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飲みかけのラムネ
あぁ……きっとぼくの気持ちは届かないんだろうな。
本能的にそう察した。
正面に突っ立って困惑している美星と、あまりにも長すぎる間。それだけの条件があれば答えを想像するのは容易だった。
6月中旬――梅雨のない北海道で珍しく雨が続いた後の晴れ間。雨上がりの屋上にはところどころ水たまりがあって、雲の切れ間から顔を覗かす露草色の空と斜陽の光を映し込む。そしてほのかにかおる土の匂い。
こんな嘘みたいにきれいな情景の中で辛い思い出が形成されることになるなんて……正直思いもしなかった。
「水井くん……」
彼女が重苦しそうに口を開く。
「ごめんなさい。今の私は――あなたの気持ちに応えてあげられないわ」
予想はできていた答えだ。それでも改めて本人の口から直接言われると結構堪えるものがある。何て表現したらいいだろうか。例えるなら、自分の周りにぽっかりと穴が空いて、無限の闇に落ちていくような……そんな感じ。
「……り、理由を訊いても……いいか?」
そんな浮遊感を抱えてる中で彼女に尋ねる。心中を訊いたところでどうにもならないと知りながらも。
「別に水井くんが悪いとか、そーゆーことじゃないんだけどね。その……どう言ったらいいんだろう……」
「好きな人とかいたりするの?」
タジタジになりながらもなんとか問いに答えようとしてくれている美星。でもぼくはその言葉を遮るように新たな問いをぶつけてしまった。何の配慮もなく。ただ、その言葉の示す意味をそのままに。
「……」
ぼくの執拗な追及に彼女はいよいよ何も言えなくなってしまう。そして消え入りそうな声で一言、「……ごめん」と。
ここまできてようやくハッと我に返る。
何をやってるんだ。振られたら振られたらしく「そうか」とか言って引き下がるべきなのに、みっともなくしがみついて。
「あ、いや、えっと……俺の方こそ、ごめん。春川の気持ちを全然考えられてなかった。こんなんじゃあ、幼馴染として……男として失格だよな」
そうやって自分自身の愚行を心の内で責めながら、遅すぎる謝罪をする。自分を卑下する謝り方をしたって自己満足でしかないことに気づかないフリをしながら。
「そんなことはないんだけど……」
そっと肌を撫でる風がずいぶんと冷たかった。
おかしいな。この季節の風はもっと暖かくて、心地いいはずなんだけど。
無理やり否定してくれる美星の優しさも、孤独になったぼくを包み込んでくれるこの場所も――残酷なほど罪悪感を増長させるだけだった。
「じゃあ、これで……おやすみ。時間取らせちゃって本当にごめんな」
いたたまれなくなったぼくは、そう告げて逃げるように去ろうとした。
これでよかったんだ。もうこれで全部お終いだ。3人で東京に行こうとか言ってたことも全部――内心、自分にそう言い聞かせながら、ドアノブに手をかける。
全ての終わりを予感させる僅かな西日。しかし、彼女はこれで終わらせてくれなかった。
「待って!」
短い一言が屋上に響き渡り、それによって不覚にも足を止めてしまった。
正直止めないでほしかったし、止まるべきでなかったと思う。もうどうにもできないところまできてしまったんだから――そりゃあ、未練だってあるけれども。それでも最後くらいは潔くありたい。
「今の私が水井くんにこんなことを願ってもいいのかな……」
美星のその言葉の続きをぼくは聞きたくなかった。回避行動をとるようにと全身に電気信号が走った。でも、あまりにも急激に高圧電流を流しすぎてしまったみたいで、四肢関節がそれぞれエラーを起こして全く反応しない。
ぼくは彼女の願いを聞くほかなかった。
「もし許されるなら、今後も――どうか水井くんには、今まで通りでいて欲しいんだ。3人で東京に行こうって約束したあのときと変わらないままで」
「そんなこと言われても……」
