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開始
秋風の爽やかさを満喫する為、深呼吸をする。日が昇るのが大分遅くなった。そろそろ金木犀が香る頃だろう。
寝間着の浴衣から洋服に着替えると、隼人は毎朝の通り、台所へ向かった。
パンは食べられるだろうか? 聞き損ねてしまった。
しっかりして見えたので気が付かなかったが、圭は食後、湯を使うと安堵したのか、食卓に凭れて眠ってしまっていた。
蒲団を敷いて寝かせたのだが、抱き上げても目が覚めなかったのだから、余程疲れていたのだろう。
珈琲を淹れる為、薬缶を火にかけた時、扉を叩く音がした。いや、叩くなどという大人しいものでは無い。叩き付ける。と言った方が適当だろう。足音を立てぬよう玄関に走る。
相手は確認するまでもない。聞き慣れた拍子だ。乱暴に扉を開くと、よぉ。と陽気な声がした。
「鍵を持っているのだから、勝手に入って来い!」
勇一郎は、長くなった髪を手櫛で掻き上げながら、一つ欠伸をした。
「朝から怒ってばっかりじゃ、良い一日にならないぜ。
さっきまで張り込みなんざやってたから、眠くってさ。寝さしてくれよ。あ、その前に飯な」
「五月蝿くするなよ」
怒ろうと張り倒そうと、簡単に態度が変わらないのは、付き合いで分かっている。
勘の良い勇一郎は、隼人が、五月蝿い。と常以上に言う理由に気付いているらしかった。
「飯は?」
「もう少し待て。
そうだ、お前に聞きたいのだが、高林義礼、知っているだろう?」
「当然。以前取材で会った事もある」
我が家ででもあるかの態度で食卓の前に座ると、隼人の淹れた珈琲を啜りながら、眠そうに目を擦る。
「山科も知ってるよな? あの二人の関係知らないか?」
「幼馴染みだ。仲は良かったが……。
高林には秘書がいるんだ。綺麗な顔した」
「相馬有朋か」
「そう。十二三年前、当時はまだ中学生で、高林の居候だったが、そいつを、山科が欲しがったんだ。けど、高林は断った」
「欲しいものを寄越さないお前なんか嫌い。って? まるで子供だな」
「大人気は無いな」
「もう一つ。最近、爵位を返上した男爵家があったよな」
「麻上男爵家か?」
「そう」
お前が興味を持つなんて珍しいな。と言いながら、空になった珈琲茶碗を差し出してきた。話を続けさせる為に、隼人は素直に珈琲を淹れる。
「先代が亡くなったのは、今年の二月だったか。船の事故だった」
「夫人は殺されたのだったか」
「そうだ。病弱で、先代が亡くなってからずっと臥せっていたらしい。
盆過ぎ、男爵が学校から戻って、死体を発見した。胸を一突きだ。
夫妻共恨まれるような人間じゃない。物取りにしても、元々金のある家じゃなかったから、不自然だ」
「男爵って、学生だったんだな?」
「あぁ。麻上圭一って言って、おつむと容姿の良さで有名だぜ」
どうやら、年齢だけでなく、名前も偽っていたようだ。年の近い兄がいなければ。であるが。
「母親の治療費やら薬代がかかったらしいが、家屋敷を売って借金は精算できたらしい。が、華族の体面は保てないってんで、爵位を返上した。
男爵だった圭一はその後、どこかに奉公には出るだろうとは聞いたけど」
家が没落すれば、子供は否応なしに働きに出て行かざるを得なくなる。しかし、子供の稼ぎなど高がしれている。
とはいえ、不幸中の幸いか、借金は無かったようであるから、住み込みで働けば、贅沢はできずとも、生きることは可能なはずだ。
圭の性格であれば、どんな仕事でも真面目にこなすであろう。真っ当な仕事であれば。
住み込みの奉公人を探しているんですよ。ちゃんとしたお宅なので、身元のしっかりした人でなければ雇えないと言う。どうでしょうね? などと、信頼している人間から言われたなら、渡りに船。と思うのではなかろうか。
結果は騙されたわけであるが、圭が愚かだったとは言えまい。頭は良くても所詮は子供。人を疑う気持ちは、大人の半分以下だろう。
