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 ざく。ざくざく。何かちくっとするものとふにっとするものが頭のあたりにある。これは夢かな――。ぼんやり考えていると目の前で誰かが「ふっ」と噴き出した。そうだ、これは夢じゃない。 「クロ……?」  少しずつ意識が現実に近づいてきて先程まで感じていたちくっとするのとふにっとするのはきっと愛猫の爪と肉球だなということも想像がついた。鳴いても飼い主が起きない時、クロは頭を前足でとんとん叩いてくる。地味に痛くて起きたことが過去何度か。それで、噴き出したのは……? 「あ……そう、か」 「おはようございます。友晴さん」 「……おはよう」  結人がいるんだった、と思った瞬間、ずいっと顔が近づいてきた。カーテンの隙間から差し込む朝日の中で彼の笑顔がきらきら光る。まぶしい。朝陽なんかより君の笑みの方がずっとまぶしいよ。 「クロがずっと呼んでましたよ」 「今何時……?」 「六時半」 「まだ六時半か……」 「あっ、友晴さん寝ないでっ」  まぶしい笑顔を見たとはいえ睡魔の方がまだまだ勝っている。重たい瞼が綴じかけた時、結人が肩を揺すってきた。直後にゃおーんとクロの鳴き声も響く。 「うわっ、声おっきいっ。クロ、おまえあれでも遠慮してたんだな」  にゃおーん、と返事をするようにクロが鳴く。枕元から一旦飛び退いたかと思うと、のしっと腹の上に乗って来た。にゃー、にゃーと先ほどよりか少し控えめにクロが鳴く。 「ふふっ、クロが朝声おっきいのはいつもだよ」 「慣れちゃったの?」 「そう」 「それって友晴さんが全然起きないからですよね」 「まあね。でも、土日はもう少しゆっくり起きるし、もうちょっと寝てたっていいんだよ」 「朝弱いんですか?」 「うん。ほんとはまだ全然寝てたい。こんな早く目が覚めるのなんてめったにないよ」 「めったに、ってことはたまには早起きするんだ」 「普段は早起きしてるよ。休みの日は寝たいだけ」 「俺はすっと起きちゃいますけどね。休みの日ってなにしようかなって楽しみで目が覚めちゃう」  若いなあ。いや、それとも単純に意識の問題か、体質の違いもあるだろう。 「僕も昔は楽しみだなって早起きしたことがあったようななかったような気がする」 「ははっ、どっちなんですかっ」 「どうだろうね」  ほんとにまだ眠いんですね、と結人が笑う。 「ん~、眠いね……」  返事をしながらそういえば、と思い出した。 「最近早く目が覚めたのなんてこの前君と出かけた時ぐらいで」 「えっ、そうなんですか?」 「え……あっ……――」  寝言のようにぽそぽそ話していたが、結人が目を真ん丸にして驚いているのを見て、徐々に意識がはっきりしてくる。僕は今なんて言った? 「いや、だから、それは」 「俺と出かけるのが楽しみで目が覚めちゃったんだ」 「っ……」  ずいっとまたいっそう顔を近づけられ、さっきまで平穏そのものだった心臓がどくんっと大きく跳ねる。よりにもよって本人に遠足に行く前の子どもみたいな一面を知られてしまうなんて。でも、結人はからかうでもなくただ嬉しそうに笑う。 「俺も一緒ですよ」 「え……」 「あの日いつにも増して早起きしちゃって、ずっとそわそわしてました」 「そうなの」 「そう!だから、友晴さんも一緒だって聞いて嬉しい!」 「っ……」  肯定したわけではないが、疑いなどかけらもない瞳はまたきらきら輝いている。まぶしい……まぶしすぎる……。 「クロにエサあげてくる」 「あ、はい」  逃げるようにベッドを出てキッチンへと向かった。クロがベッドの上からぴょんっと降りてとととっと着いてくる。