即答できない。できるわけがない。
告白に踏み切ったのだって、今の関係のままなのが――半歩前を行く彼女の背中を追うだけの自分が辛かったからだ。結果がどうであれ、もう今まで通りが続けられるとは最初から思ってなかった。
そりゃあ、いくら覚悟をしていたといっても動揺はあったよ。だから理由を訊いたんだし。それでも後悔はさほどなかった。むしろこれで彼女のことを考えなくてもいいや、と前向きに生きようと考えようとしていた矢先だったから、今まで通りでいることを望まれても、そのままでいられる自信がない。
お互い口を噤んだまま。グラウンドや校舎から聞こえてくる放課後の営みだけが辺りを支配していた。それは枯山水に広がる波紋みたく、この場だけのときが止まっているかのよう。
「もう……引き返せないよ」
今ぼくの目の前にある現実をそっと伝え、ノブを捻った。
「それでも私は高瀬くんと純(じゅん》くんと東京へ行きたいわ」
ギーっという錆びた音にかぶせるように美星が言う。今度という今度は返事を返さなかった。
ドアを閉じた瞬間、急に目頭が熱くなって頬を水滴が流れた。ぼくは泣いていた。その姿を誰かに見られるのが嫌で、半袖の制服で軽く拭うと、大急ぎでトイレに。それから水道で軽くバシャバシャと顔を洗う。
鏡に映っていた自分の顔は、今日……というか、通算でもワーストに入るくらい酷い顔をしていた。
◇ ◇ ◇
美星に振られてから2週間が過ぎ、ぼくはようやく平穏な時間を取り戻しつつあった。
クラスで友達と話しながら、部活動に没頭しながら、ゆっくりと自分の世界を邁進する。
これが普通なんだ。今までの閉鎖的空間で続いていたきょうだい関係を、世界間が広がってもなお続ける必要なんてなかった。
そう割り切れたから、想大と話すことも美星とすれ違うこともそんなに苦ではなくなった。
5限の体育終わり――。
「すまん、水井。ラインカーを片付けるの手伝ってくれ」
背伸びをしながら教室に戻ろうとしたところを体育の先生に捕まった。
まぁ、ラインカーを片付けるくらいだったらと二つ返事で了承する。
そんなわけで先頭集団に遅れて教室に帰ってくると、シーブリーズやら8×4やらの匂いが部屋中に充満していた。それもスプラッシュマリンとかパラダイススカッシュとかの派手な匂いが。一応校則では無臭のものを使うことになってるんだけれど、制汗剤を使っている人の中でそれを律儀に遵守している人を見たことがない。
それにしても……甘い匂いがあまりにも混在していて嗅覚がおかしくなりそうだ。体育終わりや部活終わりに、いい匂いのするウェットティッシュを使ったり、ちょっとレアな制汗剤を使ったりするのが一種のステータスらしいけど。
そんなことを考えながら着替えていると、急にザーッと雨粒が地面を叩く音が。ふと窓の外を見ると一面真っ白で一寸先も見えない。
今日は傘持ってきてないから、できることなら帰るころまでには止んでほしいな。そんな淡い期待を寄せながら終礼を聞き流していた。
でもその期待は見事に裏切られる。
沛然と降りしきる驟雨は未だに止む気配を見せず――ぼくは雨が収まるまで学校で待ちぼうけを食らうこととなった。
「あーあ、やられたな」
ほとんどの生徒がいなくなった教室でぼやく。その声は自分の想像以上に大きかったかもしれない。
「ちゃんと天気予報を見てないからこんなことになるんだぞ」
前の方の席で学級日誌を書いていた想大がそう言う。
「そーゆーけどさぁ、実際天気予報って何で見てるわけ?」
「新聞、テレビ、スマホ――その気になればいくらでも情報源はある」
「後天的な習慣付けってできると思う?」
「まだ間に合うんじゃないか?」
ぼくの問いにそれぞれ即答するも想大は学級日誌とにらめっこしたまんまで、一度もこちらを振り振り向かない。
「なぁ、想大」
「あん?」
「想大は好きな人とかいたりする?」
