成長する内接円

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成長する内接円

 全ての始まりはここだった。  北海道(ほっかいどう)中央部……道央(どうおう)と呼ばれている地域の中にある深川(ふかがわ)市の外れの方、幌川町(ほろかわまち)という小さな集落。住所こそ”市”がついているが、それは名ばかりで。実態は見渡す限りの山、山、山――あとは民家と田んぼが少々。深川の市街地からもそこそこ距離があるこの地区に農業以外まともな産業があるわけもなく、辛うじて廃線にならずに済んでいる鉄道(といってもラッシュ時でさえ2両編成、しかも一時間に1本だが)や自家用車を使って旭川(あさひかわ)のような都市圏に通勤、通学している人が総人口の大半を占めている。それ故に人口流出に歯止めがかからず、現在進行形で限界集落まっしぐらの地域。  そんな場所で、たまたま同じ日に落ちた3つの命。  ちょっぴり夢を見がちなぼく、水井(みずい)(じゅん)  知識人で少し硬いところがある彼、高瀬(たかせ)想大(そうた)  優しくぼくと想大を繋ぎとめる役の彼女、春川(はるかわ)美星(みほし)  3人とも同じ誕生日――その奇跡のお陰か、物心ついたときにはすでに3人一緒だった。まぁ、もともと同級生は3人しかいなかったし、どのみち深い関係をもつことにはなっていただろうけど。それにしたって、この奇跡がぼくたちをより深く結びつけていたんだと思う。  朝が来たら3人で学校まで片道2キロの道のりを歩き、日が傾けばまた同じ道を歩いて帰る。ときどき道草をしながら。同じ道を行き来しているだけなのに、このころは不思議と新発見ばかりだった。  そんな通学路にひと際ぼくたちの目を引くものがあった。それは建設中の高架橋だ。山道を通って学校に通っていたんだけど、途中に沢があってその場所から少し平野を見下ろせるようになっていた。小学校の2年生になったぐらいからだろうか。高架橋を建設する工事が始まり、巨大な構造物が徐々に平野を真っ二つにしていった。  当時のぼくたちは高架橋なんて単語を知らなかったから、便宜的にそれを”橋”と呼んでいた。  とにかくその橋が一直線に伸びていく姿がどこかシンボリックで、毎日眺めながら登下校していたし、度々話題にも上がった。今日は工事をしているとかしていないとか、そんなこと。けれどもその橋の正体が何なのか、具体的にそんな話をしたのは意外にも遅く、小学校も5年生になってからのことだった――。 「ねぇ、水井くん、高瀬くん。この橋ってどこまで行くんだろうね」  いつものようにぼくと想大の半歩前を歩く美星は工事中の橋を眺めながら、そういう問いを投げかけてきた。 「本当にね。まるで世界の裏側にまでつながってそうだよね」  彼女の疑問にバカみたいな言葉を返すぼく(少なくともこのときは信じきっていたことだが)。 「んなわけねーだろ、純」  そして夢見まくってる発言にすぐさまツッコミを入れる想大。 「じゃあ、想大は知ってんのかよ~」  自身の言葉を真っ向から否定されたぼくは想大に食って掛かる。 「これ、新幹線の線路になるんだよ。つながる先は東京(とうきょう)」 「へぇ~いいな~東京。札幌(さっぽろ)までしか行ったことないから、東京なんて想像がつかないんだよね」  得意げに話す想大に目を輝かせる美星。  無理もない。小学生のぼくたちの基準で言えば旭川で都会、札幌で大都会の世界。そんな小さなな世界観に東京なんて場所はもはや異次元レベルの話で、ある種の空想に近い世界だった。だから憧れの1つや2つくらい普通にもってるものだ。そりゃあ、美星だって前のめりになる。  ぼくはというと、”東京”というワードに関心こそあったものの、やっぱりちょっとつまらなかった。  同い年のはずなのに、この手の知識勝負いなると想大の方が圧倒的に強い。