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誰もいないはずの部屋
ホームルームを終えて少し経った教室に、慌てた様子の男子生徒が入ってきた。
まだ残っている生徒もいるが、ほとんどの者が部活へ向かったり帰ったりするために教室を出てしまっている。だが、その残っている生徒の中にお目当ての人物を見つけて、男子生徒はほっとした。
「よかった、薫くん! まだ残ってたんだ」
男子生徒は、ひとりの人物に声をかけた。
薫くんと呼ばれた人物は、男子生徒の呼びかけに気がついて視線を向けてきた。真っ黒で癖のない髪にやや不釣り合いな色素の薄い目で男子生徒を見て、愛想のいい笑みを浮かべる。
「今帰るところだけどね。津島くんは、怪我はもう大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。ボールがぶつかって鼻血が出ただけなんだけど、保健室の先生が少し安静にしてろって言うからさ」
薫に心配された男子生徒――津島桜太朗は、鼻を軽く押さえて恥ずかしそうに言った。六限目の体育の授業で鼻にボールを食らった彼は、先ほどまで保健室に拘束されていたのだ。そのため、ホームルームに間に合わず今戻ってきたというわけだ。
「それでさ、ノートを貸してほしいんだ。世界史と漢文。世界史は居眠りしてたら消されてて板書できてなくて、漢文はほら、さっき抜けてたから」
桜太朗は顔の前で手を合わせ、「頼む」とポーズを取った。それを聞いて薫は微笑んでから頷いた。
「いいけど、その代わりに怖い話をひとつ聞かせて」
「おお……! あの噂、本当だったんだ……!」
薫に微笑まれ、桜太朗は驚きに目を見開いた。
というのも、この目の前のイケメンなクラスメイト・田中薫には、変な噂があるのだ。
容姿端麗、成績優秀、おまけに社交性も高く男女問わず人受けのいい田中薫だが、生徒は誰も彼をその平凡な姓で呼ぶことはない。
あまりにも似合わないからというのもあるのだろうが、みんな自然と「薫くん」と呼んでしまっているし、彼自身もそう呼ばれることを望んでいる。女子の中には「薫の君」なんて呼んでいる者もいる始末だ。
そんなみんなの人気者・薫くんは、頼めば何でも快く引き受けてくれるものの、代わりに怖い話をひとつ差し出さなければならない――というのが、この完璧に見える彼にまつわる妙な噂だった。
その噂を自身が体験したことで、桜太朗は静かに興奮しているというわけだ。
「怖い話……怖い話か。いいよ。俺ね、いつか薫くんに何か頼み事をするときのためにって、何話すか考えてたんだ。そしたらこの前、ちょっと怖いことがあったから。そのこと話すな」
目を輝かせて、少し興奮して、桜太朗は話し始めた。
俺は五階建てのマンションに住んでるんだけど、そこで起きた話ね。
俺はこのマンションの三階に住んでるんだ。三部屋あるうちの真ん中、302号室。で、大体どこの階も同じ感じだと思ってもらったらいい。
古い賃貸マンションで家賃もそこそこリーズナブルだから、結構幅広い世代が住んでる。お年寄りから、マイホーム資金を貯めてるんだろうなっていう若い夫婦、子供がいるファミリーまでね。
ちょっと前まで、一階におじいさんが住んでたんだ。お年で、かなり弱ってる感じの。でもたぶん一人暮らしだった。
俺は三階に住んでるし、学生と老人だから生活ペースも違うから、ほとんど接点はなかった。
それでも同じマンションに住んでるよしみで会えば挨拶するし、見かけたら「ああ、まだ生きてるんだな」って安心してた。
正直、傍で見てるぶんにはいつ死んじゃうんだろって感じ。そう思いながらも何年も姿を見かけてたんだけど、あるときその部屋に業者が入ってるのを見たんだ。