隼人が何故興味を示すのか、勇一郎は気になるようだった。が、無視して、温くなりかけた珈琲を口に運ぶ。
「母親が殺されたのは、八月十九日だった」
年齢を偽ったのは、見栄を張ったのかと思っていたが、もしかしたら圭は、自分の身元を隠そうとしたのかも知れない。あまり上手い偽名ではないが。
今日は高林家に行って、義礼の様子を見て来なければならない。
山科と義礼の関係をもっと詳しく調べる必要もあるだろう。単なるお稚児趣味で、知人が可愛がっている子供に手を出そうとしたり、没落したとはいえ、元男爵を監禁したり、まともな神経ではできまい。
誰もいないこの家に、圭を一人で置いておくのは安全とは言いかねる。暫くは、連れて歩く方が良かろう。
「どうしたんだ? 今までこの手の話にゃ興味を示さなかった癖に。何かあったのか?」
隼人は口元に人差し指を立てて、黙るよう指示した。いつの間に起きたのか、圭が廊下を歩いている様子が伺えたからである。本人が隠したいのなら、知らぬふりをするのが、思い遣りと言うものだろう。
勇一郎も、廊下の方向に視線を向けた。
「おはようございます」
着替えて、顔も洗い、髪を整えた圭は、挨拶をすると、勇一郎を見た。
「昨日話しただろう? 新聞記者の中里勇一郎」
初めまして。と、丁寧に頭を下げる。
「麻上圭君だ。今日から俺の助手をしてもらう」
圭は微かに、笑みを見せた。
勇一郎はと言うと、目の前に迫った現実を見ずにはいられないらしい。
「で、俺の寝床はこの子の物になっちまったのか?」
「この家のどこに、お前の寝床がある?」
パンは食べられる? と問うと、食べたことは無いとの返事。國が西洋化を進めていた明治時代から、滋養と日持ちの面で優れているパンは、推奨品だった筈だ。それを華族であったであろう圭が食べた事がないとは。家の中に昔気質の者がいたのだろうか。
幸い、興味はあると言う。
隼人は野菜を切って茹で、卵を焼く。続いて、パンをきつね色に焼くと、バタを塗った。
勇一郎と話しをしていた圭が近づいて来て、それらを食卓に運ぶ。
大人には珈琲を、圭には、少々の珈琲に牛乳を注いであげる。
食卓を見ると、勇一郎は既に、パンを千切りにかかっていた。体は食べ物と睡眠を欲しているらしく、ひっきりなしに欠伸をしている。
隼人も席に着き、おざなりながら、いただきます。と、手を併せる。圭は、二人とは比べ物にならないほど丁寧に、手を併せた。
眠気を一時追い出して、勇一郎は、初めてパンを口にした感想を聞き逃すまいと、横目で圭を見ている。
圭は圭で、生真面目な顔でパンを千切ると、口に運んで慎重に噛んだ。
「お饅頭の様な物だと思っていましたけど、違いますね」
「饅頭に似ているのは、あんぱんだろう」
「パンは大丈夫そう? 朝は手が掛からないから、パンを食べる事が多いんだ」
「大丈夫です」
勇一郎の集中力も失われたらしく、パンが手から落ちた。
「寝るなら俺の部屋を使え。あっちはもう、彼の部屋だから」
「寝れりゃ、どこでも良い」
「じゃあ、廊下で寝ろ」
「訂正。人間の寝る場所なら、どこでも良い」
食べ終えると食器を片付けて、勇一郎は湯殿に向かった。汗を流す為に、水をかぶるのは忘れない。よく目が冴えないものだと感心するが、生半可な眠気では無いのだろう。
一方で二人は、支度をすると家を出た。勇一郎がいるのなら置いて行こうかとも考えたが、眠っている間は一人でいるも同然な事、助手と紹介した時に圭が嬉しそうな表情をした事を考えて、連れて行くことにした。足手まといになるなら、高林家に預ければいい。
道道、仕事の内容を話す。現在関わっている高林家の事件、有朋との関係。
屋敷では相変わらず、警察官が偉そうにのさばっていた。隼人は、気に入らない人物として既に記憶されているらしく、用件は分かっているくせに、素直に通してもらえない。
「また、相馬君を呼んで貰えませんか? あぁ、こうして何度も何度も彼の手を煩わせては、気の毒だな、忙しい身なのに」