ぼくの夢理論はいつも彼の知識量と現実思考に言い負かされる形になっていたのだ。  同じ空間で同じ年数だけ生きてきて、一体どこでこれだけの差がついてしまったのか、不思議でしょうがない。まぁ、どんなに考えようとぼくより想大の方が頭がいいのは事実なんだけど。 「でもさ、水井くんの発想も夢があって、私はそーゆーの好きだよ」 「えへへ……だってよ、想大」 「だから何だよ!」 でも最後は美星がぼくを持ち上げてくれて、それを懲りもせず想大に自慢する。そしてまた想大が突っ込みを入れてっていう定番のやり取り。 これを繰り返しずっとやってきた。だから美星もニコニコ笑いなが見ているだけで、この程度じゃあストップをかけてこない。 「ねぇ、高瀬くん。新幹線っていつ頃完成しそうなの?」 「えっと俺らが高校を卒業するくらいだったと思う」 「いつか3人で東京に行きたいな」 「そう、水井くん! 私も同じこと考えてた!! 高瀬くんはどうかな?」 「そうだな……悪くないかもな」 「悪くない? だったら無理して行くことはないんだぜ想大」 ぼくはすかさず揚げ足をとった。さっき言い負かされた仕返しと言わんばかりに思いっきり。 「なんだとぉ!」 「ほらほら、2人ともケンカしない」  想大がムキになったところでようやく美星がストップをかける。たぶん、これ以上続くといよいよ埒が明かなくなると思ったんだろう。やっぱり美星だ。こういう辺、どこでストップをかければいいとか誰よりもよくわかっている。 「純がバカなんだよ」 「想大が大人思考なんだよ」 「そ・こ・ま・で!」  それでも言い足りない想大はまだ言ってくるから、ぼくだって言い返してやった。すると今度はさっきよりも強めの口調で想大との間に割って入ってくる。 「あーい」  さすがにお互い懲りて渋々頷く。  あーあ、いつかアイツに白旗を挙げさせてやりたいなんて考えてると、美星が小指を差し出してきた。 「じゃあ、改めて約束ね――東京の話」 「あぁ、約束な」 「3人で絶対に東京に行こうな」7b18ff85-8e19-45da-bdec-779a261cc034  それぞれが小指を差し出して交わした約束。こうして漠然とした空想でしかなかった東京は、ぼくたちにとって大切な約束の場所になった。  数瞬先のことなんてわかるはずもないのに。ただ一時の流れやノリだけでこんな約束を交わしてしまうなんて、とんだ愚行だったと思う。  でもこのときは、ぼくたちに恐れるものなんて何もなかった気がする。11年の人生の中で何かを失って、大層な切なさを抱くようなことを経験したことがなかったから。  だから、この関係がこの先もずっと続くと信じて疑っていなかった。それは例え東京に行ったって、世界の裏側に行ったって、いつまでもずっと、ずっと――。     ◇    ◇    ◇  時間は残酷なほど早く経つ。気がつけば3人で東京へ行こうと約束したあの日からもう3年の年月が流れていた。 その人間関係が今も微動だにせず続いているかというと、その答えには詰まってしまう。  なぜならちょっぴり大人になったからだ。  中学生になって世界がほんの少しだけ広がって、それぞれのつきあいができた。だから次第に揃うこともなくなってきたのだ。  想大とはまだ比較的昔の交友関係を保っている方だけれど。それでも距離は確実に開いた。彼は成績優秀だし、顔だってそこそこ良い。そんな人間がクラスでもてはやされないわけがない。  そしてもっと遠くの存在となってしまったのが美星だ。彼女は彼女で、他の小学校から進学してきた女子とのつきあいがほとんどになって。  ぼく自身も別の友達とかできたし……なんか3つ子のきょうだいみたいに近い存在だったはずなのに。世界が少し広がっただけで、こんなにも差ができるものなんだなって中学2年生なりに身に沁みて感じていた。  やっぱり時の力は大きすぎる……。  