剃刀

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剃刀

 「どこにいらしたのかしら」  お手洗い、台所、裏庭と圭が足を踏み入れてもおかしくない場所を確認し終えると、彬子は表情を変えた。三時にいつも通りお茶を飲み、半には圭が二階に上がるのを確認したと言う。許可を得ずにうろつける場所は限られている。挨拶もなしに出ていくとは考えられないし、玄関を見ると靴もある。  隼人にしてみれば、やはり。としか思えない。心穏やかではないが、冷静さを失ってはいけない。圭を救う為に。  狼狽える彬子を宥めて、書庫に入れてもらう。  初めて入った。様々な本が犇めき合っている。圭もさぞかし、楽しかったことだろう。  本は几帳面に書棚に仕舞われているが、一冊だけ、床の上に開かれていた。決して落っことして開いたのではない。わざわざ書棚と床の隙間に半寸ほど差し込まれており、反対側の頁の上には、圭の物らしい手巾が置かれている。少しの間場を離れる際、読んでいた場所がわからなくならぬようにとの配慮にも見えるが、それにしては少々手が込みすぎている。  屈み込んで内容を見る。英國語で書かれている。亜米利加の本らしい。頁の見出しである大きな文字が目についた。「screen」と書かれている。 「義礼氏に会わせてもらえませんか? お願いがあるのです」  彬子は、何も言わずに頷いた。圭のためと気付いたのだろう。なにかが起きている。と。  「長瀬さんがお話があるそうです」  彬子は、障子越しに震える声で言う。即座に、どうぞ。と、義礼の声が聞こえた。今まで臥せっていたとは思えない、明るい声だった。 「申し訳ありませんが、頼みがあるのです」  部屋の中には、映子もいた。いつにも増して機嫌が良いように見える。何がそんなに目出度いのだと、嫌味の一つでも言いたくなるくらい、派手派手しい装いで。  敢えて映子は無視し、義礼にだけ向けて、圭がいなくなったことを、手短に説明した。 「そういうわけで、映子さんの部屋を見せて欲しいのです」  高林夫妻が驚いたのも、無理はあるまい。なぜ、いなくなった圭が、嫌っているはずの映子の部屋にいるのか。 「説明は後でします。まずは彼を見つけなければ。お願いです、映子さんの部屋を探させて下さい」  若い娘の部屋に入りたいなど非常識。とばかりに、彬子の目つきはきつい。  厭よ! 映子は、けたたましく叫んだ。当然だろう。後ろめたいことがあろうとなかろうと、年頃の娘が、男に部屋を見せたがるわけがない。映子の拒絶は、当然であった。  にも関わらず、義礼は、すんなりと許可をした。すっくと立ち上がって。 「長瀬さんがどのような理由から、映子の部屋を探したがるのかはわかりませんが、麻上さんがいないと証明しなければ、納得はしないでしょうね」  隼人は頷いた。 「わかりました。こちらへどうぞ」 「待って、伯父様、私は絶対に厭よ!」 「部屋を荒らそうとは言っていません。ただ、俺が貴女を疑っている以上、決して疚しいところがないと、証明してほしいだけです」  映子の言葉を無視して、義礼は先先歩く。今まで臥せっていたとは思えぬ軽い足取り。  顔色の悪さや窶れはあるが、初対面時の義礼に戻ったようである。  調べた結果に拠ると、義礼という人は、気丈そうな外見とは裏腹に、悩みに強く囚われる傾向にある。代わりに、元凶を失えば、直ぐに立ち直れる人らしい。今のこの変わり身も、それ故なのか。  小型犬のやかましさで、映子は抗議するが、義礼は一向に相手にしない。  途中、咲江の部屋に寄って、脅迫に近い剣幕で映子の部屋の鍵を手に入れた。 「この部屋だ」  義礼は立ち止まると、隼人に鍵を差し出した。 「駄目よ! 開けちゃ駄目!」  隼人の腕にしがみつき、邪魔する映子の腕を、義礼は掴む。一見、隼人の味方をしているようで実は、映子の無実を証明するためだけに必死になっているのを、理解していた。中に圭がいないのを隼人自身に確認させ、映子を疑うとは何事だ。と責めるのを、心待ちにしているのだろう。義礼の目は隼人から離れず、嘲笑しているようにすら見える。 「駄目よ! 駄目! 伯父様!」  鍵を差し込み、回す。  叫び続けていた映子が突然、静かになった。 「まさか、伯父様」  部屋の中は薄暗かった。淡い青色のカァテンがひかれている。  女性らしく、三面鏡が置かれている。