机に伏しながら尋ねたこと。それはわざわざ尋ねる必要のあるものではなかった。でもちょっと前から気になっていたことで。いつか二人になるタイミングがあれば訊くことができればと思っていた。
「あ?」
さすがにこんなことを訊かれるとは考えてもなかったのだろう。会話をしながらも続いていたシャーペンを走らせる音が止まった。
「好きな人はいるのかって訊いてんの」
再び、今度は声を少し大きくして尋ねる。
「な、何でー、いきなり」
ひどく驚愕した様子でこちらを振り向く。質問が質問だから無理もないといえば無理もないけど。
「いや、なんとなーく気になっただけ」
「……いるよ」
数秒の間の後の返答は、彼にしては珍しく素直だった。
「へ~、誰?」
その調子でぼくはグイグイと尋ねる。
しかし、そこは想大だ。ガードが固く、「嫌だね。知ったところでオレもお前も後悔するだけだ」と言って答えてくれようとはしない。
「もう今さらだよ」
それは心の中で思っただけのはずだったのに、何でか同時に口から出てしまっていた。
「は?」
「あ、いや、とにかくどんなこと言われてもへーきだから」
「はぁ……春川」
そう言われた瞬間、近くの山に雷が落ちた。閃光の後の轟音。でも僕の心内は人も訪れぬ森のようにいたって静かで、感情が動く気配は微塵もなかった。
「やっぱり。何となくそんな気がしたよ。ホントに」
「何でだよ」
「直感ってやつ?」
「お前はいいのかよ? お前だって春川のこと――」
こっちの方が想定外。自身が動揺したのがすぐさまわかった。
「いやいや、あんたこそエスパーかよ。何で俺の内心知ってんだよ!」
「いや、お前わかりやすいから結構バレバレだったぞ」
小さく笑いながら言う想大。
こいつにはどうあがいても勝てないのか。本当は言いたくなかったんだけど。
「好きだよ……今でも――」
ぼくは観念して美星に対する感情を正直に話した。
「でも、ついこの前振られたばっかりだから」
「そっか……お前が振られたんならオレにはもっと縁がないだろうな」
「何か言った?」
下を向いて想大がボソッと一言。それは聞こえていたんだけど、さも聞こえていないかのように尋ね返す。
「っんでもねーよ! てか告白するなら何でオレに言わなかったんだよ」
「言えるわけないだろ!」
お互い少し声が荒げる。それだけ思春期のデリケートな部分に触れているんだ。
「でもそれってズルくね? 仮に春川にOK貰ってたとしたら、お前隠してたってことだろ?」
正直、それは美星にOKを貰ってた世界線のぼくじゃなないとわからない。でも振られるだろうなってことをどこかで察してた自分がいたことも確かだ。
「いや……春川が俺のこと見てないのは薄々気づいてたから。ただ、俺の気持ちを本人に全否定してもらえれば諦めがつくって思ったんだ。たぶん、無意識に。それに想大だってなんだかんだ俺の気持ち知ってたんだろ? それならあいこじゃん」
「……」
めずらしく想大の方が先に黙り込んだ。とはいえ、「言い負かしてやったぜ」とは思わなかった。そんなことよりも想大が告白するのかしないのか、むしろそっちのほうが気になって。
「それで? 想大は告白しないの?」
「その流れで訊くか普通?」
あ、これ以上訊くと本当に収拾がつかなくなるやつだ。
関係が希薄になってきていても、不思議とこういう距離間隔は覚えてる。どこまで言うと収拾がつかなくなるとかそういうの。
「別に答えたくなかったら答えなくてもいいよ」
気にはなるけど、本気で喧嘩をしてまで知らなければならないものでもない。さっきのやり取りでお互い触れられたくない領域なことは分かったし。それなのに自分だけ知ろうとするのはズルだ。
「……機会があればするかもな」
少し考えてからこの回答。どっちつかずの一番無難な答えだろう。
「あぁ、そう」
会話が終わるころには雨も上がっていた。それでもまだどんよりとした分厚い雲に覆われていて、またいつ泣き出すかわからない。
今日は余計な寄り道はせず、帰れるうちにさっさと帰ろ。
