591. 母親の笑い声

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591. 母親の笑い声

病室に戻るとドアの向こうで、笑い声が聞こえた。 母親の大きな笑い声は、入院してから初めてだったかも知れない。 静香は母親の前では笑顔でいるって決めたのだから、さっきの自分は良くないと反省した。 飯田との電話で静香は心を平常心に戻ることが出来た。 ドアを開け 「あら?皆で何を話してたの? 私の事でしょ?」 笑顔で静香が質問した。 「そうよ。静香が小さい頃の話を皆に聞かせてあげたのよ?」 「え?私の幼少期の話? もう!お母さん? どうせ私がへました話をしていたんでしょ?」 そう言いながら、売店で買ってきた飲み物を皆に渡した。 憲一が飲み物の蓋を開けながら 「お母さんは昔からおっちょこちょいだったんだね?」 憲一がケンケン(アニメのチキチキマシン猛レースに出で来る犬の名前)の笑い声を真似して笑った。 「いや、憲一?憲一の性格もお母さんに似てるぞ?」 旦那が憲一の頭を撫でながら言った。 「お姉ちゃんは私にとって反面教師だったわ。」 「そうね。美咲は優等生だもんね… 私と天と地の違いだもんね…」 静香の顔から笑顔が消えた。 でも、もう何を言われても怒らないと決めたからひきつった顔から無理やり作り笑顔に変えた。 「静香は花で例えるとひまわりみたいな子だったわ。 美咲が生まれる前までは東京に住んで居たんだけど、男の子とばかり遊んでいたのよね。 「あ。微かに覚えてるかも! 段ボール屋のケンチャンと電気屋のケイタ君。アパートの同い年の子はほとんど男の子だった気がする! 50年近く前の千住はちょっと歩くと荒川があって赤トンボやカエルや昆虫が季節ごとに何かしら捕まえて遊んでいたわね。」 「えー?東京が僕の近くと変わらなかったの?」 「そうよ。 ただ、東京はバスの外にチンチン電車が道路を走っていたわ。 都会と言ったって高いビルなんて無かったような気がする…」 「そうね。荒川近くは本当に下町だったから… 戦争で焼け野原にならなかった地域なのよ。 だから、長屋の住まいが多くて、お風呂が無かったから皆、銭湯に行ってたわね。 アパートもお風呂が無くて静香を連れて銭湯に行ってたのよ。 その時の話を皆にしてたのよ。 静香は男の子の友達ばかりだったから、なんでお友達と一緒にお風呂が入れないのか?って私に食って掛かって… 無理もないわね。3歳の時だったから。 男湯に行っちゃって…遊んでいたわ(笑)」 静香は3歳から5歳頃までの自分を思い出していた。 「ケンちゃんやケイタ君やアパートの男友達に静香ちゃんはなんでチンチン無いの? なんて言われて… なんだか急に恥ずかしくなって女湯に急いで戻ったような気がしたわね。」 母親がその時の場面を思い出したのか大笑いしていた。 「そうなのよね。 静香ったら女湯に戻ってくるなり、お母さん?なんで私はチンチン無いの? って聞くんだもの。 びっくりしちゃたわよ! それから男の子が静香ちゃんはね。チンチン隠れてるんだよね? なんて男の子達が聞くんですもの。 チンチン挟んで女の子みたいにしている男の子達が今でも忘れられなくて… 思い出すと笑ってしまうわね(笑)」 ケラケラと笑う母親を静香は嬉しく思った。 「お母さん?子供のころ男の子だって自分で思っていたの?」 憲一が静香に質問した。 「う…ん。そうなのかな? だからね。それから女の子に目覚めて髪の毛長くしたような記憶があるかな?」 「そうね。静香は急にリボンを欲しがるようになって…女の子に目覚め始めたかもね(笑)」 「それに比べて美咲は、中身は男の子だったじゃない?」 静香が妹の美咲に話を振った。 「え?私の何処がよ!」 「人間の身体をメス入れて解体したいとか。 剣道したいとか。 連れションなんて考え私にはわからない!とかさ。 中身は女の子の欠片もなかったじゃん!」 静香に言われて美咲はハッとした。 「そう言えばそうかも! なんだ!私も中身は男か~。 女友達と話すより男友達と話した方が弾むわ(笑)」 病室から笑い声が外に漏れるほど賑やかな一時だった。 それから、美咲は母親を見るからと、静香達家族は帰っていった。 ただ、笑顔の母親は入院中はこの時が最後だった。 午後から抗がん剤治療が始まり、ここからの一週間は美咲が介護で大変な日々を過ごすことになったのだった。
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