<終・藍蘭、希ウ>

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 *** 「香鈴!来てくれたのか、嬉しいぞ!」  香鈴が訪れると、寝具の上で半身を起こしていた藍蘭はぱあっと顔を輝かせた。彼女が床に伏せるようになってから、半年以上が過ぎている。それでも今日は、身体を起こして筆を持つことができるくらいに調子が良いようだった。心なしか、頬も赤みがさしてきている。 「藍蘭様。今日は起きて平気なんですか?」 「“藍蘭”な。様付はやめろと何度言ったらわかるんだ、今は実質私より君の方が身分が上なんだぞ。いい加減慣れろ、不器用な奴め。ていうか、いつになったら敬語は抜けるんだ」 「すみません、どうしても癖なものでして、つい」  むくれる藍蘭に、香鈴は苦笑するしかない。香鈴が丁寧語で喋るのは、実のところ何度も転生を繰り返した影響だった。早い話、“一人称私”で“丁寧な言葉遣い”をしておくと、男女どちらでも通用するのである。いかんせん男性と女性をいったりきたりしすぎて、性自認が曖昧になりつつある香鈴だ。うっかり、女性の時に男言葉、男性の時に女言葉が出るような事態は避けたいのである。  丁寧語にしておくのは、単純に楽だからであって――正直今更、直せと言われるのは難しい。もちろんそんな事情は、前世の記憶がない藍蘭に言っても理解されづらいことではるのだろうが。 「ほら、私の分の章は書き終わってしまったぞ。君が来てくれないと、この物語は続かない。交代で書くことにしようと言い出したのは君だからな、約束は守ってくれよ」 「はいはい。そうでしたね」  今、自分達は交互に小説を書くということをしている。趣味のようなもので、実際に書籍になるようなものではないが――異世界転生を繰り返す幸せな恋人達の物語を二人で広げていく作業はとても楽しく、仕事に忙殺されがちな香鈴にとって数少ない楽しみとなっていた。同時に、床に臥せっている藍蘭にとってもそれは同じなのだろう。 「あ」  その時、藍蘭が何かに気づいたように己の腹を見下ろした。 「今こいつ、思い切り蹴ったぞ。……どうやらこの子も、香鈴の書く物語の続きが知りたいらしいな」 「左様でございますか。なら、頑張らないといけませんね」  藍蘭の腹は、すっかり大きくなっている。そこにいるのは紅帝の子だった。つまり、この国の次期紅帝になるであろう人物である。忌々しい男の子ではあるが、子に罪などあるまい。何より、大切な藍蘭の子だ。香鈴にとって、愛しい気持ちが沸くのは当然のことだった。  しかし。 「……藍蘭」  気がかりなことは、一つ。 「本当に、よろしいのですね?」  藍蘭は――紅帝が死んだあの日、高熱を出して倒れた。長らくの無理が祟ったせいだろうと思われたが、残念ながらそれだけでは済まなかったのである。長年の無理な行為と繰り返した妊娠と出産が、彼女の身体を大幅に削ってしまっていたのだ。心の臓が大幅に弱り、だるさが続くゆえにこうして床に伏せるようになってしまったのである。  お匙にも、秘術士の者たちにも言われていること。恐らく今の藍蘭の身体では――出産に耐えることはできないだろう、と。 「いいんだよ、香鈴。……もう、覚悟はできている。産まれて初めて、私は望んで子を産みたいと思っているんだ」  藍蘭は。  膨らんだ腹を撫でながら、微笑むのである。 「この子にはたくさん見てもらいたい。君が作る、新しい紅の国を、平和な世界を。その未来を想像することができるだけで、私は幸せなんだ。……何も、悔いることはない。私の人生は、君と出会うことができて、何よりも満たされているのだからな」  彼女は、心の底から幸せそうに思えた。だから香鈴は――何も言えなくなるのである。そう、少し気を緩めれば、口をついて言ってしまいそうな心を必死に押しとどめていたのだ。  どうか、子よりも貴女の命を優先してほしい、など。  どうか、またしても私の目の前で、その若い命を散らせないでほしい――などと。
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