「俺、先に帰るから」
「あぁ、じゃあな」
「おやすみ」
ささっと荷物をまとめ、去り際に一言二言程度交わす。そのときの想大はもう日誌の方を再開しており、ぼくの方を見向きもしなかった。
◇ ◇ ◇
ぼんやりと受動的な毎日に終始していると、通常の3倍速くらいで時間は過ぎ去っていく。時間という概念を久々に意識したときにはもう夏休みも終盤、お盆の直前になろうかという時期だった。
北海道の夏休みは短い。
お盆が終わればもう学校が始まる。その分、冬休みは本州より長いのだけど、それを含めたとしてもなんだか損した気分になる。
この夏休み、何かをしたかと言えばしたわけでもない。
部活か宿題、もしくは家でゴロゴロ……体たらくと表現すればいいのか。そんな毎日だ。だからこそ倍速以上のスピードで過ぎ去ったように感じるのかもしれない。
結局、その過ごし方はお盆に突入してもこれっぽっちも変わらなかった。今までずっと行っていたお祭りにだって行かず、その当日は冷蔵庫で冷やしたラムネを飲みながら縁側で夕涼み。
そしてお盆が終わって夏休みも残すところ2日、というところまできた。このまま何も変わらずに夏休みが終わるんだろうと思っていた。
しかし、それは突然だった。
部活終わりの午後、帰りの電車に揺られて幌川の駅まで帰ったときだ。ホームに降り立つとそこには美星がいた。
「ビンゴ。この電車だと思ったんだ」
そのセリフを何時間前から用意していたんだろう。全身汗まみれで、制服のブラウスも水を被ったのかくらいに濡れている。
ぼくは余計なことを考えないように目線を逸らしながら、「暑いからさ、とりあえずあっちで」と駅舎に場所を移すよう促す。
コンコースと呼ぶには少々心もとない木製の建物だけれど、それでも日よけになって外との気温の差は歴然としている。それに自販機だってある。
「春川、何か飲むか?」
ナップサックから財布を取り出し、ベンチ向かいの自販機を指さす。
「そうだね~。さすがにこの暑さだとね」
2人で自販機のもとに駆け寄る。ずらーっと並んだ売り切れ表示。さすが田舎だ。補充なんてそうそうされるもんじゃない。
「うーん。あるのはコーヒーとラムネとお茶くらいだね~」
美星が苦笑いを浮かべながら言う。
「まぁ、でも……ラムネあるし」
ぼくは130円を投入口に入れ、ラムネのところのボタンを押した。すると内部でガッタンと音を立ててラムネを吐き出した。
おいおい、そんなにぶつけたら開けたときに炭酸が吹いてこぼれるだろ。
「私はお茶にしよ~っと」
美星はがま口財布を開き、その中から500円を入れ、お茶のところのボタンを押す。今度は飲み物が出てくる音に加えてジャリジャリというお釣りを出す音がしていた。
それから再びベンチに座って各々買ったもの口を開ける。
慎重に缶のタブを引っ張る。少し開くとプシューといいながら中身が溢れ出して来そうになった。「おっと」とか言いながらそれをすすって、もう出てこないのを確認すると、今度は思いっきり開けた。
「ラムネ、相変わらず好きだね」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。昔からよく飲んでた」
彼女の指摘はほとんど間違っていない。
確かにぼくは昔からよくラムネを飲んでた。それは単純に飲み物として好きなのもあったけれど。それでもラムネ好きは夏限定の話だ。澄みきった真空色の下でアブラゼミとかの鳴き声を聞きながら、炭酸の効いたラムネを飲むのがすごい夏らしくて、何かそーゆーのに惹かれるところがあって。あ、でもこの話は美星にも想大にもしてなかったか。
飲み物でカラカラに渇いた喉を潤し一呼吸。それからぼくは気になっていたことを訊いた。
「そういえばさ、どうして待ってたの?」
「え?」
「あ、いやほらっ……この暑さの中で待ってるってことは何か理由があったんだよね?」
