事件

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事件

 翌朝、事務所で隼人は考えていた。  名も分からない、住所も分からない、母親の妹だと言うから、苗字が相馬だとは限らない。  どういう経緯から、両親と有朋は別れ、義礼の元に引き取られたのかを問うたところでとうとう、目眩を起こしてしまったらしく、大きく体が揺れ、ソファから転げ落ちそうになってしまい、質問を諦めざるを得なくなってしまった。  有朋と二人で体を支え、車の後部座席に押し込んだのだが。 「一体何が、高林さんをあれ程苦しめたのか」  友人の子供を引き取った。ままあることである。義礼はその事実を隠してはいないし、有朋も、物心ついた時には、高林家に居候していたと自覚していたらしい。 「相馬の様子もおかしかった」  いや。と、心の中で否定した。おかしくなどない。あれこそが相馬有朋の本性である。  子供の頃は知らぬが、有朋は可愛気に欠ける若者だった。  バンカラから華族まで、日本中から秀才の集う大学の中で、有朋は目立つ存在であった。美しい容貌は勿論、大会社高林商事社長の養子(と学内では噂されていた)であることへの妬み。何より、有朋の自尊心の高さが皆々に知れ渡り、疎んじられたのである。  他者から見れば、有朋は孤独だったろう。親しい友と言えば隼人一人。その隼人とて、学内でも有名な、はみ出し者だったのだから。  有朋とは違う意味で、容貌故に、他者から一歩引かれ、表向きは明るく話しはするものの、心を許せる相手のいない隼人もやはり、孤独な人間と見られていただろう。  他者から相手にされぬ者同士、傷を舐め合う関係に見られていたであろうと、自覚はあった。  しかし二人は、真の友情で結ばれていた。  有朋は隼人の容姿を一切気にせずいたし、隼人も、有朋の自尊心の高さが気に障った事は無かった。  軽薄な流行や女買いに誘われた時、断った挙げ句、余計な一言、いや、三言四言言ったのが他人を遠ざける結果になっただけで、隼人からすれば、男だから。というだけの理由で遊郭に誰彼構わず誘う連中の方が、苦手だった。  と、短い間、思い出に浸っていたその時、乱暴に扉が開かれ、一人の男が飛び込んで来た。 「来て下さい!」  何事かと目をやると、昨日会ったばかりの、義礼の運転手。 「どうしました?」 「相馬さんに、長瀬様を呼んで来るよう頼まれまして」 「相馬に?」  何の用だろうか?   運転手は手の甲で汗を拭うと、こっちへ来いとばかりに手を振る。 「何があったのですか?」  運転手の落ち着きの無さに、不安がよぎる。 「は、はい。社長が大変な事に」  義礼?   隼人は有朋の叔母を捜索するはずだが? と考えはしたものの、運転手はそれ以上説明をしようとせず、と言うよりも、答える余裕は無さそうなので、手帳や万年筆を仕舞っている鞄を手にすると、男の招きに応じた。 「高林さんに、何が起こったのですか?」 「警察に、聞いて頂けますか?」  隼人の質問に答える余裕もないらしく、運転に忙しい。 (警察ってことは、事件? 事故?)  昨日の義礼を思い出せば、もしや。と思わないでも無かったが、運転手は、死の一言は出していない。  整備されていない下町の道を抜け、暫く走ると、突然、塀の並ぶ屋敷町が姿を表した。  初めてだった。二人で出掛ける事はあったが、互いの家を訪ねた事はない。  古いが美しい和舘の奥に、和洋折衷の新しく、大きな屋敷が見えた。 「こちらです。どうぞ」  運転手に付いて屋敷に向かっていると、強面の警察官が、こちらに向かって来るのが見えた。屋敷に入る人間を監視しているのだろうか? 「誰だ」 「探偵さんです。相馬さんに頼まれて、迎えに参りまして」  運転手はビクビクと、体を縮めてかすれ声を出す。 「探偵が何の用だ」  問いたいのは隼人の方だった。一体いつ、自分は探偵になったのか。 「相馬君を呼んでくれませんか? 自分も詳しい説明を受けていないので」  融通の利かなさそうな警察官を、見下ろし、威嚇する。運転手はオロオロしながらも、屋敷に向かった。  隼人を睨みつけながらも警察官は、文句を言えないらしい。権力を笠に着た連中からしてみると、名を馳せる実業家の秘書を呼びつける相手に反論するのは難しいのだろう。  