541. 川井の夫の手帳には

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541. 川井の夫の手帳には

「主人は10年前から単身赴任だったの。 岡野さんの旦那さんと同じね。 初めの一年は月に一回は帰って来てたけど、そのうち半年に一度になって…おかしいと思って主人のアパートに訪ねたのよ。 そしたら、女と住んでいて… 怒った私は離婚用紙を叩きつけたわ! そしたら、あっさり判子を押そうとして… その姿に、余計にムカついて家庭裁判所に申し出て、色々条件をつけて離婚してやったのよ。 そしたら、離婚成立した次の日に主人は狭心症で、アパートで亡くなっていて… 周りは離婚の事で揉めている事を知っていたけど、離婚成立しているとは誰も知らなかったわ。 そう。娘も知らなかったのよ。 とりあえず、葬儀は出したわ。 親戚にも離婚の話は言わなかった。って言うか、言えなかった… あの時ほど離婚を後悔したことは無かったわ。 周りはバツイチの私ではなく、未亡人の私に写っていたわ。 だから、周りが未亡人に仕立ててくれたから…誰にも本当の事を言えなくなっていたのよ。 所長にも誰にも… 離婚した後の遺品の整理や預貯金の整理は妻では無いから出来なかった… 離婚したら、他人なのよ。 だから、遺族年金の手続きも出来なかったの。 私はまったくの他人でしかなかったわ。 だから、お義母さんにだけ話して… 一緒に全てを整理してもらったわ。 馬鹿よね。何もかもお義母さんにやらせてしまったのよ。 家庭裁判所で決まったことだからって、主人の預貯金の半分をお義母さんが私に差し出してくれた。 孫の教育資金としてと言われて… そして、生命保険の証書も。 離婚しても受取人は私の名前だったから… それと主人の手帳も受け取って…書いてあることに私は涙が止まらなかった。」 そう言うと、川井の目から涙がこぼれていた。 その大事にしている手帳をバッグから取り出し、静香に読ませてくれた。 それは、遺言書のような…川井宛の手紙のように長々と書き綴ってあった。 『不倫相手は亡くなった妹に似ていた。世話焼きでくるくる動いて、笑顔が可愛くて。 いつも、月に一度家に帰ると、小言ばかりを言っている妻に嫌気が指していたのも事実だ。 しかし、中学生の娘は可愛い。自分のわがままで娘を手放したくは無かった。 今から、高校、大学、結婚、俺は一人娘の将来が楽しみで、歯を食い縛って単身赴任で頑張っていたんだ。 彼女は看護師だった。 健康診断で狭心症の疑いがあると言うことで、俺は病院に再検査に行った。 その時、俺を診てくれた看護師が彼女だった。 亡くなった父親に似ていると、初めに診査したときに言われた。 その日は24時間ホルター心電図を身に付けて帰った。 2日後、また彼女に診査してもらった。 先生がかなり心臓が悪いと言われ狭心症から心筋梗塞になる場合があるから、食事療法で奥さんと協力してもらって克服してほしいと云われた。 単身赴任で、食事療法は難しいと言ったら、自分で気をつけて食事してくれと、心臓にいい食事のレシピの冊子を渡された。 俺が家に帰ると夕方チャイムが鳴った。 ドアの外に立っていたのは、病院で先生の隣にいた俺を父親に似ていると言った看護師だった。 俺はびっくりした。 しかし、彼女は看護師である前に栄養士でもあると言い出し、亡き父親に似ている俺を放っておけないと部屋に通すと、台所に立って料理を始めた。 それが彼女との付き合いの始まりだった。 毎日、彼女は俺の社宅にやってくると食事を作って帰る日々だった。 俺はいつ日か20歳も違う彼女を愛し始めていた。 そして、だんだん妻の元に帰る事が少なくなっていた。 帰れば小言を言って俺の体の気など使わない妻の家に帰りたく無くなっていた。 彼女の料理を食べて、他愛もない話をしている時間の方が大切になっていた。 せっかくの休日。妻の顔を見に帰るより、彼女が行きたい場所に連れて行ってあげた方がどんなに心が弾むか。 そう、俺の心はすっかり彼女に傾いていた。 居酒屋で酒を2人で飲んで、社宅に代行で帰った夜、俺達は親子の関係から恋人になった記念の夜だった。 そして、次の日の日曜日に妻はやって来た。 彼女を初めて社宅に泊めた次の日に。 女の感の鋭さに俺はただただびっくりした。 彼女を罵倒して追い出した妻は、じりじりと俺を拷問のように容赦なく罵倒し始めた。 俺の病気も知らない妻の罵倒は心臓に悪影響を及ぼした。 妻に離婚届を差し出されたとき、初めから妻は怪しいと睨んでやって来た事を悟った。 俺は彼女を失うくらいなら、喜んで離婚届に印を押そうとした。 が、急に妻は慌て出して家庭裁判所で会いましょうと言い出した。 俺は彼女とは一緒になるつもりはなかった。 こんな寿命が無い俺の側には置いておけなかった。 俺は彼女を抱いた事を後悔した。親子のままでいればこんなに悩まなかっただろう。 狂った妻は何を彼女に要求してくるかわからない。 俺は苦渋の決断をした。 愛しているからこそ、彼女に別れを告げたのだ。 妻の元に帰ると嘘をついて… 俺の心臓は言葉と裏腹にどんどん悪くなった。 ニトロを飲まないといられない日々が続いた。 家庭裁判所で妻の条件を全て飲んだ。 お金を全て巻き上げられてもどうでも良かった。 俺の心臓が悲鳴をあげる。 痛くて、この場から早く切り上げたかった。 妻の顔も見たくなかった。 最後に見たかったのは、彼女の顔だけだった。 離婚を成立させて帰ってきた俺は、なぜか彼女に電話をしていた。 彼女の声を聞くと俺の心臓の痛さは無くなっていた。 俺には彼女が必要だったと、別れて心底思い知らされた。 最後に愛していると言えた。 そして、いい人を早く見つけて幸せになるんだよと言うことも口にできた。 今日、妻と離婚を正式にしたとは言わなかった。 それを口にしてしまったら、彼女は俺の元に来てしまうだろう。 俺はこれから先、独りぼっちで死ぬ覚悟が出来なくなってしまうから。 妻には悪かったと思う。 娘にも悪かったと謝りたい。 俺はこんな気持ちで心臓と仲良くいられない。 俺の行動は死を早めてしまったよな。 でもこれで良かったんだ。これで!』
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