目を見開いて驚いた表情の美星。でも少し食い込み気味にもう一度尋ねると「あ、うん……」と俯く。それから――。
「実は私――転校するんだ」
妙に明るい声と顔。どちらも若干震えているように感じたけど、それでも何か覚悟を持った言い方だった。
最初、ぼくは彼女の言っていることが呑み込めなかった。ちょっと考えればわかるようなことだけれど。何の前触れもなく、いきなりどうしようもない現実を突きつけられたから。
「は? どこに?」
脊髄反射で理由より先に場所を尋ねた。
「仙台」
「ずいぶんと遠くに……」
「この財布を作ってくれたらしい、おばあちゃんが倒れちゃって。そのお世話をしなきゃいけないから、お父さんが仙台の会社に転職するんだって」
「らしいって……」
「会ったことはないんだけどね。何でも初孫にって作ってくれたんだって」
「……そう」
どこか他人事のような言い草にぼくは言葉を失う。
「ごめんね」
「いや……美星が謝ることじゃないけど」
謝られたってどうしようもないよ。ぼくには美星の転校を阻止する術も、一緒に仙台に行く術も持っていないんだから。ただ一つできることがあるとしたら――。
「いつ仙台に行くの?」
黙って彼女の背中を見送ることだけだ。
「明日」
「そんなに早く行っちゃうんだね」
「もうずっと前から決まってたことなんだけどね。それでもなかなか言い出せなくて」
「いや、そうじゃなくて……何でもない」
本当は”ぼくたちや工事中の新幹線よりも早く北海道から出て行っちゃうんだ”っていうことの意味合いの方が強かった。
「飛行機?」
短い問いに彼女は首を振る。
「ううん、新幹線。特急で新函館まで行って、そこから新幹線で仙台まで」
「そっかぁ」
よりによって新幹線だなんて。本当に皮肉なものだな。
時間的にも金額的にも札幌から飛行機で行く方が優しいのにあえて新幹線を選ぶ。それにどんな意図があるのかぼくには読めなかった。
「いつか一緒に乗ろうねって言ったのに、まさか私だけがこんなかたちで乗ることになるなんてね」
これが運命なんだろう。
ぼくたちはこの先もずっと一緒にいることはできない。こんなことはきっと、ずっと前から気づいていたはずなのに。にも関わらずここまで目をそらしてきて。割り切ったと頭の中では思っていても実際は全くそんなことなんてなかった。だからこの時期になって、改めてその現実を突きつけられるんだ。
でも、これが最後だから……最後にするから――せめて少しくらいの夢を見させてくれたっていいよね?
「見送り行くから!」
「そんな、無理しなくても」
「行く! 絶対に!」
「……ありがとう」
夏の終わりの太陽が埃のついた窓越しに飲みかけていたラムネを照らす。その歪んだ光はまるでぼくの心中を映し出しているかのようだった。
翌日――深川市立深川東中学校夏休み最後の日。それは最高気温36度の暑い、暑い一日だった。
一通りの宿題を片付けたぼくは部活と称して家をでる。本当のことを言えば練習休みなんだけど、とりあえず数時間戻らなくても心配されないようにするための偽装工作だ。
親は美星が転校することを知ってるのか知らないのかはわからないけど。何を思ったのか美星の見送りに行くということを言いたくなかった。
駅に行く前に想大の家に寄った。
どうせ最後なんだ。だったら、想大も含めた3人で笑顔で終わりたい。だから――。
「断る。今さらノコノコ行って何になる? 行きたきゃお前ひとりで行け」
想大のいつもに増して現実思考で、その言葉には一切のためらいがなく冷たかった。
「俺じゃダメなんだよ……それに想大だって春川のこと――」
「だから何だ! 離れていくやつに今、このタイミングでそんなこと言って何になる。それともお前は恋のキューピットにでもなったつもりか? 青春ドラマの見すぎなんだよ!」
よかれと思って言ったことを吐き捨てるように散々否定された。もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれないのに、この男はこんな終わりでいいんだろうか。
