旧友

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旧友

 九月半ば過ぎても、まだ夜は蒸し暑い。開け放った窓から流れ込む風は、生温かいばかりで涼を取るのに役に立たないばかりか、虫を招き入れる為、隼人はやむを得ず、閉めることにした。  いつの間にやら、陽が落ちるのが早くなった。闇によって窓硝子が、鏡のように映す。  混血を表す紅い髪、彫りの深い、はっきりとした二重と、鼈甲色の瞳。肌の色は日本人と変わらぬが、全体的には西洋寄りの姿である。背丈は六尺ニ寸と高い。  名を、長瀬隼人(ながせはやと)と言い、数え二十九歳である。  玄関扉には、『長瀬萬請負(ながせよろずうけおい)』とある。  六畳の狭い事務所には、本棚と机、客用のソファしかない。  玄関扉が開いた。 「遅いな」  男は入って来るなり開口一番、隼人を責めるように言った。 「どうした?」  男は名を中里勇一郎(なかさとゆういちろう)と言い、新聞記者である。  垂れ気味の目は一見優しいが、鋭い光が宿っている。無造作に跳ねた髪は、忙しくなると伸び放題に伸び、動きやすさを重視して袴姿が多い。  四年前、まだ隼人が弁護士として勤めていた時、担当していた事件を、追っていた勇一郎が絡んで来たのが、出会いだった。  だらしなく見える外見とは違い、仕事に対しては真摯で、話しをしていて面白かった為、直ぐに親しくなった。その結果…… 「鍵忘れて、家に入れないんだ」 「鍵? だったら下宿に帰れば良いだろう」 「下宿は今ちょっと、まずい」 「なにがまずいのだ?」 「暫く戻っていないから、色々とな。時間がある時でないと」 「どれだけ散らかっているのだ? 近所に迷惑はかからないだろうな」 「その辺は、な。  もう帰るんだろう? さっさと帰ろうぜ。腹減っちまってさ」  と、まるで同居人である。  ん? と、勇一郎の視線が、机の上にある新聞に向けられた。  新聞とはいえ、昼食代わりの鯛焼きを包んでいた、半分に破られた物で、興味のある記事があった為、置いていたのだ。 「あぁ、この事件か。妙な事件だから気になるよな」 『八月十六日     明和日々新聞  透き通った白き肌にまるで椿の花弁を思わせるが如き傷口生前はたおやかにして美しき喉元は見るも無残に刃物で抉られ血肉は可也欠損しておった奇なる事に殺された女の体には血液が一滴も残っておらず之は鬼の仕業ではあるまいかと思わせる死体となりて見つかった美しき花を乱暴に手折ったのは悪鬼かそれとも妖怪かはたまた残忍な男なのか』 「講談だな、まるで。もっとまとな新聞読んだほうがいいぜ」 「事務所の引越しやらで忙しくて、その辺りの新聞は読んでいないんだ」 「成程な。  血を抜き取るなんざ、西洋の吸血鬼って妖怪みたいだな。  まともな記事を読ませてやるよ。  さ、帰ろうぜ」  調べ物を一通り終えて、隼人は茶を飲みながら、新聞を読んでいた。  金持ちの起こした事故、華族の醜聞、代議士の禁じられた恋愛。  そんなどうでもいい記事の隅に、『少年男爵 爵位返上』と、ほんの四行。  父である先代が二月に船の事故で亡くなり、爵位を継いだばかりの十五歳の少年。華族とはいえ先代は勤め人であり、妻と息子、使用人一人の慎ましやかな生活だったようだ。  少年の不幸は続く。  八月中旬、学校から戻ると母親が殺されていた。刃物で心臓を一突き。強い殺意が疑われている。  世間の評判では、穏やかで控えめな夫人で、人に恨まれるとは思えない。と言うのが、一致する意見である。  が、夫人は社交界の華であり、美貌の持ち主であったため、振られた男が逆恨みをしたのではというのも、よく聞かれた意見であった。  狙われる程の財産も無く、恨まれる理由も見当たらない善人。真の動機は? 「金も力も無く、こんな小さな記事しか載せてもらえない特権階級」  学生時代、多くの華族と共に学んだが、これといって魅力的な人間はいなかった。隼人は取り立てて華族を敬ってはいないが、軽蔑してもいない。  金があろうと無かろうと、身分が高かろうと低かろうと人は人。それだけである。 「髪が紅かろうと、黒かろうと、同じ人間」  髪を指で抓んで、うんざりと呟いた時、コンコン。と、扉が鳴った。   