青の彼方

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青の彼方

 雨上がりの早朝――路肩のところどころに残った水たまりが太陽に照らされてキラキラと輝く。  道行く人はそんなのに目もくれず、自身の行く先を急ぐ。  ぼくだってその一人だ。  ほんの一瞬視界に入ったとしても大して気に留めることもなく、ただただ目的地を目指すだけ。  渋谷(しぶや)駅前のスクランブル交差点を足早に渡り、構内に入ると改札へまっしぐら。その間に胸ポケットからICカードの定期券を取り出し、それを自動改札機の読み取り口に当てる。すると1秒もしないうちにピピピっと音を立てて目の前のゲートが勢いよく開いた。その後は四方八方から迫りくる雑踏を躱して、目的地最寄りに向かう電車が来るホームへ――。  しかし、このタイミングになってどこかいつもと違うことに気づく。  それはいつもより行き交う人の数が明らかに少ないことだ。加えて自分以外のほとんどの人がスーツや制服でなく、もっとラフな感じの格好で。  ぼくはハッとなってスマートフォンを見る。もしかしたらと思ったら本当にその通りだった。ロック画面に大きく表示されている曜日が日曜日になっているではないか。  「あぁ、今日は休みだったのか……」  一気にのしかかってくる脱力感と空虚感。その重さに足元が立っていられないくらいにふらつく。  そんな身体を無理やり動かしてホームまで続く階段を一歩ずつ昇る。  普段なら10秒もかからない階段にどれくらいの時間がかかっただろうか。上から聞こえてくる音からして正常なら絶対に乗り過ごさない本数の電車が通り過ぎていったに違いない。  ようやくホーム上にたどり着き、ベンチを見つけるなりそこへ歩み寄り、身体を重力に預けて思いっ切り座った。使い古された座布団がボフンと音を立て、縫い目の隙間から空気が抜けていくのを直に感じる。  その瞬間、今日何十本目だろう。山手(やまのて)線外回りの電車がやってきた。  新卒で入社して4年間、狂ったように仕事をしてきたせいか、いつの間にか体内の曜日感覚がバカになっていたんだなってしみじみと思う。  ビルの谷間を駆け抜ける風も、首を目一杯上げないと見えない空模様も、無関心に飛び交う人々の心も――ここへ来たときは全てが新鮮だった。  でもどうだろう……新しく思えたぼくの心も気がつけばそれが当たり前になっている。日が昇れば満員電車に揺られて会社へ行き、日が暮れればまた満員電車に揺られて帰宅する。そんなある意味規則的な毎日を送る中で時々自分が何のために生きているのかわからなくなることがある。  職場の環境には恵まれている方だと思う。待遇は悪くないし、対人関係も良好。不満はこれといってない。むしろできすぎた環境だろう。  それなのに何の変哲もない毎日がとにかく苦しかった。絶望らしい絶望なんてないはずなのに日々弾力を失っていく心。そんな今のぼくに対して、心に住まう過去のぼくが悲鳴を上げているのが手に取るようにわかる。北の大地で生まれ育ち、これまで”東京(とうきょう)”という言葉に幾度となく持った憧れ。それがゆっくりと……でも確実に壊れていってるような気がして。  だけれど、後ろを振り返りたくなくて、前だけを向いていたくて――それはもう一種の強迫観念に近くて。そんな気持ちに支配されたぼくは、ただ見えない明日ばかりを闇雲に追いかけてきた。  そうして今にたどり着いてしまったわけだが。一体どうしてこんなところに来てしまったのだろう?  過去をさかのぼって間違い探しをしてみる。すると粗が出てくるわ出てくるわ。ほんの少し考えただけで「ああすればよかった」、「こうするればよかった」と自責と後悔の念に押しつぶされそうになって胸が苦しい。 「あぁ、ぼくもう疲れたよ」  左腕で両目を覆い、小声でぼやく。その声は瞬く間に都市の営みによってかき消され、自分の耳にすら届かなかった。  あぁ、目頭が熱い。たぶん今覆っている左手をどけたら、あっという間に涙の雫が溢れ出してしまうだろう。  それくらいぼくは疲弊していた。  