「でも最後だぞ! 想大は何も感じないのかよ!」
「お前が現実を見られない甘ちゃんだから”最後”って言葉にしがみつくんだよ。何かお前を見てるとイライラするよ。気分が悪ぃからさっさと失せてくれ!!」
ぼくも必死に噛みつく。しかし現実思考を噛み千切るどころか、歯形すらつけることができなかった。
想大はぼくの言葉を一蹴すると、玄関の扉を思いっきり閉めた。それも鍵まできっちりかけられて。
玄関の前に1人取り残されたぼく。
締め切った引き戸がぼくと想大の間にはこれだけの壁があると言いたげだった。
結局、ぼくは1人で旭川駅まで行った。仙台へ行く美星が乗る列車の始発駅……そして数年後に開業する北海道新幹線の終着駅になる場所。
想大にあんな風に断られたのはそれなりにショックだったけれど、それでもぼくは立ち止まる訳にはいかなかった。
電車を降りて、行き交う雑踏をかき分けて、特急列車の発車するホームに向かう。まず2階のホームから1階のコンコース部分に降り、そこからまた反対のホームの階段を駆け上がる。そして階段を上がりきると、まだそこには特急の姿はなく、ベンチに美星が1人で座っているだけだった。
「わざわざありがとう」
まず最初にそう言って頭を下げる美星。
「あたりまえだよ。最後くらい……ね」
全然理由になってない。というのもダッシュでここまで来たからちょっと頭が回らなかったし、息が上がっていて思うように言葉がつながらなかったっていうのがある。
軽く呼吸を整えると自然と頭も回るようになってきて、いろんなものが見えるようになってきた。
「そういえばご両親は? 姿が見えないけれど……」
落ち着いてから一番最初に抱いた疑問がそれだ。家族ぐるみのつきあいだったから、ご両親にも挨拶はしておきたいなと思っていた。けど、その姿はどこにも見当たらないし、荷物だって1人分の量しかない。
「まさかと思うけど1人で行くの?」
「それはね……私が新幹線が良いって言っちゃったから」
「どーゆーこと?」
「引っ越しの荷物の受け取りもあるしね、どう考えても札幌から飛行機で行った方が合理的なんだよ。それは知ってるんだけど……だけどね、北海道を出るときは新幹線でって決めてたから。せめてあのころ抱いていた夢も思い出も一緒に連れて行きたいって思ってたから――わがまま言っちゃった」
これが今の美星のできる精一杯なんだろう。いつか交わした約束が叶わないものになってしまうなら、せめて形だけでも保ってきれいな思い出にしておきたい――そんなところだろうか。
その気持ちは痛いほどわかるけど、よくご両親が許してくれたものだと思った。だって美星がこれまでご両親に逆らって無茶をするところを見たことがない。それは美星の性格もあるし、ご両親がもともと無理強いをするような人じゃないから。
「よく許してくれたね」
「私が新幹線に憧れを持ってたのは知ってたみたいだし。それに『こんな形で幼なじみとの夢を壊してしまって申し訳ない』って言われた。もしかしたら私がこんなことを言いだすのもわかっていたのかもしれないね」
「そっか……」
「私こそ申し訳ないとは思ってるけど、でも最初で最後かもしれないから……北海道発の新幹線に乗れるのは」
青色の特急券と乗車券。それらをはかなげに眺める美星。
「辛い?」
「うん。まぁ……ね。これが最後かもしれないし」
「……それだったらさ、最後にしなきゃいいんだよ」
「えっ?」
「その……上手く言えないんだけど……就職でこっちに帰ってくればさ。ほら、JR北海道に就職して新幹線の運転士や車掌になれれば乗るのも最後じゃなくなるし、ぼくたちもまた会える気がするんだ」
ぼくが言ったことは全くのデタラメだ。JRに就職できる保証もないし、就職したとして新幹線の業務に就ける保証だってない。それにぼくや想大がここに居るとも限らないんだから会えるとも限らない。
