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監禁
四人を訪ね終えたのは、夕刻だった。怪しむべき態度を表した者はいなかった。現場不在証明に関しては、高林家と同じで、あるようで無い。
最後の一人、有朋の情報を元に、その人物の自宅に向かう。
「今までは仕事上のいざこざがあったらしいとわかる相手ばかりだったけど、山科とはどういう関係だろう」
隼人も、山科は知っていた。資産家で、悪い噂の多さは、日本中で十本の指に入るのではないだろうか。三流紙の常連である。
「さて、どうやって乗り込もうか。今までの方法は使えない」
山科邸の周りを彷徨いていると、頭に何かが当たった。足元を見ると、そら豆大の紙屑が落ちている。拾い上げ、飛んで来たらしい方向を見上げる。
山科邸の二階、角部屋の窓が開いており、おかっぱ頭の子供が確認できた。
紙を広げる。乱れた文字で『help me』と書かれている。隼人は万年筆と手帳を出し、どうしたのかと、英國語で書くと、小石に包んで、投げ返した。
直ぐに帰って来た返事には、監禁されている。という、物騒な言葉が。
信じて良いのだろうか? 警察に通報した後、単に、悪戯した山科家の子供が罰として閉じ込められているのだと知れたら、目も当てられない。
再び見上げる。
切羽詰まった表情の子供は、遠目からでも美しいのが分かった。十三四に見えるが、咄嗟に英國語を書けるだけの知識もある。下らない悪戯をするようには見えなかった。
隼人は頷くと、門に向かった。取り敢えず、訪ねる理由はできた。
門を潜り、玄関に立つと、呼び鈴を押す。
直ぐに、表向きは慇懃な、初老の男が出てきた。
「どのような御用でしょうか?」
「二階にいる子供について、主人と話がしたい」
男の顔色が変わった。
「申しわけありませんが、約束のない方はお断りさせて頂いております。お引き取り下さい」
「では、警察に行きます」
二秒ほど考えた後、男は、少々お待ち下さい。と言い残して、引っ込んでいった。どうやらあの子供は嘘を吐いていなかったらしい。胸を撫で下ろす。
戻って来た男は、さっきまでの毅然とした態度はどこへやら、卑屈なまでの態度で、こちらへどうぞ。と、案内を始めた。子供の監禁を認めたも同然だった。
明治の時代に流行った、派手でクラシカルな洋館。花瓦斯やら彫刻に施しが過ぎて、主の趣味の悪さを物語っているようだ。
玄関近くの部屋に通される。赤い絨毯に、ゴブラン織りのソファ。全くもって落ち着かない。
ソファに体を沈めているのが、山科だった。仕事もせず、道楽だけで日々を過ごしているにしては、引き締まった体をしていた。
「お前が脅迫者か」
珈琲を口に近づけながら、山科は、馬鹿にしたような口調で言う。
「脅迫? 俺が脅迫をしていると言うなら、警察に行きますか? 一緒に」
ギロリ。と、山科が睨んだ。
唇の左端が、紫色に腫れている。切れてもいるらしい。熱い珈琲なら滲みただろうが、飲んでいるのは、冷やし珈琲だった。
「その傷、いつできたものです?」
入り口の前で立ったまま隼人は問うが、山科は答えず、視線を逸らす。
「誰に殴られたのです?」
黙っていても、山科が不快に思っているだろうことは、伝わってくる。
「それでは、二階に監禁している女の子の話をしましょうか。あの子は誰なんです? まさか、自分の娘だとは言いませんよね」
山科が初めて笑った。まるで、隼人を嘲笑うかのような、意地の悪い表情で。
「なんのことかね?
私がどこに、女の子を監禁していると? 言い掛かりはやめてほしいな」
「だったら、二階の角部屋を見せて下さい。後ろ暗いことが無いなら、構わないでしょう?」
「どうしても見たいなら、警察に行き給え。
なぜお前のような初対面の男の言うことを聞かなきゃならんのだ」
子供を別の場所に移す為に、隼人を追い出したいのか。いや、まさかとは思うが、既に警察を買収しているのか?