それでも一瞬だけ昔の時間に戻してくれる空間があった。それこそが登下校時の列車だ。  ぼくたちの通う深川東中学校の学区は徒歩で通える距離ではなかったから、毎日列車を使って登下校をしていたのだ。特に幌川町は東中学区の一番端っこ――つまりは一番長い時間列車に揺られる。加えてそこの出身の同級生はぼくたちだけなんだから、一緒に乗れれば当然3人だけの時間ができる。  とはいっても、ぼくは弓道部、想大は山岳部、美星は吹奏楽部――それぞれが全く別の部活に所属しているから、全員が揃うのは月に1回あるかないかくらいだけれど。  5月の中旬、合服で学校に通うようになって2週間くらい経ったころの火曜日の朝。  この日は朝練がなくて、いつもより少し遅めの列車に乗るつもりだった。けれど当日に限ってそれをど忘れしていて。結局朝練がないことを思い出したのは駅に着いたそのときだった。  もうここまできてしまったのだからしょうがないと諦め、改札口に向かう。ナップサックにぶら下げていたカードフォルダー。その中に入った定期券が見えるよう左手で軽く持ち上げ、改札の駅員に掲げる。 「ご利用ありがとうございます」  マニュアル通りだろう言葉を背にホームに出ると、山の向こうから朝日が思いっきり照りつけてきて眩しかった。反射的に手を額に当てて光を遮る。その体勢のまま、停車位置の記された場所まで移動する。  コンクリートのホームに消え入りそうな文字で記された停車位置。そこに立っていればちょうどドアが目の前にくる。  腕時計に目をやると列車が来るまで残り5分弱。この時間はだいたい本を読んで潰している。そうして本を取りだした瞬間、聞きなれた声が――。 「久しぶりだな、純」  開きかけていた本を閉じて振り向くと、そこには想大がいた。 「……久しぶり。今日早いんだな」  あ、答えがぎこちないな。たぶん、顔も相当ひきつっていたはずだ。ところが想大はというとさほど気にもしていない様子。 「あぁ、朝練があってな。そっちは?」 「ん~、本当は朝練ないんだけど、ついそれを忘れちゃっててさっ」 「相っ変わらずだな」  呆れたように笑う想大。でもその笑い方の方がよっぽど昔のまんまだ。広がる世界に困惑しているぼくとは対称的に昔の自分を保っている彼。それがどこか羨まして、疎ましかった。ひょっとしたら想大に嫉妬しているだけかもしれないけれど。 「まぁね。相も変わらずの毎日だよ」 「相も変わらず……ねぇ」 「なんだよ~」 「いや、別に」  会話が途切れた。なんとなく、のらりくらりと言葉を返しているだけでこんなにも早く。  会話って意外と意識しないといとこうも簡単に終わってしまうなんだってことを痛感しつつ、なにか会話をつなげるための言葉を必死になって探る。どうにか会話をしないといけない。じゃないとこの場の空気に押しつぶされてしまう――そんな焦燥感が脳の指令を受けて全身を駆け巡って……いや、本当は話題なんていくらでもあったはずなんだ。それこそ近況報告だけで十二分に会話はできたし、場も持った。けれど内心軽いパニック状態だったから、そこまで冷静にいられなかった。  そんなぼくを救ったのは彼女だった。 「あ、水井くんに高瀬くん。おはよう」  想大の後ろからひょろっと現れた美星はニコニコと笑っている。 「おはよう、春川」 「お、おはよう」  やっぱりまだぎこちない。でも美星の登場で場の空気が変わった。これなら無理やり言葉を探さなくても、会話の流れに乗っかっているだけで済みそうだ。 「今日の星座占いでしし座は一位だって言ってたけど、早速良いことあったなぁ……ね? 2人はそう思わない?」 「「そうだな」」  最近遠くからでしか見られなかった美星の笑顔。それをこんなに間近で見られたのはいつ以来だろうか。  そんなこともあって、とにかく直視できずにいた。俯いたり、山の方を見たりをしながら、ちょくちょく相槌をうっている程度だった。  