そんな何の根拠のない言葉でも、美星には届いた。
「うん……そうだよね」
薄っすらと目に涙を浮かべながら頷く。
「あ、でも……青森までしか行けないや」
ある意味大事なところを忘れていた。
北海道新幹線の終着は新青森。そこから先はJR東日本が管轄する東北新幹線になるから東京までは行けない。
「確かにね……でもそれを目指してみるのもいいのかもしれないね」
目指してみるのもいいかもしれない――その言葉自身が、そして言葉の先まで彼女がたどり着いてくれることをぼくは願う。
「そういえば高瀬くんは……」
一瞬ためらってから「来なかったんだね」とつけ加える。
口調こそ寂しそうな雰囲気を漂わせていたが、どうしてだろうか。言うほど残念そうにも見えない。
「悪い……声はかけたんだけど、”今さら何だ”って断られちゃった」
「まぁ、高瀬くんはそういうところあるしね。むしろ”こんなところで過去にすがってんじゃねーぞ”っていう彼なりのメッセージかもしれないね」
メッセージか。そう言われれば確かに想大っぽい気もするし、解釈するのも美星っぽい気がする。
「今は……ここでさようならだけど――でも、もし次に会うことがあったら、今度こそはあなたを好きになってもいいですか? 純くん」
「えっ?」
ぼくはびっくりして美星の顔をじっと見つめた。そして彼女はそんなぼくの顔を見て満足そうに微笑む。
そのとき、当駅始発の特急列車がディーゼルの轟音と響かせて入線してきた。
「じゃあ、そろそろ時間だから。あなたと過ごせて私は本当に幸せでした。ありがとう」
美星が深々と頭を下げる。
「おいおい、オレを忘れてもらったら困るな」
突然、聞き覚えのある声が後ろから聞こえてきた。いつぞやと声のトーンこそ違うが、それでも全く同じセリフだ。
「そ、そう……た?」
名前を呼びながら振り向くと想大がそこに立っていて。ぼくも美星も言葉を失った。もう来るはずのないと思っていたその人だから。
「純……すまなかった。あの後少し考えたんだ。本当にこんな最後でいいのかって。ただ自分の弱さを隠してるだけなんじゃないかって。それで、やっぱりこんな別れ方じゃ納得なんてできなかった。もう間に合わないかもしれないけれど、それそうの悪あがきはしたいって思って急いで追いかけたんだ……ギリギリ間に合って本当によかった」
想大は気まずそうに俯きながら言う。
「本当に都合がいいね……でも来てくれてよかった。やっぱり3人一緒じゃなきゃ」
確かにあれだけ言われたことに対する怒りが全くなかったかと言われればそれは嘘だ。でもそんな感情はほんの僅かなもので。それよりも最後の最後でいつもの3人になれたことが、どうしようもないくらい嬉しかった。願わくばこの時間が一生続いてくれればいいのにと思ってしまうほどに。
「じゃあ、改めて。私はあなたたちと過ごせて14年間幸せでした。本当にありがとう!」
美星は再度ぼくたちに向かって深々と頭を下げると、少ない手荷物を持って特急の車内の奥へと消えていった。
電光掲示板に記された時間になった瞬間、発車ベルがけたたましく鳴り、それが終わると列車はドアを閉め、ゆっくりと加速しながらホームから、そしてぼくらのもとから遠ざかっていく。その姿が見えなくなるまでぼくと想大は眺めていた。
夏の終わり、澄みきった空が広がる道央。セミの鳴き声と人々の生活音に紛れて、ぼくの初恋は静かに幕を閉じた。
このとき、ぼくはハッキリと気づいた。中学校に入ってから流動的だったように感じたこの関係は、本当は1センチたりとして動いていなかったことに。半径36の内接円、その距離間隔は。
実はのところを言うと最後にもう1つだけ、美星に訊いておきたいことがあった。けれどそれはまたいつか会えたときに訊けばいい。
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