(とにかく、早く逃げなければ、あの初老の男が今頃、仲間を集めているかも知れない)
隼人が部屋を飛び出すと、突然開いた扉に驚いたらしい女中が、盆の上の珈琲茶碗を落とした。
背後から、怒声が聞こえる。
毛足の長い絨毯を敷き詰めた階段を駆け上がり、角の部屋を見つけると、取っ手を回した。鍵が掛けられている。追っ手は階段を昇り始めていた。
「扉から離れろ!」
隼人は足を振り上げると、力一杯蹴りつけた。鈍い破壊音が響き、扉は驚くほど簡単に、隼人を部屋の中に招き入れる用意をした。
「金持ちのくせに、安普請だな」
嫌味を独りごちて、部屋の中に駆け込むと、子供は既に、荷物を詰めた風呂敷を手に待っていた。
「え?」
真ん中で分けられた髪は黒々としている。一重の、切れ長な目、薄い、形の良い唇。整い過ぎて嫌味なほどの美貌は、能面のように表情が無い。
細い体には、白い絹のシャツ、茶色い格子柄のズボン。
「君は男の子か!」
途端に能面顔に、ムッとした表情が浮かんだ。
「だから言っただろう。この家のどこに女の子を監禁している? と」
勝ち誇った声が、背後から聞こえた。
「どちらにせよ、他家の子供を監禁している事実は変えようがないだろう!」
「関係のない人間が口出しするもんじゃない。さっさと出て行くんだな」
「取り引きをしようか」
山科の視線を避けようと、少年は隼人の陰に隠れるように移動した。まだ五尺三寸程の、幼い少年である。
「大人しくこの子を渡すなら、黙っていてもいい。が、抵抗するなら警察は勿論、お前の罪を世間に広める。新聞記者の友人がいるから、この手の醜聞は喜んで書いてくれる」
子供の監禁を指摘されながら、落ち着いた態度で応じたからには、初犯ではあるまい。今、被害者を連れて警察に行ったなら、余罪も炙り出されるのは間違いない。山科にとっては、悪くない取り引きのはずだ。
山科の口元がひくついた。見ようによれば、傷が痛むせいにも見える。
隼人にとって幸いだったのは、この屋敷にいたのが女中と、初老の男だけだった事だ。広い館にしては、使用人が少ない。用心棒もいないらしい。罪を犯している意識が低いのだろうか? 或いは、共犯者は少ないに限ると考えているのか?
「受け入れるなら、階段を降りて、さっきの部屋に皆、入って下さい」
舌打ちをしながらも、山科は階段を降り始めた。使用人の二人も、それに続く。
ほっ。と安堵の溜息が、背後から聞こえた。
「荷物を持とう。
忘れ物はないかい? もう二度と取りには来られないぞ」
「ありません」
少年は初めて、笑みを見せた。
「行こう」
服と、二三冊の本しか入っていないらしい風呂敷を持ち、空いている片手で、少年を促すように、背中に手を当てて進んだ。怖いのか、少年の足は震えている。
慌てた足取りで階段を降り、危うく足を踏み外しそうになった。
「慌てなくてもいいよ」
頷くが、焦りが収まる気配はない。自分に危害を加えようとした人間から逃れたいのは、当然だろう。
階段を降りきると、早足で玄関に向かう少年を追い越して、取っ手を掴み、開いた。
「ありがとうございます」
屋敷から逃れて漸く、少年は無防備な笑顔を見せた。
「俺は長瀬隼人。君は?」
屋敷が見えなくなるまで歩くと、やっと少年の足の震えは止まった。もう大丈夫だろう。
「麻上……圭」
「年は?」
「十八」
十八には見えない。が、嘘を吐く理由も無かろうし、取り敢えずは、納得しておく。
「気に障ったらごめんよ。こんな風に荷物を持っていたってことは、家出かい?」
「家出は無理です。もう、家はありませんし、家族もおりませんから」
さらりと、悲しい言葉を紡いだ。
「そう。それじゃあ、うちに来ればいい」
「でも」
「俺は独り身だし、遠慮する必要はない」
少し逡巡していたが、行く当てもないのだろう、お願いします。と、圭は深々と頭を下げた。
「お独りだと、仰いませんでしたか?」
隼人の家を見て、第一声がこれだった。
「独りだよ」
「奥様とは、離縁を?」
「奥さんがいたことは、一度もないな。
兄が結婚した時に、一緒に父が建ててくれたんだ。要らないと言ったんだけどね」
鍵を差し込み、撚る。圭の目の前に、文化住宅が口を開いた。
