1753人が本棚に入れています
本棚に追加
10
結人に母親へ連絡をさせながら、友晴はタンスを開けて探し物を始めた。結人を泊めるということは、流石に今着ている格好のまま寝かせるわけにはいかない。ただ、結人と友晴とでは体格が違うので、これも小さいかな、と一つ拡げてはしまい、また一つ拡げては小さいな、と片づけていく。そんなにたくさん部屋着を持っているわけでもなかったので、最終的にはある程度妥協して学生の時に着ていた大きめの赤いジャージに決めた。
「これでいいかな?」
「えっ、さっきから何してるのかなって思ってたけど、わざわざ俺の着替え探してくれてたんですか?」
「だって泊まるんだろう?」
「泊まる!」
「じゃあ、それはハンガーにでもかけておいて、これに着替えなさい」
「はい、ありがとうございますっ」
ジャージを畳んで渡すと結人はぎゅっと胸に抱き嬉しそうに笑った。そんなよれよれのジャージ渡されて喜ばないでよ。
「あ、そうだ。友晴さん、電話していい?」
「電話?――ああ、お母さんか」
「ん、そう」
「いいよ。というかまだ連絡してなかったの?」
「いや、メッセージでは送っておいたんだけど、返事来て、電話しろって」
「心配してるんだよ」
「ん、そうだね。かけてみる」
えらいえらい。つらくても、きちんと落ち着いて大人の言うことを聞ける結人は素直だ。だからどこまでも甘やかしたくなる。
お風呂でも沸かしてくるか、と立ち上がりかけたが、不意にくいっとシャツの裾を掴まれた。
「なに?」
「母さんが友晴さんと話したいって」
「えっ?……まあ、そうか、わかった……ちょっと待って」
「?いいけど……」
可能性は十分にあったのに心の準備をしておくのを忘れていた――って心の準備ってなんだ。ただ今日彼を泊めてあげるってそれだけだろう。
友晴が実際悩んでいたのは一瞬のことで、なんとなくげほんっと咳払いして電話をかわった。結人は大丈夫?と言いたげに見返してきたので頷いて見せる。
「――もしもし。白崎と申します」
『白崎さん、お世話になっております。結人の母の小森 咲千と申します』
はきはきと、いかにも仕事ができそうな雰囲気のよく通る声だった。
『この度は、息子がご迷惑をおかけしまして、申し訳ございません』
「いえいえ、大したことないですから」
『お気づかい頂きありがとうございます――結人から事情はお聞きになっていらっしゃるかもしれませんが、不甲斐ない親でお恥ずかしいかぎりです』
「そんなことないですよ。あ、少々お待ちください」
『え、はい……』
結人が目の前でじーっと見つめてきていたので、通話口を押さえ「待ってて」と告げて立ち上がる。結人に引き留められそうになったが、「大丈夫だから」と言い聞かせキッチンへと移動した。
「すみません、お待たせしました。結人くんが何を言われるんだろうかとじっと聞いていたものですから」
『――それは、わざわざありがとうございます』
「いえ、彼も戸惑っているようだったので、あまり刺激をしない方がいいかな、と思いまして」
『……ええ』
彼女はしばらく沈黙してから、「あの」と先程よりずっと穏やかな声で続けた。
『結人が白崎さんを頼った理由がなんとなく、わかった気がします』
「え?」
『結人からもともと聞いていたんです。白崎さんはとっても優しくて、思いやりがあって、そばにいると落ち着くんだって』
「そんな……そこまで言って頂けるような者ではないんですよ」
『いえ、今私も話していて思ったんです。きっと結人の言っている通りなんだろうなって。だから、なんだか安心してしまって』
「そんな…恐縮です」
結人からの言葉と母親からの言葉と一度に受け止めて友晴の心の中はすでにいろんなもので満ちて溢れてしまいそうだった。
結人は母親にとても愛されている。愛されて育ったから今のような結人になったんだろうと思うのと同時に、自分の中に降り積もった感情が居場所を失ってさまよっている。でも、今はただ彼女の話を聞くしかない。
『――今回のことは私の伝え方にきっと問題があったと思うんですが、今日のことに限らずもっと結人と話をしてあげるべきだったんだろうな、と思うんです』
「そうですか」