警察官は言葉にはしないが、隼人をただ、憎たらしそうに睨め付ける。鬼瓦のような厳つい顔が、更に、恐ろしい顔になっている。その執念深さには、怒りを通り越して、呆れてしまった。 「長瀬さん」  挨拶も無しに、有朋の声が隼人を呼ぶ。 「じゃ、失礼しますよ」  目の前を通り過ぎようとする隼人に、警察官の低い声。 「ふん、異人めが」  顔色を変えたのは、有朋だった。 「今、なんと」 「落ち着きたまえ。  それより、何が起きたのか、教えてくれないか?」  怒りを隠せぬ様子の有朋を宥めながら、玄関から、屋敷の奥へと進む。幾つも障子を通り過ぎ、最も奥まった、障子の開いたままの部屋に、有朋は立った。 「ご覧下さい」  十二畳の部屋で、警察官が四人、あれこれと指差しながら話している。  部屋の主役は五尺も幅があるらしい机、革張りの椅子。  壁際には本棚が一面に犇めいているから、書斎であろう。畳の上に、西洋の家具が配されているのが洒落ている。  ただ、違和感を憶えるものが、一つ。  机の前に、赤い染み。傍には二尺程の、西洋の女神を象った青銅の像が転がっている。 「高林さんが、誰かに襲われたのか?」 「はい。今朝、僕が発見しました。  毎朝七時に、僕は書斎に参ります。   いつも通り部屋の前に立つと、人の足が、硝子部分から見えたのです」  有朋は、障子の真ん中ほどに填め込まれた硝子部分を指差した。 「障子を開くと、倒れていた。と。  今、高林さんは?」 「気を失ったままです。幸い、出血の割に傷は大したことはないのですが」  書斎を出て、一つ隣の部屋の障子の、硝子部分から覗く。布団が敷かれ、義礼が横になっているのが確認できた。枕元に医師と看護婦がおり、少し離れた場所に、奥方らしき、若い女性が座っている。  誰も隼人や有朋には気付かないらしく、視線を向けなかった。 「あの方は奥さん?」 「はい」  一瞬だけ、有朋の視線が逸れた。が、すぐに、真剣な眼差しを隼人に戻し、首を傾げた。 「どうしました?」 「俺が呼ばれた理由がわからないのだが」 「犯人を捜して下さい」 「犯人って、警察が」  「警察など、あてにできません。早急に見つけなければ、今度こそ、命を奪われるかも」  涙を流さんばかりに、潤んだ瞳。叫び声を挙げまいと、結ばれた唇。  父の様な存在の義礼ならば、特別な感情を持っていもおかしくはない。と思いつつも、有朋の悲壮な様子を、必死の言葉を、声を、額面通りに受け取れるほどの誠意を感じない。 「駄目ですか?」  心配そうな表情を作る有朋に、隼人は興味を持った。  義礼を傷付けた犯人を捜す。と言うよりは、自分の知らない有朋を探りたい。  それが隼人の本音だった。 「分かった。  ではまず、ご家族に話を聞きたいのだけど」 「彬子(あきこ)さんは今無理ですが」 「彬子さん?」 「奥さんですよ。  副社長なら」 「副社長?」 「社長の弟です。名は義史(よしふみ)。妻は咲江(さきえ)。一人娘の映子(えいこ)の三人家族です。  一旦、外に出ます」  そこ。と、有朋は玄関手前に、右手に続く通路の扉を指さした。 「あの扉の向こうが副社長宅ですが、今は閉じられています」 「同じ間取りなの?」 「はい。線対称になっています」  外に出る。古い和館が目に飛び込む。本邸らしく見えるが、人気はない。  義礼の住まいは外から見れば、大きな一つの家に見えるが、扉が二つある、変わった造りであった。  今、出てきたのと全く同じ扉に向かい、ベルの釦を押した。 「向こうの日本屋敷には、先代がお住まいでした。こちらは、副社長の結婚に合わせて建てられたのです」 「豪勢だね」  扉が開いた。  使用人らしい若い娘が、怯えた顔で隼人を見、続いて、有朋に視線を向けた。 「社長の件で、皆さんに話を聞きたい」  はぁ。と、娘は困った様に、再び隼人を見た。 「こちらは探偵さん。きっと犯人を見つけてくれるから、安心して」  有朋の言葉に、娘は微かに口元を綻ばせた。どうやら、隼人の容貌に驚いていたのではないらしい。 「よろしくお願い致します。  こちらへどうぞ」  中は、義礼邸と線対称ではあるものの、雰囲気は全く違っていた。  部屋の入り口は、義礼邸は中が見える、硝子を組み合わせた障子。  義史邸は、西洋風に木の扉である。壁には油絵が飾られ、華やかな花瓶に活けられた生花などが、幸せな家庭を思わせられた。  