家具を運び出したり、クロスっていうの? あのロール状になった壁紙を持ち込んで貼り替えてる様子だったり、ドアとか窓に目張りして何か薬剤使ってたりしてたみたいで、「清掃が入ったんだな」っていうのがすぐわかった。
不謹慎かもって思って家族にも他の住人にもわざわざ聞けなかったけど、あのおじいさんが死んだんだってことは理解できた。
部屋で死んだから、そこに清掃が入ったんだろうなって。
たまに挨拶する程度の関係だったけど、やっぱり顔見知りが亡くなるってのは気にかかるものなんだろうな。
自分の生活を送るうちに忘れてたつもりだけど、心のどっかに引っかかりがあったらしい。そのせいで、俺はあるとき変なものを見てしまった。
それは、一階の角部屋のベランダに面した窓際でたそがれる老人の姿だ。
夕方だったからしっかり見えたわけじゃないんだけど、そこに誰かいるのは間違いなかった。
俺、すっごいびっくりして、怖くて、どうしようかと思った。
それでさ、何を思ったか、一階の玄関のほうを見に行ったんだ。怖いからその場から立ち去るって思わずに、なぜか何かを確認しに行きたくなっちゃったんだ。
そしたら、なんてことなかったんだよ。
一階、四部屋あったんだ。玄関、四つあった。俺、自分が住んでる三階が三部屋だから、他の階も三部屋だと思いこんでたんだよな。
で、老人が亡くなって清掃が入ってた部屋は101号室、俺が窓におじいさんを目撃したのは102号室だったってわけ。一階に部屋が四部屋あるのを知らないと、ベランダ側を見たとき102号室の窓は101号室のものに見えるんだよ。
ね、なんてことなかっただろ?
それがわかって俺、すごい安心したんだよ。だから、その日の夕飯の時に家族に笑い話として話したんだ。
でもさ、そしたら母さんが考え込むようにして言ったんだ。
「102号室、確か長いこと誰も入居してないはずだけど……」って。
……俺が見たのは、結局何だったんだろうな。
話し終えて、桜太朗はふっと息を吐いた。
正しく話せただろうか、ちゃんと怖さが伝わっただろうかと、少し不安な気持ちがあったのだ。
だが、どうやらうまく話せたらしい。向かいに座る薫は、嬉しそうに目を輝かせていた。
「いいね。すごく面白かった。津島くんが今もそこに住み続けてて、人の営みの中に恐怖があるっていうのがすごくいい」
「お、おお……よかった」
手放しで薫に褒められ、桜太朗は安心した。それに、優等生に褒められるというのはなかなかにいいものだ。イケメンの楽しそうな顔を見るというのも、悪くない。
桜太朗がひそかに達成感を味わっていると、薫は何かを考えているようだった。自分の中で何かを確認するようにうんうんと頷いて、それから口を開いた。
「そのおじいさん、間違えちゃったんだろうねぇ」
「え? どういうこと?」
「いや、出る場所を間違えたんだなぁって。もしかしたら、幽霊も出たいと思った場所に出られるわけじゃなかったりして。それか、そのお隣の部屋に興味があったとか」
「……」
桜太朗の話は非常に興味深かったらしく、薫は目をキラキラさせて言った。その無邪気な物言いに、桜太朗は言葉を失った。
怖い話として話したが、そんなことは考えもしなかったのだ。自分が見たものがやはり幽霊で、何らかの意思を持って出没していたかもしれないだなんて。
そして、改めて客観的に――というより他人事として――言われてしまうとすごく怖くなった。
「あ、津島くんはまだそのマンションに住んでるんだったね。ごめんね、怖がらせちゃって」
「いや、いいけど……」
「また見たら教えてね」
「……お、おう」
ごめんと言いつつ悪気はないんだろうなと思って、桜太朗はもう何もつっこむ気にはなれなかった。
でも、無邪気な薫のせいでその日自宅があるマンションに帰るのが少し憂鬱だったのは言うまでもない。
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