『はい。母――結人にとっては祖母にも言われました。私にも話さないようなことをきっと白崎さんに話しているんだと思うと。父親がいなくなってしまった分、しっかり支えてあげないと、と思っていたんですが、あの子はつらいことも悲しいこともすぐ抱え込んでしまう方で、それをうまく引き出してあげられるような母であれたらよかったんですが……結人、泣いてましたよね』
「……ええ、まあ」
黙っておいてあげてもよかったが、結人が抱え込んでしまう方だということを知っている彼女に隠す必要はないと思った。
『やっぱり、そうですよね。本当に不甲斐ない母親で、白崎さんがいて下さって、本当に助かりました。ありがとうございます』
「いえ、僕は本当にたいしたことはしていませんから」
『そんな』
「それに」
また謝られてしまいそうで、すぐに続けた。
「僕の方こそ、彼にいろいろなものをもらっていると思うんです。優しさも、ぬくもりも、彼はいっぱい持っていて、本当にいい子だな、といつも思います」
どこまで伝えていいのか悩みながら、でも、きっとこれは結人にも彼の母親にも必要なことなんだと信じて言葉を繋ぐ。
「僕は、咲千さんのご両親の料理がもともと大好きなんですが、お二人の料理に込められたあたたかいものと同じものを彼に感じます。それはきっと、お二人だけじゃなくて、お二人から受け継いだものを咲千さんがきちんと彼に伝えられているからだと思うんです」
『……そうでしょうか』
「はい。きっとそうですよ。だって、結人くん言ってましたから。“母さんと陽人が世界で一番大事です ”って」
『――っ、そう、なんですか』
「はい」
電話の向こうで彼女が涙ぐんでいるのがわかった。大丈夫。これは伝えてよかったんだ。きっと大丈夫。信じて彼女の答えを待った。
『ありがとうございます……あなたがそう言って下さらなかったら――きっと、あの子はそんなこと、私には直接言ってくれなかったと思うので……聞くことができて、本当によかった』
彼女の言葉に、友晴はほっと肩を撫でおろした。緊張していた。自分のような肉親でもない人間が踏み込みすぎていないだろうか、迷惑だと思われないだろうか、悩んで悩んでそれでも言ってよかった。
『結人は、白崎さんのことを本当に信頼しているんですね』
「……そう、ですね。僕なんてもともと他人だったのに、こんなに頼られていいんだろうか、と時々不安になります」
『……ふふ、優しいんですね』
咲千は穏やかに笑っていた。彼女も結人と同じようにきっと友晴のことを信頼してくれている。そう思うと嬉しいのといっしょに、ああ、もう戻れないなと確信してしまう。
『今日は、白崎さんのお家にお世話になるとお伺いしています。何かとご面倒をおかけするかと思いますが、よろしくお願い致します』
「……はい。わかりました」
通話を終え、しばらくその場で立ち尽くした。
きっとこれで明日結人と母親が再会した時、歩み寄りやすくなるだろう。余計なお世話だと怒られたってしかたのないことをしたし、おそらく友晴が間に入らずとも関係の修復はできただろう。それでも、言葉にせずにはいられなかった。結人のことを心から愛している彼女に伝えられることがあるのなら、全部伝えてあげたかった。結人の助けとなることならばためらわなかった。
でも、彼女と真剣に話したことで、もう絶対に彼女を裏切ることができなくなってしまった。もともと裏切るつもりなどなかったが、彼女を不必要に泣かせることなど決してできない。
こぼれ出そうになる本音をぐっと飲み込み、友晴は結人のもとに戻った。
「ごめん、お待たせ」
「……長かったね」
結人はクロを抱いて部屋の隅に小さく縮こまっていた。大きな体なのに、不安そうにこちらを見上げ、幼い子どものようだ。
友晴は彼の目の前に座り「大丈夫だよ」と言った。
「きっと大丈夫。明日には君と、お母さんと、陽人くんと、笑って会えるよ」
「……友晴さん」
よしよし、とまた頭を撫でてあげる。結人はまた瞼に涙をにじませたが、ごしごし、と服の袖で目元を擦り「ありがとう」と笑った。
「それで、君はいつまでその格好をしてるんだ」
「え?ああ、お風呂入ったら着替えようと思って」
「ああ、確かにそうだな」