隼人達を廊下に残して、娘は一人、扉の向こうに消え、直ぐに戻って来、どうぞ。と、扉を開いた。 「朝早くから、申し訳ありません」  慣れた調子で入ると、有朋は、ソファに座っている三人に頭を下げた。 「相馬君、探偵とはどういうことかね?」  よく似ているが、義礼よりも恰幅が良く、年上に見える。  義史が怪訝そうに、隼人を見やる。  嫌な感じはしなかった。義史の言葉に、探偵に対する警戒は感じたが、隼人の外見に対する差別は感じなかったのだ。 「彼は、僕の大学時代の先輩で、弁護士でもあります。  警察に任せておくべきなのでしょうが、幾つもの事件を抱えているからには、社長の為にどれだけ時間を割いてくれるかは、甚だ疑問です。  その点、彼は違います。社長の為だけに、時間を遣ってくれます」  依頼が無くて暇だ。と紹介しているに等しかった。有朋に、他に依頼は無いとは言っていないはずだが、気付いているのか。 「成程。  では、私は貴方を信用しましょう。よろしくお願いします」  義史は立ち上がると。握手を求めてきた。日本人らしからぬ態度に、成程、仕事柄、外国人との関わりも多いのだろうな。と考えた。個人的には仕事のやり易い相手だが、隼人も日本人であるから、握手は少々苦手である。  頭を下げている咲江は、不安そうな表情で、青い顔色ではあるが、派手やかな美しさは損なわれてはいない。 「ありがとうございます。  では早速、質問をさせて頂きます。  昨日、お兄様とは、お会いになられましたか?」 「昨日は仕事で会いましたが、いつもと変わりはありませんでした。会ったのは午後一時から三時。その後はお互い出掛ける用があったので。  私が帰宅したのは夜の九時過ぎ。その後はずっと、こちらにおりました。余程の用が無ければ、互いに行き来はしません。仲が悪いのではありませんよ。互いに家庭を持っておりますから、夜は寛ぎたいのです。兄と顔を合わせるとどうしても、仕事の話になってしまいますからね」   義史は、隼人の質問に要領良く答えると、溜息を一つ吐く。 「それにしても、誰かこんなことをしたのやら。仕事の関係で恨まれる事も、妬まれる事も多いとは自覚していますが、殺されなければならないようなことはしていない」 「警察にも訊かれたとは思いますが、犯行があったと思われる時間、二十三時から七時、随分長いですが、皆様はどちらにおいででしたか?」 「私は戻ってから調べ物をしておりました。零時頃腹が減ったので、蕎麦を作らせて、其れからまた一時間程調べ物を続けて。湯を浴びて床に入ったのは、二時頃でしたか。  妻は寝ておりました」 「私は、十時には寝室に」 「お嬢様は」 「ねぇ」  興味津々で隼人を見ていた映子は、甘えるような声を出した。 「貴方の髪、鬘なの?」 「は?」  同じ家に住んでいる伯父が殺されかけたというのに、二十歳にもなった娘の発する言葉とは思えない。 「質問に答えて頂けませんか?」 「先に私の質問に答えて」 「お止めなさい。  申し訳ありません、我儘な娘で」  母親の叱咤など気にもせず、視線は隼人の髪に向いている。  常識のない人間に勝つのは難しい。隼人は白旗を挙げざるを得なかった。 「地毛ですよ」  映子の目が、驚きに見開かれた。 「貴方、異人さんなの?」  両親の慌てる姿など意に介さず、映子は興味を隠さない。  大きな目も、少し丸みを帯びた顔も、年齢よりも若く見える。  生成り地の大人しい柄の着物を着ているが、芙蓉を象った華やかな髪飾り、紅をひいた赤い唇。軽々しい性格が、外見に現れている。 「質問に答えて下さい」 「勿論寝ていたわよ、一人で」  そう言って、含み笑いをした。 「誰も証明できないに等しいですな」 「それが普通でしょうね、この時間なら。  ところで、奥様は昨日、義礼氏の奥様とお会いになられましたか?」 「いいえ、その、私達あまり、顔を合わせることはありませんの」  咲江は困惑の表情を見せた。妻同士はあまり、仲は良く無いらしい。  隼人は、さっき義史が言った、高林を憎む者、妬む者の名の住所をあげさせると、その理由を問うた。  殺したいと思っているであろう人物。と、制限をつけた為か、名は四人に留まったが、怪我をさせる程度ならば、十倍は居るだろうと言った。  