このときぼくは2人の会話や遠くに木霊する列車の警笛、そっと吹き抜ける初夏の風や水縹(みはなだ)色の空――それらの全てから自らの五感と分離されていたような感覚に陥ってた。  そんな中で今まで気づいていなかった自分の気持ちに気づいてしまった。だけどそれと同時に、どうせならこのまま気づいていないでいたかったとも思った。  放課後、ぼくは自主練習を終えて帰路に就く。最終下校時刻の午後6時30分――そのころには太陽もだいぶ西に沈んで辺り一面薄暗くなってきていた。  学校から最寄りの駅まで道道(どうどう)を北に数百メートル。その間にすれ違った人影は皆無で。点在する商店もそのほとんどがシャッターを閉じていた。唯一開いている店と言えば駅前の午後9時までやっているコンビニくらい。  駅の有人窓口だってもうカーテンで覆われていて、この時間帯は完全に無人駅だ。そんな無防備でキセルし放題の改札を抜けて跨線橋を渡って反対側のホームへ。  階段を降りていると、ちょっと奥の方に誰かいるのがわかった。この段階では誰かわからなかったけれど、だんだんと降りていくうちにその姿が鮮明になっていく。飾り気のないブラウスと膝丈まであるスカート。それは間違いなくうちの制服だ。大きな瞳の優し気な顔立ち。二つくくりに束ねた髪が肩甲骨から少し下のあたりまで垂れていて――ここまできてようやく確信した。  下校中の第一村人は美星だった。  ぼくは気づいていないていで違う乗車位置に立って列車を待つ。朝のこともあって意識するとちょっと話しかけづらい。そう思ってたんだけど、やっぱり気になって何度かチラ見をしてしまう。そうしてたらとうとう目が合ってしまった。 「水井くん!」  美星は朝とは少し違った笑みでこちらに歩み寄る。 「っあぁ、春川。今日は遅いんだな?」  頬がボッと熱くなる。これが日中ならおそらくぼくの赤面顔がバレていただろう。でも今は薄暗がり。美星も普通に会話を進める。あぁ、彼女の言った通り確かに今日はツイてるな。 「うん……自主練してたら遅くなっちゃって」 「吹奏……だったよね」 「そう。水井くんは?」 「俺も自主練しててさ」 「水井くん、ときどき1人で弓引いてるね?」 「あぁ、俺……あんまり上手くないんだ。雑念が多いいっていうのかな。全然集中できてなくて。だから団体のレギュラーにもなれなくってさ」 「おんなじだ。私もそんなに上手な方じゃないからさぁあ、今度の演奏会、メンバー落ちしちゃったんだ」 「……そっか」 「……うん」  それは同情か、それとも単なる愚痴か。どちらともとってうかがえるが……。  しばらくの沈黙。それをやぶったのはぼくでも美星でもなかった。 「マモナク、下リ方面行ノ列車ガマイリマス」  唐突な列車接近アナウンス。それとときを同じくして列車のヘッドライトがどんどんと近づいてきてぼくたちを照らす。パンタグラフと架線の接触面がときおりパチパチと音を立てては火花を散らしていた。 「そういえば私たち、二人だけで話したことってあんまりなかったよね?」  列車が完全に止まる直前、美星がそう言った。 「え? そうかなぁ……」  ぼくは言葉を濁しながら開いたドアの奥へ入る。  乗降口のあるデッキと客室が区切られた雪国仕様の車内。仕切りの役割を果たす引き戸は劣化が進んでいて少し開きにくかった。腕先に思いっきり力を入れると、ガラガラと重そうな音(実際に重かったけど)を立ててスライドする。  ここで不意に美星がいるのか心配になってぼくは振り返った。 「どうしたの、水井くん。私の顔になにかついてる?」 「あ、いや……なんでもない」 「本当?」 「本当だよ」  不思議そうな表情を浮かべる美星。その姿にぼくはちょっとした安心感を覚える。  ――ピー!――  発車合図の笛が聞こえた。その数瞬後、列車は出発する。