大袈裟に、皮肉たっぷりに言うと、警察官が少なからず動揺しているのが理解できた。平民とはいえ、権力も財力持つ高林家で大事にされている人間を煩わせるのは、得策ではない。俗っぽい権力主義、金権主義には堪える言葉に違いあるまい。
「その子供はなんだ」
どうにか文句を言いたいのか、大して目敏いとは言いかねるが、圭に目をつけたらしい。
「素性の知れぬ者は入れられんからな」
「それを決めるのは、高林家の人でしょう。とにかく、相馬君を呼んで下さい。言っておきますが、俺は彼の依頼を受けて訪ねているのですよ」
警察官の顔が、茹で蛸のように赤くなる。
「長瀬さん、待っていたのですよ」
背後からの声に、警察官は飛び上がらんばかりに驚いた後、敬礼をした。
「俺も早く行きたかったのだけど、邪魔が入ってね」
「邪魔とは失敬な! この男は知らぬ子供を連れていたから」
「僕の友人がおかしな子供を連れて来たと、疑っていたと?」
昨日の隼人への暴言を、有朋は根に持っているらしい。元々他者への興味は薄い代わりに、認めた相手への執着は激しい。
いわば、この警察官は、有朋の気に入らない人物として記憶されたのである。
「貴方が余計な事を考える必要はありません。
長瀬さん、どうぞお入り下さい。そちらの方も」
唇を噛み締め、悔しげな警察官の前を、勝ち誇った態度で横切った。
屋敷の中は、しんと静まり返っていた。
「社長の意識は戻りました。
が、どうやらここ一週間程の記憶を失ったらしいのです」
殺されそうになりながら、命を取り留めたのだから、運は良かったも言うべきだろう。
しかし、意識が戻りさえすれば、事件は簡単に解決すると考えていた周りからしてみれば、残念としか言いようがない。
一応、念の為に。と、義礼に会わせてもらったが、まだ心も本調子ではないらしく、生気のない表情と、億劫そうに話す様が、二日前に会った時の印象とは正反対だった。
ふと、義礼の視線が、隼人の陰に隠れていた圭に注がれた。時間短縮の為に紹介を端折ったのだが、見つかってしまった。
「誰?」
圭が名乗ると、義礼は、あ! と声をあげた。何かを言いかけたのだろうが、言葉は途切れて、続きは発せられなかった。目は見開かれ、驚愕にも見える。
申し訳ありません、今日はここまでで。
医師が慌てたように言い、脈やら熱やらを測り始めた。
まずは療養が第一だけに、反抗するわけにもいかず、夫人である彬子から、話を聞く事にした。
明るい場所で初めて見たが、彬子は思った以上に若かった。隼人とあまり変わるまい。
和装の似合う、品の良い女性だが、愛想が無い、取っ付き難い雰囲気が、第一印象だった。
「皆様に伺っているのですが、犯行があったとされる時刻、どちらにお出ででした?」
良人が大変な目に遭ったばかりなのに、心配そうな様子も見せなければ、狼狽えた様子もない。気丈故、態度に表さぬと、気を遣っているのでも無いらしい。
「私は一人で私室におりました。零時少し前に寝酒の葡萄酒を、女中の春が持って参りましたから、聞いて頂けますか?」
隼人は手帳に書き留める。
「つまり書斎の前を、春さんは零時前に通ったのですね」
「そうなりますわね。詳しくは本人にお聞き下さい」
取り付く島もない。
「書斎で、何か音がしませんでしたか?」
「いいえ。間に夫の寝室を挟んでいますせいか、書斎の音は聞こえません。
例え音がしても、腹の立つ事でもあったのだろうとしか思いませんわ。腹立たしい事があると、物を壊す癖がありますので」
彬子の言葉に、有朋が眉を顰めた。
「物を壊す癖ですか。
念の為に伺いますが、奥様や使用人に手を挙げる様な事は?」
「一度もございません。外面は良い人ですから。
それに、私の事など、伯爵家の家紋としてしか見ていないでしょうから」
冷ややかな声と口調は、夫婦の隙間の広さをも物語っていた。
伯爵家。同じ華族同士、圭と面識はあるまいか?