隼人も、父親が実業家であるから、取り引きやら、金銭の問題やらで、人の恨みを買い易いことは知っている。それにしても、四十人は多すぎる。  義礼は、利益の為なら義理人情も蔑ろにするらしいから、それも仕方あるまい。  義史邸を辞し、有朋と共に庭に出る。  広いことは広いが、庭の何処にいても、警察官の目から逃れる術は無い程度だった。 「ところで君は、昨夜書斎を辞してから、どうしていたの?」 「自室で本を読んでいました。勿論、証明してくれる人はいません」 「君の部屋は、二階にあるのだったね」 「はい。  一階には社長の書斎と寝室、彬子さんの自室と寝室、応接間があり、二階には僕の部屋と書庫があります」 「奥様がいらっしったのはいつ?」 「僕が十六の時だから、十一年前かな」 「結構遅かったのだね」 「そうかも知れません」 「奥様の事、訊いてもいいかい?」  伯爵家の令嬢。で、始まった。 「長瀬さんも知っているでしょうね、神岡伯爵家」 「十年位前に、事業の失敗で没落した」 「その直後嫁いで来ました。  夫婦仲は良いとは言えません。彬子さんは気位の高い人だし、社長は仕事一本槍だし」 「子供は?」 「いません」 「奥様の実家には、援助をしているの?」 「はい。生活には不自由しないけれど、馬鹿な事を考えられない程度」  失礼な言い方に、隼人は眉を顰めた。 「僕の言葉じゃありません。彬子さんが言ったのですよ」  悪びれもせす、有朋は言い訳する。 「そう。  話は変わるけど、義礼氏が殴られたのは、頭かな?」 「この辺り」  有朋はほっそりとした人差し指を、隼人の右こめかみにぶつけた。 「右側?」 「はい。  警察が来るまでの間に、間近で確認しました。確かに右側です」 「どんな傷だった?」 「凶器は、女神像で間違いないでしょうね。皮膚が抉れていました」 「しかし、鍵の掛かった屋敷で、遅い時間に犯行が行われたってことは、ごく親しい相手に限られるんだよな。そう考えると家族が怪しいが、事業の要である義礼氏を殺すのは、不自然だ」 「僕なら、どうでしょう」 「憎む理由があるの?」 「いいえ。  でも、犯行動機が憎しみだけとは限らないでしょう? 存在が邪魔だとか、逆に、愛情故に、自分だけのものにするための殺人だってありましょうし」 「そんなことを言ったら、容疑者が絞れないし、君も容疑者だぜ。  義礼氏が目を覚ませば、犯人が誰かは直ぐに知れるだろう」 「そうでしょうか?」  挑戦的な声。まるで、犯人に挑まれている気にさせられてしまう。 「親しい相手であれば、庇う可能性だってありますよ。  社長はね、仕事に関しては冷酷とも思える判断ができるけど、情に脆い部分もあります」  有朋は、家族を疑うよう、隼人を誘導しているらしく感じた。自らを含めた、高林家の人間を疑え。と。  理由を問うても恐らく、そんなつもりはない。と言うに違いない。  義礼の傍には奥方の彬子も、看護婦もいる。屋敷の内外には、警察官もいる。誰が犯人であろうと、危険はあるまい。 「君の意見もごもっともだが、先ずは仕事関係を当たってみるよ」  隼人はさっき、義史に書かせた手帳を見せた。 「これは、仕事関係だけですね」 「引っかかる言い方だね。他に気になる人間がいるのかい?」 「最も、純粋に憎んでいるだろう人物を知っていますよ」  有朋は手を差し出してきた。隼人は万年筆を取り出すと、手の上に載せる。  四角張った読み易い文字が、手帳に加わった。  実業家ばかりなので、仕事中に乗り込む。  流石にいきなり、昨夜は……などと言うわけにも行かず、義史から紹介を受けた。と、自分の仕事を利用した。なにか困り事はございませんか? と。 「昨夜、地震がありましたね」  会話中、さも思い出した風に言うと、相手は、何時頃ですか? と、首を撚る。 「零時頃です」  と言えば、 「寝ていたから、気付きませんでした」 「友人と飲んでいたが、はて、気付かなかった」  と、思い出しながら反応してくれる。  そこまでいけば、昨夜の様子をそれとなく訊いても、答えてくれた。  社交的な人間ばかりで、会話は弾んだ。  紹介されたという名目上、高林の名も出たが、仕事上多少の軋轢はあるらしいが、露骨に不仲を表すものはいなかった。
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