加速に合わせて身体が後ろへと引っ張られる感覚がした。ぼくらは転ばないようバランスを取りながら歩き、近くのボックス席に二人向かい合うようにして座った。  窓から漏れる灯りが平野の向こうにまで流れていく。そんな車窓を見ながらぼくはやっぱり一言も発しなかった。強いて朝と違うことを挙げるとすれば、会話を続ける努力を怠ったわけじゃなくて。ただ、車内に漂う夜の匂いや、空気を震わせる美星の気配を五感で感じていたかったからそうしていたのだ。 「まもなく幌川、幌川です」  もうすぐ下車駅だ。本当のことを言えば今この空間にもう少し浸っていたい。それでも降りないことにはどうしようもないから、ぼくは横の座席に置いたナップサックに手を伸ばす。 「もう着いちゃう。なーんかあっという間だよね」  そんなことを言いながらも美星は笑っていた。なんだか寂しそうな雰囲気ではあったけれど。 「……あぁ」  彼女と目を合わせず頷くだけのぼく。  そしたら続けざまに意外な提案をしてきた。 「ねぇ、水井くん……もしよかったら、このあとぉ……ホタル見に行かない? すっごくいい場所、私知ってるんだ」  ぼくは息を呑んだ。  同時にすごく怖くなった。一体彼女がなにを考えているかまるでわからなかったから。  自慢ではないがこれまで特にこれといって恐怖心を抱いたことがない。遊園地とかのお化け屋敷に行ったって、こんなものなんだなって思う程度だったし。でも今身をもって知った。得体の知れないものは本当に怖い。このまま二人っきりの状況を延長できるかもしれないけれど、恐怖心が若干先行して――。 「大丈夫? 遠くない? あんまり遅くなったら親に心配されるんじゃ……」  至極真っ当な言いわけを述べてぼくは逃げようとした。でも曖昧な言い回しをするあたり詰めが甘い。もしかしたら、そこを突いてまだ誘ってくることを期待していただけなのかもしれないけれど。 「大丈夫、大丈夫! 駅からも家からもそんなに遠くないし、私も水井くんもよく知ってる場所だから」  案の定、美星にこう続けられて、また行きたい気持ちがぶり返す。 「うーん」  なんにしても中途半端なぼくだ。行くなら”行く”、行かないなら”行かない”と言えばいいものを、そこを変に唸って誤魔化そうとする。でもやっぱり心の中で”行きたい”のと”行きたくない ”の両方の気持ちがせめぎあって、一進一退の攻防を繰り広げるから答えが出せないのだ。  雑念が多いって、結局こういうことなんだよな。14歳のぼくには14歳なりの悩みがある。煩悩って言えばいいだろうか。そんなのに苛まれて簡単に夢とか約束とか言ってたころの純粋さが忘却の彼方へと消えていきそうだ。 「ダメ……かなぁ……?」  美星の表情が少し陰った。  あぁ、反則だ。そんな風に言われてしまったらぼくには断りようがないじゃないか。 「まぁ、そんなに遅くならないならいいんじゃないかな」  びっくりするほど意思が弱い。  自分でもよくわかってる。でもこれは生まれながらに持ってしまった一種の病気みたいなもので。治そうと思って治るもんじゃない。きっと割り切ってつきあっていくしかないんだ――この病とは。 「じゃあ、決まりね!」  それでももう一度美星が笑ったから。だからぼくはちょっとだけ気持ちが楽になった。  列車を降りて、駅を出て。それから少し山に入る農道を10分ほど歩く。  確かに知っている道だ。  美星の背中を追いかけながらそんなことを思った。だってそれは小学校のときに毎日歩いた通学路だったから。  しばらくして見晴らしのいい沢のところ出た。そこで彼女の足が止まる。 「着いたよ~」  ぼくはその言葉を聞いて顔を上げる。そして次の瞬間、目の前の景色に絶句した。 「……凄い」  月並みの感想だけれど、ぼくの語彙力ではそう表現するのが手一杯だった。  辺り一面を縦横無尽に飛び交うホタルたち。