相変わらずセットアップを着たままの結人にため息をついたが、言われて見れば確かにそうだな、とお風呂のお湯を貯めにいくことにした。
「入る前に着替えたらいいよ。僕はお風呂掃除してくるから」
「わかった」
「ん、そうして」
そのまますぐに浴室に向かい、手早く掃除を終えて戻る頃には結人は着替え終わっていた。「もうすぐ準備できるから」と声をかけようとして「友晴さん!」と結人がなぜか大きな声を出す。
「なに?」
「これ、学校のジャージ?!」
「そう、だけど」
赤いジャージは思った通り結人の体格にはぴったり合っておらず、上着は袖が手首の手前で止まっているし、下は脹脛の途中までしか入っていない上にウェストまで裾が足らずいわゆる腰パン状態になっていた。ボクサータイプの黒い下着が三分の一程見えていて正直目の毒――で、なんで君はそんなにテンションが高いんだ。
「白崎って書いてあるっ」
「そりゃ学校で着てたからね。君も同じようなの着てるだろ?」
「うーん、俺の学校こういう決まったのじゃなくて、個人で好きなの買うんだ」
そういえば最初に制服で会った時にも似たようなことを言っていたな。
「それで、何がそんなに楽しいんだ」
「だって、これ友晴さんの体操服ってことでしょ?こんなの着てたんだ~って思ってテンション上がっちゃって」
「どういう意味だ」
「いや、友晴さんにもそんな頃があったんだなあって」
「……そりゃ、僕だって若い時もあったよ」
悪かったな、四十手前のおじさんで。ついつい声が低くなったが、結人は「そういう意味じゃなくて」と言った。
「そういう意味じゃないって?」
「だーかーらっ、なんか友晴さんの学生時代ってどんなだったのかなって想像して、かっこよかったのかな、とか、実は可愛い感じだったのかな、とか、そういうの?」
「…………どういうのだ」
謎のテンションに着いていけず、ため息交じりに問いかけても結人はその場でくるくる回ってみたりなんかして、「赤って可愛いね」と謎のコメントをよこしてくる。
まあ、楽しそうだからいいとするか、と思ってしまうあたり、本当に自分は結人に甘い。
そうこうしているうちに浴室からピロリロリンと電子音が鳴り、機械的な『お風呂がわきました』という声に呼ばれた。
「ほら、お風呂行っておいで」
「はーい!」
「タオルはかごの中、シャンプーとかはこだわりなければ好きに使っていいから。下着は新品のが一個だけあったから使って……まあサイズが大丈夫であれば、だけど」
「至れり尽くせりだね」
「今日だけだよ」
「今日だけじゃなくても俺はいいよ」
「僕がよくない」
「はーい」
渋々といった様子で結人は浴室に向かっていった。少しも経たずにシャワーの音が聞こえて来て、はあ、とその場に脱力してしゃがみこむ。クロがとととっと近づいてきて、じっと見上げてきた。
「クロ……僕は何を強いられているんだろうね」
問いかけてもクロは見つめ返してくるばかりですぐに毛づくろいを始めてしまった。
じっとしているのもな、と思い、結人が入浴している間に夕飯の準備をすることにした。もう夜も遅いので軽いものをと冷蔵庫に残っていた野菜を寄せ集めて雑炊を作った。
「うわっ、いいにおい」
「……早かったね」
準備をしているうちにいつの間にか結人が出てきていて、キッチンに立つ友晴の背後からぬっと顔を出した。身長が大きいだけに後ろに立たれると圧がすごい。それから、乾かしきっていないのかいつもきちんとセットしてある髪の毛がしっとり濡れて額に張り付いていた。ついうっかり振り向いてしまったせいで雫がつーっと頬を滑り落ちる様を間近で見て、どくんっと心臓が大きく跳ねる。慌てて前に向き直ったが背後からは相変わらずお風呂上りのいい香りがして参ってしまった。
「おいしそう。雑炊?」
「そうだよ――君、髪の毛濡れてるじゃないか、ちゃんと乾かしなさい」
「ふふっ、友晴さん母さんみたいなこと言うね」
「今日は君の保護者がわりだからね。髪乾かしたらご飯にするから」
「……はーい」
ほんの少し間を置いて結人は浴室に引き返して行った。
はあ、とため息をつき、さっさと雑炊を二つの器に盛ってリビングに運んだ。クロがめざとくにゃーにゃー言いだしたので、「できたよ!」と急いで結人を呼ぶ。
