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絵島様の牢屋敷
ここは信州の山奥。
春の来るのは遅いが梅が咲きだすと桜も追いかけるように咲く桃源郷のような場所。
そんな山間の日当たりの良い場所に「絵島屋敷」と呼ばれる建物がある。山奥にしては実に立派な白壁と黒瓦の塀に囲まれている。中からは時折、雅な琴の音などが聞こえることもある。
それだけならば殿様の別宅か何かと思うかもしれないが、物々しい門番がいて人の出入りは厳重に監視されている。入るときも持ち物をしっかり改められるが、出るときには特に念入りに調べられるようだ。
入り口の反対側は南東に向いた崖といってもいいような切り立った場所。眺めはいいだろうが、そちらから人間が出入りすることはできない。
そこから屋敷に入れるのは鳥か、せいぜいサルくらいなものだろう。
そんな屋敷の部屋の中からパチリ、パチリという音が静かな中に響く。
「あっ、絵島様っっ、お待ちくださいっっ。」
「待ったは無しといったはず。」
「いや、そこをなんとか・・・。」
「待ったらなんとかなりましょうや?」
面白そうに聞き返す声がする。
「いや・・その・・・はぁ・・・・。まいりましたっっ。」
「ほほほ。内藤様、もうちょっと歩の動かし方を考えたほうがよろしゅうございますよ。飛車や角ばかりを大事にしすぎておられます。歩をあなどってはなりませぬぞ。」
「はあ、いや、その通りでございます。前も同じことを言われましたのに悪い癖というのは直らぬものでございますなあ。」
「なくて七癖、といいますし。私のために将棋を覚えてこられておるのでしょう。ご配慮、いたみいります。」
「いや、そのような。どうか頭をお上げください。」
「私のような罪人に、いつも気を配っていただいて感謝の言葉もございませぬ。」
「いやいや、絵島様。あなた様のご気性、この内藤がよく存じております。あのような仕打ちをした大奥なれば愚痴の一言も言いたくなるのが人情というもの。それを決まりを守って一言も口にすることもなく、ただただ静かに日々をお暮しになっている。なかなかできることではござらぬ。このような何もない山里、少しでも絵島様のお相手になれないかと。」
「内藤様こそ、そのような優しいお気遣いを。もったいのうございます。それに私はただの罪人なれば、『絵島』と呼んでくださいと申しておりますのに。」
「仮にも江戸城の大奥にいらした方のお名前を呼び捨てなど・・・。田舎侍には本来なればお目通りなどできる方ではありませぬし、このように盤を挟んでお相手などということができようとは、夢にも思いませなんだ。せめてお名前くらい『絵島様』とお呼びするのをお許しいただけませぬか。それ以上はもったいなくて、この口が曲がってしまいますゆえ。」
「内藤様、そこまでおっしゃるのでしたらお好きになさいませ。」
カタンと何かが当たったような音が庭から聞こえてきた。庭といっても猫の額ほど。垣根の外は切り立った崖になっている。
「何者!」
さっとわきに置いた刀をもって立ち上がる身のこなしは、さすがにこの藩の中で一二を争うといわれるほどの武芸の腕前だけのことはある。絵島はあえてのんびりと声をかけた。
「内藤様、あのむこうは崖。そんなところから来るのは鳥かサルくらいなもの。ひとではありますまいよ。」
「む、それもそうでござるが。」
「さあ、そろそろお城にお戻りなされませ。今日はたのしゅうございました。咎人の身故、お見送りは致しませぬが、またお越しくださいませ。」
にっこりと笑って内藤が屋敷から出るまで、そのままじっと座っていたが再び庭の方からカタリと物音がして、小さな声で何かがつぶやくような音が聞こえた。
「佐吉か?」
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