そして空を仰げば、さっきまで群青が残っていた空がもう漆黒の宇宙(そら)に。その中で無数の星が輝いていて、もうどれがホタルでどれが星だかわからない。そう錯覚してしまうほど美しいものであった。 「とっても……とっても綺麗だよ」 「そう言ってもらえると嬉しいよ。こっちも誘ってよかったなぁって。ねぇ、まるで夢みたいじゃない?」  視界向こうに広がる幻想的な世界の中心でそう訊いてくる美星。その姿にぼくは心を打たれた。  本当は現実とかが他の場所で動いているということを、ぼくは本能では知っていたんだろうけど。それでもこのときばかりは、美星と二人きりのこの空間、この景色だけがこの世界のすべてのように思えた。 「あそこにさ、赤色の光が点滅してるでしょ?」  美星は飛び交うホタルの向こうを指さしながらそう言う。その指の先っぽから直線上に進んだところで規則正しく点滅する赤。それはホタルでも星でもなく。明らかに人工によるものだ。そして、その光の下にある構造物特有のシルエットが浮かび上がっていた。 「あれだよね」  彼女の横に歩み出て、同じ場所を指さす。  あの構造物がなんなのかぼくは知っている。そう、あれはいつかの放課後に交わした約束の象徴だ。 「……覚えてる? あの約束――」  確認する声は震えていてどこか不安げだ。 「新幹線で東京!」  語尾を少し強めて言う。それはなにより「自分は忘れていないよ」という気持ちの現われであった。  そんなぼくの言葉を聞いた美星は予想してた答えと少し違ったのか「へっ? あ……うん」とやや呆気に取られた様子でぼくの方を見る。でもすぐに口角が上がった。たぶん、言葉の意図を酌んでくれたんだろう。 「工事だいぶん進んだね」  寂寥を含んだ言葉――それから深いため息。  ぼくは彼女のため息というものを初めて聞いた気がする。当然と言えば当然かもしれない。これまで悩んでいるような様子を一切合切見たことがないから。 「……ね」  淡泊な相槌だ。他にもっと言い様があったろうに。  内心ではそう思ったものの、美星からすればそれだけで十分だったらしい。目尻に涙を浮かべながらさらに続ける。 「なんかさ、こう……ね、あれって私たちみたい。スタートの瞬間は同じはずなのに、どんどんそこから遠ざかっていって――本当は成長を素直に喜ぶべきなのに、もう戻れないことに対する哀愁の方ばかり色濃く残る気がするんだ。水井くん……私はどうすればいいのかな?」 「春川……」  正直、ぼくだけが迷ってると思っていた。でもそれはとんだ思い違いで。ぼくなんかより美星の方がよっぽど思春期の成長について悩んでいるんだ。いつか交わした約束の象徴。そんな綺麗な想い出に自身を投影して――。  ぼくが思うに、あのときと今とのギャップはあまりにも大きすぎたんだろうな。この場所で建設を進めていた高架橋はたった3年でほぼ完成し、両脇の山にトンネルを掘るところにまで至っている。  加えてぼくたちの成長期もピークを迎え、小学校5年生のころの面影が薄れ始め。身体的な特徴で言えば身長とか、声の高さとかがそうだ。内面的なことはそれ以上に複雑で、新しい世界観をはらんできているし。  片時も離れることがなければ自然と抗体ができるものだろうけど。でも接しない期間が長ければ長いほど、その変容を顕著に感じやすくなるし、  ぼく自身、身体的、心理的に進んでいく変化に対応が追いつけなくて、いっぱいいっぱいになっているのが実情だ。だとすれば、ぼくより感受性の強い美星がダメージコントロールをできないでいるのも当然かもしれない。  ひょっとしたら今日ここに誘った理由も、ただホタルを見ることじゃなくて、ぼくの意思確認とちょっとした人生相談が本音だったんじゃないかって今さらながらに察する。  されど今のぼくには現状を……彼女をどうにかできるだけの力がない。どうすることもできず、ただその場に立ち尽くすだけ。 