「優しいお父様ですね」
「そう思わないわけじゃないけど、早く結婚しろって意味かもしれないと、深読みしているんだ」
「長瀬さんはお幾つですか?」
「君より十一歳上」
「二十六歳で……」
咄嗟に自ら口を抑えたが、遅かった。やはり、嘘を吐いていた。
「二十九だよ」
自分が悪いはずなのに、不満そうな表情を見せる。まるきり子供だ。
「拗ねてないで、おいで」
「拗ねてなんかいません」
拗ねた口調で言うと、遠慮勝ちに上がり、見渡す。
「玄関直ぐの扉が食堂、奥が台所」
六畳の食堂と四畳の台所は、食器棚で遮られているだけである。腰の高さに一尺半程の空きがあり、互いが見えるようになっている。
「その向かいが俺の部屋。隣が空いているから、使って。便所と湯殿は奥。
腹、減ってない?」
少し。と、圭は答えた。山科の所で出された物は、口を付ける気になれなかったのだ。と。
部屋に荷物を放り込む。布団と蚊帳しかない、素っ気ない部屋。頻繁に押し掛ける勇一郎が勝手に使う為に、自宅でありながら、手を加えられぬ部屋であった。文句を言われるかもしれないが、知ったことではない。
瓦斯の通った近代的な台所で、食事の用意を始める。鍋で湯を沸かし、素麺を茹でながら、出汁を作っているのを、台所の入り口で、呆然と圭は突っ立って眺めている。
「長瀬さんは、料理人ですか?」
「いいや、探偵、かな?」
「かな? って?」
「自分では探偵を始めたつもりはないんだけど、周りはそう捉えているらしいから。
そうだ、それで山科を訪ねたんだけど、すっかり忘れてた。
思い出すのも嫌だろうけど、教えて欲しいんだ」
「なんでしょうか?」
「あの男の顔の傷、いつできたか知らないか?」
「昨夜です」
素麺を洗う手が止まった。
「私が殴りました」
「え?」
「お出汁、ふいてますよ」
洗った素麺を出汁に沈め、ひと煮立ちさせる。
生憎、葱はなかった。冷蔵庫の中にあった蒲鉾を飾り、食卓に運ぶ。圭は、隼人の指示通り、洋盃に水を汲むと、危なっかしい足取りでついて来る。なかなか素直な性格らしい。
言葉遣いや仕草から、上流の出だと考えられるが、不要な気位の高さを振り翳すことは無さそうだ。
「さっきの続きだけど、どうして山科の顔を殴ったのかな?」
圭は丼を前に、丁寧に手を併せた。
「許しも無しに、足に触ったので。当然の報いです」
「何時頃?」
「十時頃でしたか。
八時頃に山科邸に参りました。取り留めのない話をしていて、時計が十回鳴ったのを覚えています。半にはなっていませんでした。あの応接間にある時計は、半にも一度鳴りますから」
言葉を切ると、圭は素麺を口にし、美味しい。と、感想を言った。
「話が一区切りついたので、私は、自分はどのような仕事をするのかを問うたのです。
私は昨日、山科の家で奉公する為に参りました。信頼している方の紹介だったのですが」
「裏切られたと」
「そうなのでしょうか。
山科には、存分に贅沢させてやると言われました。いつもそうやって好き勝手してきたのでしょうね、隙きだらけでした」
圭の口調は、ざまあみろ。と言わんばかりだ。よほど腹に据えかねているのだろう。
「殴った後、君はあの部屋に監禁された。
その後は山科がどうしていたかなんて、分からないよね?」
「二時間位は、私を説得しようと扉の前で、なにやら言っていました」
「頑張るね」
「感心すべきでしょうか?」
「必要ないよ。
って事は、零時頃までは傍にいたわけか。朝は何時に起きたかは」
「わかりませんが、いつも昼過ぎまで寝ているそうですね」
「誰に聞いた?」
「山科の女中さんに」
山科の所へはもう行けまい。行ったところで、返事をするとは思えない。あの気の弱そうな男は無理だとしても、女中からなら、なにか聞き出せるかもしれない。
と、考えている時、あ。と、圭が何かを思い出したように叫んだ。
「長瀬さんって、日本人なのですね」
「母親が日本人。父親は英國人なんだ」
「そうなのですか。綺麗な色の髪ですね」
素直で真っ直ぐな褒め言葉は、隼人の心を温かくした。
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