化粧品や香水の壜が並ぶ。その向こうには大型の洋箪笥と和箪笥。部屋の真ん中には、書物用らしい西洋風の白い机と椅子が置かれ、奥には、白い清潔そうな蒲団を載せた、寝台が見えた。人を隠すなら、ここが一番適当だろう。  隼人は寝台に近寄ると、掛け布団に手を掛けた。映子の鋭い悲鳴が上がる。  隼人は剥がした掛け蒲団を、寝台の下に放り出した。乱暴な行為に、非難の視線が集まる。 「圭君、俺だから、安心して」  見覚えのある服装の子供が横たわっている。それもただ、横たわっているだけではない。目隠しに猿轡、ご丁寧にも、後ろ手に縛り上げられている。  寝台に腰掛け、口、目を開放し、手を拘束している手拭いを外そうとした時、圭が悲鳴を上げた。どうしたのかと確認すると、左手首に巻かれた包帯に、鮮やかな赤い線が浮かび上がっている。  少しの我慢だから。と言い含め、なるべく痛い思いをさせまいと、気をつけながら手拭いを外す。  寝台の周りでは、皆が息を詰めている。横目で映子を見ると、親の仇を見るように、隼人を睨みつけている。一方義礼は、今にも倒れそうな顔色だった。  手を解放すると、足を縛る紐も取り払う。  自由の身となった圭は、寝台から下りると、覚束ない足取りで三面鏡に向かった。凭れ掛かるようにして体を支えると、引き出しを次々開き、一番小さな引き出しを引き抜くと、床に投げた。勢いづいて少しばかり滑ったが、中身は溢れず、鈍い銀色の姿を見せた。 「凶器の始末くらいなさってはいかがですか?」  引き出しの中身を見て、彬子と咲江は息を呑んだ。  鈍い銀色の正体は、錆びかけた剃刀で、乾いても尚、生々しい血液の痕を見せていた。 「どうして、麻上さんがここにいるとわかったのですか?」  最も落ち着いている彬子が、解せぬとばかりに口を開いた。 「書庫の床に置いてあった本です。あれは彼が、俺に居場所を教えるために置いてあったのです。見出しが、スクリーンでした。スクリーンとは活動写真を映す白い幕。映す。は、映子の映です」 「映子さんに、この部屋に来るように言われました。誰にも内緒で。そうすれば敏さんとの約束を教えてくれると。  内緒と言われたので、なにか裏があると思い、万が一の為にあの本を用意しておきました」 「一人でここに来て、何をされた?」 「背後から首を絞められました」 「映子さんに?」 「いいえ」  緊張が高まりつつある。四人は目を見開き、唇を噛み締めて、隼人と圭を見つめる。一人が冷静を失えば、阿鼻叫喚図が描かれそうな状態である。 「私の首を絞めたのは、男でした。絞められている時に、引っ張り上げられているような感じでしたから、私よりも丈が高いはずです。  第一、映子さんだけなら、目隠しは必要がありません」 「そう、ある男が、私的な事情で映子さんを唆し、圭君を誘き寄せさせ、束縛したのです。  犯人は誰ですか? 映子さん」  映子はそっぽを向いた。 「彼女が庇う男は恐らく二人。自分を可愛がってくれる父親か、伯父。  しかし、父親は朝、仕事に行ったっきり戻って来てはいない。そうなると、自ずと一人になりますね」 「でも、良人(おっと)は映子さんの部屋を、率先して貴方に見せようとしましたわ。それはどう説明なさるおつもり?」 「俺が、映子さんの部屋を見せろと言った時、彬子夫人はどう思いましたか? 随分と不快そうでしたが」 「不快になるのは当然ではありませんか? 年若い娘の部屋を、理由も言わずに、唐突に見せろだなんて」 「そう思われるのは当然です。ではなぜ、義礼氏は怒るどころか、進んで見せようとしたのでしょうか? 娘のように可愛がっている姪を、庇うのが普通でしょう? しかし、そうはしなかった。なぜか。  俺の疑いを否定するためです。この部屋に圭君がいなければ、俺は捜索を断念せざるを得なくなる。  彼にとって圭君はもちろん、俺も邪魔になっていた。どうにかして追い出したくて仕方なかったはずだ。だからこそ、俺の疑いは、願っても無いものだったでしょう」 「つまり、良人はここに、麻上さんがいないと確信していたのでしょう?」 「はい。  申し訳ありませんが、ついさっき、貴方の命を受けた警察官が、この屋敷に忍び込もうとしていたので俺が、同伴していた友人と一緒に捕まえて、警察に突き出しました。山科の所から持ち出した帳面と一緒に」  映子は跳ねるように振り向くと、義礼の胸元に掴み掛かった。