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血と膿の匂い。うめき声と叱咤の声。私の職場はそこにある。野戦病院だ。従軍者の怪我の治療、もしくは高度な医療施設へ搬送可能な状態にすることを主な目的とする。戦況は悪化していた。悪化したというより元々無理な戦だった。相手は強大だ。作戦も何もない。相手にしてみれば力押しで十分だ
「ベッド空けて! ガーゼありったけ持ってきて」
「包帯どこ!?」
「包帯ないならシーツでもいい! 早く!!」
「ぼさっとしない!」
これが日常だ。体は機械的に動く。初めのころ、人が運ばれてくるたびに吐いていたのがもはや懐かしい。血臭の中で食事を当たり前にとれる。ひと段落すると私は食事をしに廊下へ出た。少年兵が寄りかかっている。思い出した。先刻、ケガをした兵士たちと来ていた。
「ちょっと。なんでこんなところにいるの!? すぐ治療を」
「俺は大丈夫。ケガしてねえから。けが人運んできただけ。待ってろって言われて待ってる。でも、この分じゃ忘れられてんな」
私はもう胸がいっぱいになった。もう長いこと、同僚とけが人しか見ていなかった。私は相手の年も自分の年も考えず、彼の頭を撫でまわして抱きしめた。
「えらいえらい。よくぞご無事で」
「……」
彼は私をじっと見た。遠くで私を呼ぶ声がする。どうやら食事はしばらくお預けのようだった。
「すぐ来て! 早く!!」
「はい! いいこと、次も無傷でいらっしゃいね。武勲なんていいのよ」
私は少年兵の返事も聞かずに走った。
明くる日、私は少年に言ったことを思い出して青くなった。なんてことを言ってしまったのだろう。最高に残酷なことを言ってしまった。この状況で無傷で帰るなどほとんど奇跡に近い。しかも武勲などいいなんて軽々しいにもほどがある。まぎれもない本音だが、兵士に言っていい言葉ではない。中には武勲を心のよりどころにしている兵士もいるのだ。
だが、悩んでいる暇は私には訪れなかった。けが人が次々運ばれ軍医と先輩看護師の指示のもと院内を駆け回る。これが日常だ。反省を頭の片隅に追いやり言われるままに仕事をこなしていく。余計なことを考えてはいけない。考えれば動きが鈍る。鈍れば患者は死ぬ。気が付けば取り込んだシーツをかごいっぱいに入れて廊下を歩いていた。もう夕方だ。食事は確かにしてはずだが、記憶は曖昧だった。
「ね」
スカートを引っ張られ振り向くと昨日の少年兵だった。軍服は擦り切れてどろどろだが、無傷なのはすぐにわかった。ぐっと胸が詰まる。
「俺無傷」
「うんうん。えらいえらい」
少年兵を抱きしめて頭をなでる。
「よくぞご無事で。えらいえらい」
今度は武勲などいらないと言わなかった。無傷で帰ってこいとも。抱きしめながら強く願っただけだった。少年兵はされるがまま黙っていた。
「あ」
遠くで怒鳴り声が聞こえると少年は短く声を上げた。
「呼ばれてる」
少年兵は私の腕から抜け出すと走り出した。
「どうしたの! その顔は」
それから約半年の間、彼は姿を現さなかった。現したと思ったら右頬が腫れていた。よく見ると左頬には青あざが浮かんでいる。私が思わず大きな声を出すと少年は困った顔で指をもじもじさせた。
「味方のやつは傷に入らないと思って」
私はため息をついた。何を気にしているのだ。
「冷やした?」
少年は首を振った。
「いらっしゃい」
私は怒りにかられながら少年を井戸まで引っ張った。
「ほら、これで冷やして」
私はハンカチを井戸水で冷やすと彼に渡した。
「ん」
彼は井戸のそばに座ると言われるままハンカチを頬にあてた。しみるのか少し顔をしかめる。
「なんで殴られたの」
なにをしたか知らないが、兵士とは言え子供をなぐるなんてどうかしている。
「無傷なのはお前がさぼってるからだって」
理不尽にもほどがある。
「何言われたって無傷が勝ちなんだからね」
「うん」
少年はうなずいた。
「俺、無傷」
「えらいえらい」
私は少年のそばに座ると頭をなでた。そしていつものように抱きしめる。
「よくぞ……ん?」
腕がうまく回らない。いつもと同じように肩をだいているのだが。
「ん?」
少年も顔をあげて同じような声を出す。私は身を離した。
「ちょ、ちょっと立って」
