青色のアサガオ

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青色のアサガオ

 5月の中旬、仕事が思った以上に忙しかった。  それは元号が令和になったおかげでゴールデンウィークがやたら長かったことと、それに伴う書類やシステムの更新が重なったからだ。  そんなこともあって今日も朝早くから家を出る。「あ~しんどいな」なんてぼやきながら。  駅までの道のりを何気なく歩いていると、道端の花壇に青色のアサガオの花が植えられているのが目に留まった。  もうアサガオを目にすることができるなんて……早いものだな。そういえば暖冬の影響で桜の開花も例年より早かったっけ。  普段はそんなに意識もすることもないことを考えながら花壇の横を通り過ぎようとしたそのときだ――。 「きみには……私の気持ちなんてわからないよね」  何の前触れもなく脳裏を過った言葉。それは確かに昔言われた言葉だった。  びっくりしてあたりを見回す。しかしそばに誰かがいるわけでもなく。  もし見ている人がいたとしたら、その人の目にはさぞ滑稽に映っただろう。何たって、一人で勝手に驚いてキョロキョロしていたんだから。  おっと、いかんいかん……止まってる暇なんてないんだ。ぼくがここで立ち止まっても電車と会社は待ってくれない。  だからか脳も「さっさと歩けよ」と本来の行動に戻るよう促してきた。  ぼくはその指示に従って再び歩き始める。今度は変なこと、余計なことで気を散らさないように仕事のことだけを考えるようにした。  駅の改札を抜けて、上り方面のプラットホームで電車がやってくるのを待つ。と言っても待ち時間はほんの数分で、すぐにシルバーにオレンジ色のラインが入った塗装の電車が入線してくる。  ここから会社の最寄までは1時間半。座れたらラッキーだけど、座れなかったらちょっと辛い。でも実際問題、座れないことの方が多いし……もうちょっと近いところに引っ越すかな……。  ドアが開いて車内に入ると今日は思ったより空いていた。これなら座ることもできそうだし、ひと眠りすることもできそうだ。  ぼくはゆっくりと瞼を閉じ、そして徐々に思考を停止させていく――。     ◇    ◇    ◇  ふと気がつくと、ぼくはいつもと違う場所にいた。さっき乗ったはずの電車でもなく、かといって会社でもなく、引っ越しを考えているアパートですらない。  完全なる非日常の世界……と言ってしまうと少し違う気がする。どちらかと言えば”日常だったそれ”に近いような、少し懐かしい感覚だ。  そこにいるのは15歳のぼくとあの子。  今より一回りくらい小さい身体に一瞬バランス感覚を失いそうになる。  そんなぼくに向かって、あの子がもじもじしながら何かを言う。  何て言われたのかはぼんやりと霞んでわからなかったけれど。それでもぼくの返し文句は決まっていた。 「ごめん……ぼくには無理だよ」 「り、理由を訊いてもいいかな」 「何か理由がある訳じゃないんだ。別にきみが悪い訳じゃないし……ただ、その……間が悪かっただけなんだ。ほら、よく言うよね、人が人を好きになるのに理由なんていらないって。だったらさ、人を拒む理由もいらないんじゃないかな。とにかくそういうことなんだ」 「きみには……私の気持ちなんてわからないよね」  今にも泣きそうな笑顔でそう吐き捨てられた。そしてあの子は闇の向こうへと走り去っていく。その背中をぼくはただ茫然と眺めているだけで、止めるどころか、手を伸ばすことさえしなかった。 「ぼくは――最低だ」  一人取り残された虚空の世界でそう呟いた。     ◇    ◇    ◇  ハッと瞼を開けるとそこは再び電車の中。  ほんの数瞬、何が起こったのかわからなかった。でも鮮明になっていく視界や回り始める思考からさっきのは夢だったのかと悟る。  ずいぶんと懐かしい夢だ。  確かに中三の頃にあんなやり取りをした記憶が微かではあるが残っている。でもそれは断片的な記憶の一部分であって。どうしてあんな風に突き放してしまったのかまで覚えていない。当時、彼女も好きな人もいなかったぼくだ。それなら受け入れてしまってもよかったはずなのに。  人を拒む理由もいらない……か。15歳のぼくがそう言った真意はもうわからない。それなのに永久凍土に吹き荒れる風のように鋭く冷たいその言葉自体は、何歳になっても色濃く残っている。  25年間の人生のほんの一場面、一言に過ぎないのに、ぼくの心を深くえぐるには十分すぎる夢だった。  記憶の残滓って恐ろしいものだなって改めて感じた。だって何に触発されてそれが蘇るかわからないから。  今回はたぶん、『青色のアサガオ』がトリガーだったんだろうな。確か、あの花の花言葉って――はかない恋。                             【FIN】  
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