「あ、何か私、ヘンだよね? こんなさ、詩人かぶれのこと言っちゃって」 「いや……ヘンって言われても……」 「……」  まるで流れ星のようだった。  美星の目尻から溢れた涙がツーっと一筋の線を描いて頬を伝う。その先端の雫が一瞬ホタルの光に反射して白っぽく光った。そして瞬く間に闇の中へと落ちていく。 「絶対行こうな、春川!」  頭で考えるよりも先に口が先に動いた。  同情して「そうだね」と言うとか、「そんなことないんじゃないかな」ってやんわりと不安を否定するとか。もっと気の利いた答えが他にもあったなって言い終わってから思った。でも唾とともに出ていった言葉はもう戻ってこない。  ぼくは慌てて「あ、いや、その……」とつけ加えようとしたけれど美星は、「そうだね、そうだよね……水井くん。ありがとう」とほほ笑む。完全な泣き笑いだけれど。それでも今日の中で――いや、通算でも上位に入るくらいの満足気な表情。  もしかしたら、これが一番求めていた答えなのかな。  そんなことを考えながら遠くの景観に目をやる。 「おいおい、オレを忘れてもらったら困るな」  不意に藪の奥から声がしてぼくはドキリとした。その声は他でもなく想大の声だ。 「想大、どうして?」 「お前らが中々帰ってこないから、探してきてくれって頼まれたんだ。やっぱりここにいたんだな」  説教交じりの口調で経緯を説明され、ぼくは腕時計を見た。時計の針はもう8時を指そうとしていた。こんな時間に中学生が出歩くのはさすがに遅すぎる。 「あ……ゴメンね、高瀬くん。わざわざ――」 「気にするな。オレは頼まれただけだから」  ハンカチで涙を拭いながら謝る美星。それに対して想大は視線をそらしながら答える。  気づかぬふりをしていることが丸わかりだ。それと照れていることも。想大は昔からツンデレだから、照れるとこきが一番素っ気ない態度になる。 「それから、水井くんもね」 「……ぼくは……そんな――」  ちなみにぼくはというと、こんな感じにあがってしまって濁した言い方しかできなくなってしまう。 「じゃあ、行こっか‼」  そう言って美星はぼくの右手首と想大の左手首をつかみ歩き始める。  あったかい――彼女の手のひらのぬくもりが手首を介して伝わってくる。ぼくの全神経がそこに集中しているような気がして、脈拍がぐっと跳ね上がった。ただでさえ早くなってるところだったのに、これ以上早くなったら血管が破裂するぞっていうくらい鼓動が高鳴っている。  想大は同じ状況下にも関わらず、いたって平気そうだ。「この男どんな神経してやがるんだ」って思いもしたけど。よくよく考えてみれば彼はモテる。デートの数だって1度や2度どころじゃないはずだ。それじゃあ、幼馴染の手のひらなんかでときめくわけもないのか……。  ホタルのやわらかな光に背中を押されながらその場を後にする。  家までの帰り道を満点の星空の下。聞こえるのは虫の鳴き声と運動靴が地面を叩く音だけ。 「約束は約束だ。オレも純も忘れてない」  想大が思い出したように言う。 「それを2人から聞けて安心したよ~。もう、私しか覚えていないんじゃないかって思ってたから……」  そう言いながらも美星は振り返らなかった。ただ、ぼくと想大の手首を持ったまま、半歩前を進む。 「それはこっちのセリフだよ。てか、ちゃっかりやり取りを聞いてたんだな、想大」 「そりゃあそうでしょ。あんなデカい声で話してたら聞こえるだろ普通」  あぁ、これだ。忘れかけていた自然のやり取り。  ふと蘇った昔の感覚に抱く謎の安心感。願わくはこれが永遠に続いてほしい。そんなことを祈ってやまない3人だけの帰り道。  ほんの少しの時間だけれど、いろんなことを話した。  でもぼくは一番伝えたかった5文字をとうとう切り出すことはなかった。  
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