今まで固く結ばれていた唇は勢い良く開き、長い髪を振り乱し、飾っていた簪を歪ませて。 「ひどいわ、伯父様、あれを盗もうとしたのね! はじめから横取りするつもりだったのね!」 「映子さんは彼を、自分の物にするつもりだったの?」 「そうよ。伯父様はあの子が目障りだから、目に付かない所に隠しておくなら、捕まえてあげると言ったの。それなのに、狡いわ!」  待って! 彬子が叫んだ。わかるように説明して。と。  彬子は、義礼の弁解を聞きたかったのだろうが、既に、逃げ道を失い、逃げる気力さえ失ってしまったらしく、虚ろな目をした義礼に、言葉を発する力はない。 「映子さんは私の手首を傷付けて、血を吸いました」 「貴方、目隠しをされていたのでしょう? 見えないのに、その相手が確かに映子さんだったと言えるの?」 「目が見えないぶん、耳に集中しておりました。あの時、映子さん以外、誰もおりませんでした。  それから、匂い。  首を絞められている時には、知らぬ体臭を感じていましたが、手首を切られている時は、映子さんの香水の匂いしかしませんでした」 「でも、でも」  四人の中では落ちついて見えたが実は、彬子こそが一番、冷静さを欠いているのかもしれなかった。  好きではない相手でも、家族という絆が庇わせるのか、理解し難い姪の凶行を信じたくないのか、尚も食い下がる。 「理由なくそんなことをするなんて、おかしいでしょう? なんのためにそんな真似をしたのか、貴方は説明できますか?」 「古来人間の身体は、万能薬としての価値を持っていました。古代羅馬(ローマ)では、気持が不安定になっても、血を飲めば治ると信じられていましたし、中世の欧州では、木乃伊(ミイラ)が薬として出回っていたそうです。  近代の日本でも、不治の病を抱えた家族の為に、誘拐した子供を殺して、肉を食わせる事件も起きています。  薬だけではなく、不老不死の力を持つと思われていたことも。  現実に、若さと美貌を保つために、若い娘を殺しては血を浴びていた、西洋の貴婦人の話も伝わっています。  映子さんが欲したのは、彼の若さと美しさでしょう。  敏さんが亡くなった時、映子さんが頻りに、彼に、姉妹はいないのかと聞いていたでしょう?  彼女は途方に暮れているようでした。あの時は、死体を目の当たりにして、平常心を失っているのかと思ったのですが、彼女は真剣に悩んでいたのです。敏さんが亡くなったので、血液の提供者がいなくなってしまった。自分の若さが、日に日に失われる恐怖と闘っていたに違いありません。我慢できなくなって、男である圭君で妥協したのでしょう。  問題は、血を求めるようになった切っ掛けです。彼女はいつ、血が若さを保つ薬になると思いついたのでしょうか? 本能で、敏さんの血を啜り始めたとは思えません。なにか、偶然の切っ掛けがあったはずです。  咲江夫人、ご存知ありませんか?」  咲江は、隼人の言葉に、床に崩れ落ちると、大声で泣き出した。 「まさか、一月前に殺されたあの子は、映子さんが」 「当然の報いだわ。あんな高慢な女、殺されて当然なのよ」  彬子に対し、映子は答えを吐き捨てた。 「血を体に塗ると、とても綺麗になれると聞いたことを、あの女の死体を見ていて思い出したの。それでね、考えたの。塗るよりも、飲む方が綺麗になれるんじゃないかしらって。  もっと早く気が付けば、あの女を生かしておいたのだけど。  それに、お母様に取り上げられてしまったし。まだ少し血が残っていたのに、もったいなかったわ」 「死んでしまった人間の血は、すぐに駄目になってしまう。だから、生きた人間が必要になった。そこで、高林家に来て間もない敏さんと取引をして、血を飲ませることを承知させた。そうだね?」 「そうよ。家族を飢えさせないこと、二歳違いの弟を大学に行かせること。  約束は守っていたわ。家族への仕送りのお金は渡していたもの」  映子は、隼人から三尺ほど離れた場所にある椅子に腰掛けると、さて。と、低い声を出した。 「私のことばかりじゃ不公平だとは思わない?  伯父様がどうして、私を騙したのかを知りたいわ。貴方、知っているのでしょう?」  隼人は映子から、視線を義礼に移した。 「事の起こりは二十二年前ですね」  義礼は、力なく頷いた。憔悴しきった顔から、安堵が見て取れた。
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