春になる日

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 隣に並んでいた教師にも驚かれハンカチを差し出されてしまうくらい、柚木は泣いていた。  退場していく卒業生たちを拍手で見送りながら、安久津の姿を探してしまう。  これが見納め。  これからの人生に柚木はもう関わることがない。  目の前を通っていく瞬間、涙でぬれた柚木を視界に止めた安久津はちょっとだけ目を見開き、むっとしたように口元をゆがめた。  そんな表情さえ愛おしい。  卒業式が終わった後の校舎はぽっかりと穴が開いたように静かだった。  さっきまで賑やかに写真を取り合い、バンザイをしたり盛り上がって胴上げをしていた生徒たちも帰宅していった。  3年生の教室からはなにもかもがなくなり、空になった教室は眠りについたよう。本当にここを巣立っていってしまったんだなと虚しさを目の当たりにする。  ほんの少し猫背で、柔らかい声で「先生」と呼ぶ安久津の痕はもうない。 「ここの席、だったよな」  ほんの数時間前まで座っていただろう安久津の席に座ってみる。ここから彼はどんなふうに柚木をみていたのか。  教壇から見ていた景色。安久津から見えていた景色。  小さくため息をついた時だった。  ガラリと大きな音を立てて教室のドアが開いた。こんなところを見られたらまずいと体をすくませた柚木の前に現れたのは、なぜか、安久津だった。 「あ……くつ?」 「何やってんの、先生」  胸元に卒業生の証の花を挿したままの安久津が、不機嫌そうな顔を見せ、そこに立っていた。 「何、って、君こそどうしたの? 忘れ物かなにか……」  立ち上がった柚木の肩をがっしりと掴むと「あんたさあ」と安久津は怒ったような声を上げた。 「なんで泣いてたの?」 「な、いてなんか……」 「泣いてたでしょ。で、ハンカチ貸してもらってたじゃん。なんで俺の前じゃないところで泣いちゃうの?」 「あれ、は」  はー、と安久津は大きなため息をついた。 「あんなときに泣かれたら、どうもできないじゃん。抱きしめてあげれないじゃん。そういうのやめて」 「あ、うん、ごめん」  思わず謝ってから首を傾げた。どういうシチュエーションだ? 「それとさ、もう生徒じゃないからもう一回言うけど、先生好きだ」  首を傾げたまま、固まってしまう。 「生徒とつきあわないんでしょ。じゃあ、生徒じゃなくなったからもういいってことでしょ。好きだよ先生」 「……それ、は」  そうなんだけど。いいのか。 「OKしちゃってよ。泣くくらいおれのこと好きなんでしょ?」  うん、ってうなずいていいところなんだろうか。  もういいのか? 卒業したから、受け入れていいのか?  ほんの少しの逡巡のあと、柚木は小さくうなずいた。 「好き、だ」  やっと素のままの気持ちを口にできた。教師じゃなく、柚木本人としての。言ってやっと笑えた。 「うん、知ってた」  笑った阿久津の笑顔の眩しかったこと。  それがほんの数週間前の出来事だ。
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