すぐに結人がやってきて「クロめっちゃ鳴いてんね」と笑った。
「食いしんぼだからね」
「ははっ、大丈夫なの?一緒にいて」
「それは大丈夫。死守する」
「死守って」
くっくっと結人は楽しそうに笑うから「見てればわかる」と告げて手を合わせた。結人も友晴に倣って手を合わせ、二人で食事を始めた。クロはにゃーにゃー言いながらテーブルの上に前足を乗せようとするから左手で制し、黙々と雑炊を啜った。クロは何度かまた前足を乗せようとチャレンジしてきたが、すべてよけるうちに諦めてソファの上にぴょいっと去っていった。
「ふはっ、ほんっとに死守するんだっ」
「だから言っただろう」
結人は噴き出してまったく食べ進められていない。
「ははっ、いっつもこれするの?」
「んー、まあ、これぐらいの料理なら?」
「他のは違うの?」
「魚料理の時はリビングに入らせない」
「ははっ、はははっ、イメージつく!絶対めちゃくちゃ鳴くもんね」
「まあね」
他愛もない会話をしながら食事を終え、結人が洗い物はすると言うのでありがたく任せて友晴も浴室に向かった。
友晴はさほど長風呂な方ではなかったが、リビングに戻るとカーペットの上でクロを抱えて結人が眠っていた。起こさないようにそっと近づき、目の前にしゃがみこんだが、結人は起きる気配はない。
「ほんとに、きれいな顔だな……」
彼が起きていたら絶対に口にできない言葉がついこぼれ出る。
横向きに寝ていたからいつもは少し上げている前髪が全部降りていて、寝顔はとてもあどけなかった。
「よしよし」
また頭を撫でてあげると、結人は掌に頭を擦り着けるように身じろいで「ん」と小さく吐息を漏らす。ほんのわずかに開いた唇を思わず見つめて、視線がそらせなくなった。
「――……ん」
「ん?」
「……母、さん……」
「っ……」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で結人が呼んだ名前に慌てて彼の頭に置いていた手を引込めた。僕は、今、なにを……。
どくん、どくん、と早鐘を打つ胸をおさえ、友晴は結人を揺り起こした。
「……ん、あれ、寝てた?」
「こんなところで寝たら風邪引くよ。寝室に客用布団敷いてあげるから、おいで」
「ん……わかった」
まだ半分眠気眼で返事をして、結人は起き上がった。「こっちだよ」と友晴が呼べば素直に寝室に着いてくる。
「……ねえ、友晴さん」
「なに」
「お願い」
「……なに」
「一緒に寝ていい?」
「……」
きゅっと、スウェットの上着の裾をつまんで、結人はぼんやりとした瞳で聞いてくる。その姿はやはり幼い子どものようで、自分より十センチ近く身長が高い男の子がどうしてこんな、と目を疑った。でも、友晴には目の前にいる結人が、母親を恋しがる子どもにしか見えない。
「……いいよ」
「ん、ありがと」
ほら、と手を引き、眼鏡を外し、電気を消してからベッドに二人で並んで入った。昔就職してから本格的に一人暮らしを始めた時、すこし大きめぐらいがいいから、と勧められセミダブルのベッドを買ったのだが、それでも結人と二人で寝ると狭く感じた。距離の近さに呼吸をするのもためらわれたが、少しも経たないうちにクロがぴょんっとベッドに乗って二人の腹の間のあたりで丸まって寝始めたから、助かった、と思った。
「ふふ、クロ、あったかいですね」
「動物って温かいよね」
「ん」
結人はすぐに瞼を閉じて、眠ったかな、と思うと薄ら瞼を開けてぽつり、と言った。
「友晴さんも、あったかい」
「……そう」
「友晴さん」
「ん?」
「ありがとう、一緒にいてくれて」
彼の温かい手が友晴の手を探してきゅっと優しく握った。友晴は今眼鏡をしていなくてよかった、と思った。だって、暗闇の中でもわずかでも彼の顔が見えていたら、きっと今よりずっと頬に熱が集まってごまかせない程に赤くなっていたと思うから。
それからすぐに結人の寝息が聞こえ始めたが、友晴はなかなか寝付くことができなかった。
ごめん、ごめんね。君はこんなに僕を信頼して、そばにいてくれるのに。だめだとわかっているのに、君のことが好きで、この手をずっと離したくないよ。
最初のコメントを投稿しよう!