうな、困ったような顔で笑った。
だが、聞きながら桜太郎は、この話は薫が好きな話だろうなと感じていた。不思議なことに、薫は直球で怖い話よりも、この手の意味がわからないものを好むような気がするのだ。
「変な話じゃないよ。いいね、こういう話好きだよ」
案の定、薫は上機嫌になっていた。目がキラキラしている。そんな目で女子を見たら勘違いさせるだろうと、桜太郎は突っ込むべきかどうか悩んだ。
「本当? よかった。誰にもわかってもらえなさそうだと思って今まで誰にも言ったことがなかったんだけど、思いきって話してみてよかった」
「誰にも? おじいちゃんとも?」
「え? そうだけど……」
「それなら、今度聞いてみるといいよ。中野さんのおじいちゃんには何が見えていたのか、答え合わせをしてみると面白いかもしれない。子供の目を欺けても、大人には違うものが見えてただろうから」
「……え?」
中野は少しの間、薫のキラキラの笑顔に騙されていたが、彼の話す不穏な内容に徐々に表情を硬くしていった。
桜太郎も何度か経験したことがあるが、薫はまるで昨日見たテレビの話でもするかのように、にこやかに怖い話をするのだ。
そんなに怖くないかもと披露しても、この薫の解説というか感想を聞かされると、一気に怖さが増してしまう。
「井戸とか水たまりとかを、昔の人は異界の入り口だって考えてたらしいけど、その水たまりは一体どこに繋がってたんだろうね?」
薫ににこやかに問われ、中野は困惑した笑みを浮かべるしかないようだった。
目の前にいるのがただの感じのいいイケメンではないとわかった今も、絵のモデルを引き受けてもらう気はあるのだろうかと、心配半分好奇心半分で桜太郎は思っていた。
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