いや、互いに豊かな家ではなかったらしいし、彬子は、金の為に嫁いだも同然の我が身を恥、社交界とは縁遠くなっていると聞いた。嫁いだ頃、圭は四才。少なくとも、圭は知るまい。
質問が終わると、彬子はさっさと部屋を出て行った。協力はするが、良人を殺そうとした犯人など、見つかろうが見つかるまいがどうでもいい。と、はっきり態度に表していた。
有朋に春を呼んで貰って問うた結果、彬子の証言に嘘は無いことが分かった。
残念なことに、書斎の前は通ったが、中は覗いていなかった。
彬子の証言に嘘が無いとは言え、やっていないと言い切れないのは、昨日調べた男達と同じだ。寧ろ、同じ家に住み、義礼の部屋に入っても咎められない分、不利かも知れない。なにぶん、犯行時刻と見做される時間が長すぎる。同じ家に住み、何時でも書斎に入る事のできる有朋も、同時に容疑者となり得る。
「ところで長瀬さん、そちらの方は?」
春が出て直ぐ、有朋は興味津々で問うた。
圭は丁寧にお辞儀をすると名乗り、有朋もそれに答えた。
不思議な気持ちにさせられる。
昨日まで、隼人は圭を知らなかった。なのに今、こうして一緒にいる。原因を作ったのは、有朋である。無意識とはいえ、圭を救ったのだ。
縁とは奇なるものである。
「ところで、山科と高林さんは以前、親しかったと聞いたが」
圭が手洗いに立った隙を突く。
「そうらしいですね。この屋敷にも何度か見えてます」
「どうして仲違いしたか知ってる?」
「さぁ」
当時、有朋は十四五歳。大人の事情に深く関わり合える年ではない。義礼も態々、有朋に伝えはしなかっただろう。
「ただ、社長からは、山科さんとは口を利いてもいけないと言われました。
喧嘩をしたのかしら。大人気ないな。とは思いましたけれど、僕も山科さんのことはあまり良く思っていなかったので、自然、約束を守った形にはなりましたけれど」
勇一郎の情報の確かさは、これで確認できた。
「山科が、どうかしましたか?」
詳しい説明はまだできない。答えにつまり、笑って誤魔化す。
まだ、犯行現場には入れない。警察官が引っ掻き回して遺留品を探しているが、まだ何も出ていないようだ。部屋は荒らされておらず、争った形跡も無い。
「あぁ、そうだ、言い忘れていましたが、僕は近い内に社長の正式な養子になります」
戻って来たばかりの圭が、興味あり気に有朋に目を向けた。
「映子さんは?」
「突然、副社長が映子さんを嫁にやると言い出したのです。それまでは、映子さんに婿を取るのだと、二名の候補まで決めていたのに」
「相馬さんと、映子さんと仰る令嬢との縁組のお話はなかったのですか?」
大人しく聞いていた圭が、大人びた態度で問う。
「さぁ、少なくとも僕に、そのような打診はありませんでしたね。
僕は、映子さんのような女性は苦手です。それは、社長も知ってますし」
「随分と、高林氏は相馬さんに気を遣っておいでなのですね」
無表情だからどう言う意味で問うたのかはわからないが、圭の言うことは一理あった。
普通であれば、婚姻は家の為に行われる。どのような理由かは分からないが、有朋にとって、義礼は恩人のはずだ。映子を気に入ろうがいるまいが、有朋の側に、拒絶する権利は無いように思われる。
有朋の、隼人への依頼も、考えてみればおかしい。依頼主は有朋でありながら、金を払うのは、義礼なのだから。
「社長は、両親を知らずに育った僕を、不憫に思っているのでしょう」
「それだけですか?」
「他にどんな理由が?」
残念ながら、圭に考えられるのは、ここまでだったらしい。小首を傾げて、真剣に考えている。
「相馬さんのお父様と、何かがあった。或いは、お母様が、憧れの君であった。とか」
思わず、有朋の顔を見る。恐らく母親似。さぞかし美しい女性だろうと、簡単に想像できる。
有朋の目は、笑っていなかった。なるほど。と、肯定的な返答をして、口元は笑んでいたが、圭を見る目には、怒りを感じさせた。
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