少年は不思議そうな顔をしながらも素直に立ち上がった。
「あなた、こんなに大きかった?」
「軍服二回変わった」
「二回って」
「生意気だって殴られた」
成長期と言っても限度があるのではないだろうか。だが、よくよく見れば顔立ちはまだ子供だ。
「終わり? さっきので」
「えらいえらい」
私は背伸びして少年の頭を撫でた。少年は表情ひとつ変えずされるままだ。
「よくぞご無事で」
殴られるのは可愛そうだが、無傷の証なら仕方ない。死なれるよりずっとましだ。
月日は流れた。信じられないことにまだ戦は終っていない。私はいつの間にかここで中堅扱いされるようになった。別に能力が高いわけではない。単に体が丈夫で過労で倒れたりやめたりしなかっただけのことだ。戦況は変わらず悪く、兵士が次々運ばれてくる。が、国のトップが変わってから運ばれてくる兵士の数はさほど増えなくなった。滞りがちだった物資も比較的安定的に供給されるようになった。だから私たちは少し気が緩んでいたのかもしれない。野戦病院近くの軍が大敗した。一気に重体の兵士が流れ込む。野戦病院は混乱の嵐になった。疲れ切った体に鞭打って必死に働く。血と膿とうめき声にはもう慣れた。だが、目の前で誰かが死ぬのはいつまでも慣れない。割り切れ。彼らは英雄として死んだんだ。何度も言われた言葉を私は何度も自分に言い聞かせた。だが、ダメなものはダメだった。心が納得しない。それでもこの仕事をやめられないのは知ってしまったからだ。戦で誰かが死んでいく様を。逃げられも受け入れられもしない。もう頭を空っぽにしてとにかく働くしか思いつかなかった。ついに軍医から声がかかった。
「もういい。君は休め」
「でも先生。私ちっとも疲れてません」
「最後に水を飲んだのはいつだ」
答えられずにいると部屋から追い出された。途端に、疲れが足にきてふらついた。
「おっと」
誰かが支えてくれた。背の高い兵士だった。
「すみません」
「あんた……これ」
ハンカチを差し出される。見覚えのなるハンカチだ。このハンカチは確か。
「え、あなた」
あの無傷の少年兵に渡したものだ。晴れた頬を冷やすのに使った。もう少年兵の軍服ではない。一般兵士より階級が高くなっている。
「よくぞ」
「いや」
少年ーーいや、青年は苦笑した。そこで初めて青年の額に尋常でない汗が光って見えた。
「今日は撫でて貰えそうにねえな。あ、仲間のはいいんだっけか」
言い終わるか終わらないかのうちに青年は倒れこんだ。私は慌てて受け止めたが、その重さによろけ座り込んでしまった。手にべっとりと血が付く。慌てて上着を開いた。申し訳程度に止血された傷から鮮血があふれている。
「誰か!」
私は叫んだ。頭ぐらいいくらでも撫でる。だから。
「誰か!」
このひとの名前を知らないことに今更気づく。名前を呼びたいのに名前を知らない。
「ねえ、起きて。目を覚まして。ねえ。名前、呼ばせて」
誰かから聞くなんて嫌だ。このひとの口からちゃんと聞きたい。名前も知らない誰かを目の前で喪うのはもう嫌だ。英雄として死んだ? 冗談じゃない。死なせてたまるか。私は返してもらったばかりのハンカチ引き裂いた。
「本当に行かなくていいの?」
戦が終わった。戦勝だった。周辺諸国と同盟を結び、敵国を孤立させるとその後は完全にこちらのペースだった。あの大敗は最後の敗北だったのだ。野戦病院は解散となった。今は事後処理で忙しい。戦が終わったからといって傷がなおるわけでも掃除が自動的にされるわけではない。怪我人の新たな新たな搬送先の選定や、備品の整理などやるべきことは山積みだ。
「うん。みんないなくなったら困るでしょ。まだ怪我人いるし」
外ではダンスパーティーが行われている。戦勝の祝賀パーティーだ。みんな笑いあって踊っている。
「楽しんで来て」
私には参加の資格はないから。
「や」
入れ替わりに青年が入ってきた。あの日、私の腕に倒れこんできた青年だった。あの後、青年は昏睡状態に陥ったが、何とか持ち直した。今は歩けるようになり、念のために搬送先を待つばかりだ。聞けば錯乱した仲間に刺されたのだと言う。最初かたくなに話すのを拒んでいたが、仲間を不問にすることを約束してようやく話してくれた。
「傷はもういいの?」
「うん。まだ歩くと痛いけど。祭り、出ないの?」