そうだ! 故郷へ帰ろう。そうすれば何かが変わるかもしれない。  突拍子もなく脳裏を過った発想。帰ったところでどうこうなるものじゃないし、ただ疲れたから帰郷するなんて……浅薄な発想に我ながら馬鹿だなって呆れて。  でもそう考えただけで、理性がそれに歯止めをかけることは決してしなかった。  目元に溜まった涙を拭きとるように左手をスライドさせる。すると真っ暗だった視界が急に明るくなり、目の前にいつもの風景が広がっていく。そして頬をペチペチと軽く叩くと電車に飛び乗った。  空を突き刺すビルの谷間から顔を覗かせる青がぼくの帰郷を肯定してくれているような気がした。 「マモナク上野(うえの)、上野デス。オ出口ハ、左側デス。東北(とうほく)山形(やまがた)秋田(あきた)北海道(ほっかいどう)上越(じょうえつ)北陸(ほくりく)新幹線、宇都宮(うつのみや)線、高崎(たかさき)線、常磐(じょうばん)線、上野東京ライン、地下鉄銀座(ぎんざ)線、地下鉄日比谷(ひびや)線ハ……オ乗換エデス」  自動の車内アナウンスが抑揚のない声で到着駅とそこの乗換案内を告げる。  それから数分、というか数百秒。電車は上野駅の3番線に時刻表と寸分の狂いもなく到着した。  その足で地下の新幹線乗換口へと足を運び、近くの券売機で片道分の乗車券と新幹線特急券を買う。片道分の当日券ということで全く割引の効いていない切符は想像以上に高かった。一気に財布の中の諭吉(ゆきち)が団体様で姿を消す。そんな結果になってもぼくの気持ちが揺らぐことはなかった。  帰郷するという一途な想いと一緒に2枚の紙きれを新幹線改札に通す。機械はガシャガシャと唸りをあげ、先端部分からそれらを吐き出した。穴の開いた切符を手に取って時間と座席を確認すると、財布にしまおうとして……やっぱりワイシャツの胸ポケットに入れた。  地下深くにある上野駅の新幹線ホーム。そこはかつて北へ伸びる新幹線の終着駅だった。でもほとんどの新幹線が東京乗り入れになった今、利用客はそっちに流れてかなり減ったらしい。それでもかつてのターミナル駅だった頃の面影を感じることはできる。島式ホーム2面4線の作りのホームはさながら闇の中にぽっかりと浮かぶ光のオアシスと言ったところだろうか。  数分おきに闇の向こうから高速で滑り込んでくる列車の行先は様々。敦賀(つるが)行のが来たかと思えば今度は新潟(にいがた)行のが来るし、仙台(せんだい)止まりの新幹線だって来る。当然、反対側のホームには東京行きの列車が常に出入りしていた。  ホームに降りてからしばらく待っていると、電光掲示板の一番上に『はやぶさ 5号 旭川(あさひかわ)』の文字が表示される。  ぼくの持っている切符のやつだ。  遠くに灯りが浮かんだなと思ったら、あっという間に緑色のカモノハシのような顔をした列車が入線してきた。完全に停車するとピーっと警告音を鳴らしながらゆっくりとドアが開き、前に並んでいた人に続いて車内に入る。それから特急券に記載された座席を見つけ出し座った途端に列車が動き出した。どんどんと加速する列車に、どんどんと遠ざかっていくホーム。一瞬で窓の外から光が消えた。  そんな目まぐるしく移り変わる車窓にこの日初めて「本当に自分は帰るんだ」という実感が湧く。加えて「この期に及んで帰ったところで後悔するだけだぞ」と心が警鐘を鳴らしてきた。  でももう遅い。ぼくはすでに引き返せないところまで来てしまったんだ――あとはもう進むしかない。  それにやっぱり本音は帰りたいんだよ。何もない場所だけど、何もない場所だからこそ。そう、どうにもできない現実とかそういうのから目を背けたいときに。  ぼくはスマホを手に取り、友達にメッセージを送った。短文で「これから帰る」と、それだけ。  その後は何をするわけでもなく、指定席にうずくまってただボーっと窓の外を眺めていた。大宮(おおみや)を出たあたりから段々と意識がぼやけてきて、自分でも気がつかないうちにそれを手放していた。
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