硝子扉の向こうで男が笑んでいた。慌てて駆け寄る。 「君、久しぶりだね」 「お久しぶりです」  男は大学時代、親しくしていた二年違いの後輩であった。  相馬有朋(そうまありとも)と言い、隼人が知る限り、最も美しい人物である。印象的に大きな目、赤い唇。二十代半ばでありながら、中性的な容姿は変わっていない。  ふと横を見ると、三揃えを品良く着こなした紳士が立っていた。 「そちらの方は?」 「僕の雇い主の、高林義礼(よしあきら)です」 「高林? 高林商事の?」 「はい」  義礼が会釈したのに合わせて名乗ると、事務所に入るように、手で示した。 「申し訳ありません。こちらへどうぞ」  年は五十手前だと、何かで読んだ記憶がある。一見、年齢より若く見えるが、髪は半分近く白くなっている。背丈は隼人より二寸程低いだろうか。やや角張った顔に細い目。実業家というよりは、武士の風格を持っている。  日本で、彼を知らぬ者はおるまい。小さな商家の長男で、幼い頃から秀才の誉れが高かったそうだ。加えて、先を読む目に優れ、今や、小さかった商家は、財閥に今一歩と言われるまでに大きくなった。 「高林様のご依頼は?」 「いえ、依頼したいのは私ではなく、相馬なのです」  有朋がニコリと笑んだ。 「僕の従兄弟を捜して頂きたいのです」  よりにもよって、難儀な依頼を持ち込んでくれたな。と心の中で呟きつつ、万年筆の蓋を外した。 「従兄弟?」 「はい。母方の従兄弟を」  隼人は学生時代、有朋から聞かされた話を思い出していた。  幼い頃両親と死別し、義礼に引き取られた。が、その頃の記憶は一切無く、義礼との関係も知らぬままである。と。  聞けばいいじゃないか。と、軽く言う隼人に、珍しく有朋は、緊張の面持ちで答えた。聞けない。と。聞いてはいけない。と、何かが止めるのだ。と。  何が? と問うて隼人は、有朋を振り返った。  有朋の瞳は涙で濡れ、潤んでいた。その涙は頬を伝う事は無かったが、初めて見る、有朋の弱気な表情だった。  分からない。多分、知ってはいけないのだと思う。君は、僕を愚かだと思うだろうね。呆れてくれてもいい。軽蔑してくれてもいいよ。  僕にはできない。社長に、何も問えないのだ。  隼人の回想を打ち破ったのは、え? と低く響く声だった。 「従兄弟?」 「えぇ。最近思い出したのです。確か、母には妹がいて、赤ん坊を抱いていました。男か女かは思い出せませんが」 「叔母さんが赤ん坊を抱いていたからって、従兄弟とは限らないだろう?」  義礼の狼狽えた声に、有朋は冷静だった。 「そうですね。では、叔母の居所に変更して下さい」  隼人は、驚きの表情を消さない義礼を上目遣いで盗み見しながら、必要な事柄を有朋に問うた。母の名、叔母の名、別れた年齢や場所。 「申し訳ないのですが、全く思い出せないのです。  叔母の記憶もとても朧げで、薄暗い背景に、着物を着た、顔のはっきりしない女が、赤ん坊らしき影を抱いている絵が浮かんでくるだけで、どうしてそれを叔母だと認識しているのかも、我ながら理解できないくらいなので」  よくもそんな適当な記憶で依頼に来たな。と、心の中で毒づきつつ、義礼に顔を向けた。 「高林様に伺ってもよろしいでしょうか?」  表向きは冷静にしているが、顔色は正直だった。健康そうだった肌の色は今、青く変化している。何に対して困っているのかは知らぬが、目の玉などじっとしていない。 「確か、相馬はまだ、五歳だったと思います。住んでいたのは」  言い淀んで、視線を泳がせた。 「覚えていません」 「覚えていないのですか?」  隼人の責めるような声に、義礼は視線だけを逸して頷いた。 「それでは、相馬君の両親と、高林様の関係は?」  今にも目眩を起こしそうな様子だった。 「彼の父親と、同じ大学でした」 「僕と長瀬さんのようなものですね」  有朋は笑んだ。それは華やかな笑みでありながら、鋭く突き刺す、氷柱のような冷たさを孕んでいるように、隼人には思えた。  父子のような関係であり、主従関係である二人。  しかし今、隼人の目に映るのは、精神的に義礼をいたぶる有朋。  奇妙な関係に見えた。
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