結人は着いてくる様子はないのでほっとしていたら「友晴さんっ」と少ししてから結人も出てきた。  今まともに顔を見る勇気がなくて「なに」と返事はしたものの振り向きはせずクロの餌を器に入れてしゃがみこんだ。クロが待ち構えたようにガツガツとすぐに食べ始める。 「おはよう、クロ」  よしよし、頭を撫でたがクロは餌に夢中だ。 「友晴さん」 「わっ、急に後ろに立つなよ」 「そんな急でもないと思いますけど……?」  結人は苦笑して、少しだけ体を屈めて顔を覗きこんでくる。だから、近いって。 「で、なに」 「ああ。あの、キッチン借りてもいいですか?朝ごはん作ろうと思って」 「君が……?別に僕が簡単に何か作るよ」 「いや、俺に作らせて下さい。昨日は友晴さんに夕飯作ってもらったじゃないですか」 「作ったと言ってもいろいろ入れただけの雑炊だよ」 「すごくおいしかったですよ」 「そうか……」 「うん!それと、昨日いっぱい迷惑かけたので、そのお礼」 「迷惑なんて思ってないよ」  むしろ君のことを知ることができてよかったと思ったぐらいだ。言わないけどね。 「そう言ってくれるのは嬉しいんですけど、俺の気持ちの問題なので。ね?」  首を傾げ、お願いします、とねだられるとかなわない。 「わかったよ」 「ありがとうございます」 「お礼を言うのは僕の方じゃないか」 「そんなことないですよ。じゃあ、キッチン借りますね」 「あ、その前に顔洗って、歯磨いてきたら?タオルと新しい歯ブラシ出すよ」 「はーい!」  そのあとは結人に洗面台を使わせている間に友晴は着替えを済ませ、結人にも着替えさせた。うっかり結人の素肌なんて見てしまわないようにすぐにキッチンに戻り、ココアの準備をする。 「あ、またココア入れてくれたんですね」 「ん、どうぞ」 「わーい」  シャツ一枚とスラックスで戻って来て、サイズの合わないジャージ姿からいつものかっこいい結人に戻っている。 「じゃあ、僕も顔洗ってくるから」 「はい。俺は朝食準備しています」 「ん、お願いね」  服装も相まって目の毒だな。髪をセットしていないこと以外あまりに隙がない。ほんのすこしそらした視線を不自然に思われなかったかなと不安になりながら洗面所に向かった。  洗濯機の上にはきちんと畳まれた赤いジャージがあり、結人の性格を表しているようだった。彼と一緒にいればいるほど、いい子だなと何度も思う。ごめんなさいも、ありがとうも言葉だけではなく行動で表現できる。 ふと鏡に映った自分を見ればなんとも幸せそうに微笑んでいて、うわ、と思った。結人のことを考えている時、こんな顔をしているのか。もうちょっとどうにか引き締めて、ってそれもまた不自然かな。考えれば考えるほどわからない。  今はただ、目の前の彼に真摯に向き合う、それだけだ。 「よし」  意気込んで洗面所を出たがキッチンからただよってくる甘い匂いにすぐに表情がふにゃふにゃになりそうになる。 「友晴さん、もうじきできるんで、座っててください」 「……わかった」  幸いにも結人は振り返らずフライパンを見つめていたので、ほっとしてリビングに向かった。  結人の足元ではクロがにゃーにゃー言いながら見上げていたので、だっこして寝室へと連れて行った。  友晴がテーブルの前に座る頃には結人もリビングにやってきて「はいどうぞ」と皿をテーブルの上に置く。シナモンと砂糖とミルクの香りがあふれるフレンチトーストだった。 「ん~……いい匂い。すごくおいしそうだ」 「ん、俺の得意料理、って言ってもそんなたいしたものじゃないけど」 「そんなことないよ」  結人は向かいに腰かけ「弟が好きでよく作るんだ」と微笑んだ。 「陽人くんが?」 「ん。休みになるとよく言ってる。卵パン作ってって」 「卵パン……?ミルクは?」 「わかんない。