私はうなずいた。
「何で? ドレスない?」
「違います。確かにドレスはないけど、そうじゃない。資格がないんです」
「資格? 資格ってなに?」
こんな時に、このひとは何だってこんな声を出すのだろう。何もかもさらけ出さずにはいられない穏やかな声。いつもの無口さはどこに行ったのだ。
「私は悪い人間です。戦が終わったのに、勝ったのに手放しで喜べない」
私は自分の顔を手でおおった。
「死んでいった彼らが、残された人々が犠牲者に見えてしまう」
英雄なのに。彼らなしには戦は終わらなかったのに。彼らは尊敬すべき英雄だ。だけど。
「交渉で戦が終われるならば戦を避けることもできたのではないかと思ってしまうのです」
死んでいった人々が脳裏から離れない。生きてほしかった。勝利の祭りの日にこんなことを思うのは悪いことだ。亡くなった人々に思いをはせ、勝利に酔う日なのに。最低だ。私は。
「この戦があんたの言うように本当に避けられたのか俺にはわからない。でも」
青年は私の手を半ば無理やり引き剥がすと強く握った。青年は私の顔を覗き込むように言った。
「俺はその片鱗を戦場で見た」
「片鱗?」
「あんたの言う戦を避ける可能性。割りと最初から。だからっつってどうもできなかったけど。あれは悔しいな。可能性があるのに戦わないといけないのは」
「だから殴られても無傷で生き残ろうとしたの?」
「いや違うよ」
青年は笑った。少年兵の面影はもはや薄い。だが、笑顔になると少しばかりあの頃の顔が戻ってきた。私の手を離すと窓に寄りかかった。
「あんたに頭撫でてもらうために無傷目指して戦ってきたんだ。負けられない戦いだよ。敵は怪我する自分。自分に勝つ。克己って言うんだっけ。インテリ鼻水が言ってた」
「インテリ鼻水ってだれ」
「同じ隊のやつ。頭いいんだけどいっつも鼻水垂らしてる。生きてるよ。怪我ばっかしてたからあいつあんたに撫でられたことない」
「戦友にそんなことで優越感持たないで」
恥ずかしくていたたまれない。私はなんてことをしたのだろう。
「いいだろ。あいつはたくさんあるんだ。頭なでられて抱き締められるとかさ。俺、孤児だからそんな経験ないし。だからすげえ頑張った。たくさん鍛錬して一生分じゃねえかってくらい頭使って。どうやったらケガしねえかしか考えてなかったよ。軍の勝ち負けなんてどうでもよかった。悪い奴だろ。この国の戦いより自分の戦いの方が大事だったんだ。ずっと負けられない戦いだった」
「負けられない戦い」
「そういう風にいうと格好いいって言われた」
「だれに? インテリ鼻水?」
「いや、瓶ゾコメガネ」
私は笑いだした。
「すごいあだ名。あなたはなんて呼ばれてたの?」
「都会の野生児」
「どうして」
「孤児院飛び出してその辺うろついてたからじゃねえかな。んで、戦はじまって軍に入れば飯腹一杯食わせてくれるっつーから入隊した。まあ、飯の話は嘘だったんだけど。そこで鼻水と瓶ゾコに字と計算を教えてもらって、それで」
「それで」
「あんたに撫でてもらった」
青年が微笑む。青年の顔は先程のように少年の面影はなかった。大人の顔だった。スカートの裾を引いて無傷だと言う少年はいない。たくましくなった。そう思った瞬間なぜだか落ち着かなくなった。心臓がうるさい。まさか。
「トータルはひでえけど、けっこう俺運がいいだろ。負けられない戦いをちゃんと勝ってきたし」
青年の言わんとしていることがわからない。ただでさえ頭がうまくまわっていないのに。
「あの」
「でも、俺はもうひとつ負けられない戦いを始めたんだ。これ本当に負けられないんだ」
話が見えない。心臓がうるさい。
「飯は腹一杯食えなかったけど、金はもらえたんだよね。ちょっとだけ」
青年はポケットから小箱を取り出した。
「踊っていただけますか?」
青年は箱を開けた。私は箱の中身を知ることができなかった。青年が私の目を覗き込んだせいでそれどころではなかったから。
「あの! きず。傷に触るんじゃないかしら」
間抜けなセリフに彼はほほ笑んだ。
「ゆっくり踊るから、ね? お願い」
彼の言う負けられない戦いがなにかはよくわからないが、なんだかもう勝っている気がする。
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