陽人卵好きだから、卵が入ってるパンだから卵パンみたい」 「ははっ、可愛いね。そういえばこの前もオムライス食べてたっけ」 「そうそう。アイツじいちゃんのオムライス大好きなんです」 「へえ」  オムライスもフレンチトーストも確かに子どもが好きそうなメニューだ。 「僕も繁人さんのオムライス好きだよ」 「知ってる。この前おいしそうに食べてるの見ました」 「あ、そうだったね」  なんか恥ずかしいなと笑っていたら「ほらほら、冷めちゃう」と結人に勧められ、朝食を頂くことにした。 「味どうですか?甘すぎたかな?」  不安げに見つめてくるが、口の中いっぱいに甘さが広がり、ふわっと香るシナモンがアクセントになっている。 「っん~……おいっしいね」 「ほんと?よかったっ」  ふわあっとフレンチトーストに負けないぐらい甘い微笑みで結人が見つめてくるから危うく喉に詰まらせそうになった。ココアを口に含んで事なきを得る。 「ん、おいしいよ」 「やった。やっぱり自分が作ったもので喜んでもらえるのが一番嬉しい」 「……ん、そうだね」  結人は食事を始める様子もなく嬉しそうに笑って頬杖をついた。 「友晴さん、本当においしそうに食べるから、毎日見ても飽きないと思う」 「っ」  げほっと今度は本気で噴き出しそうになる寸前でなんとか口をおさえた。今、なんて言った? 「えっと、そこまではキッチン・小森に通えないかな」 「じいちゃんの料理で笑ってもらっても今みたいに嬉しくないですよ。俺の料理でおいしいって言ってもらわないと。だから、もっともっといろいろ作れるようになりますね」 「……うん」  これは、そうだな、将来の夢の話かな。なんせ彼は将来キッチン・小森を継ぎたいんだもんな。 「応援してるよ」 「……ありがとうございます」  結人は微笑みようやくフレンチトーストに手を伸ばした。ナイフとフォークを友晴の分しか準備していなかったからなんでだろうと思っていたら素手で掴んでがぶりっとかぶりつく。きれいな顔で昔は女の子に間違われて、なんて言っていたが、結人は友晴よりずっと男っぽい。というか、なんだか男の子らしいな、という姿を見て微笑ましくて友晴もしばらく結人が食べる様子を見つめてしまった。 「なに?顔になにかついてますか?」 「ああ、ごめん。よく食べるなあと思って」 「育ち盛りですからね」 「そうだよね。高校生だもんね」 「はいっ」 「それじゃ、僕のを一つあげよう」  予め四つに切ってあったフレンチトーストをひとつ結人の皿に移した。 「そんな、いいのに」 「いいんだよ。おいしそうに食べるのを見るのが楽しいのは君だけじゃないからね」 「……じゃあ、いただきます」 「どうぞどうぞ」  遠慮がちにでも断ることはなく結人は友晴の分もぺろっとたいらげてしまった。いっぱい食べる君が好きって、こういうことだね。 「そろそろ帰らないとね」  食事の片づけも終わりテレビで適当にニュース番組を見ていたが、結人の方から帰ると言わないので声をかけてみると、結人は「あの」と友晴の服の袖を掴んだ。これ、知ってるぞ。 「なに?」 「本当にすごく厚かましいと思うんですけど、一緒に家まで行ってもらえませんか」  ほら、もう。そうやってまた大きな体で上目遣いする。 「一人じゃ不安?」 「不安っていうか……母さんにあんなに反抗したの多分初めてなので……なんか気まずくて」 「初めてなの?君、本当にいい子なんだね」 「いい子って……まあ、俺兄なんで。陽人がいるのにわがまま言えないですよ」  あ、この顔知ってる。友晴はすぐに自分の兄が昔見せていた表情を思い出した。何か言いたいこと、やりたいことがあっても「お兄ちゃんだからな」と笑った兄。友晴よりもきっとずっといろいろ我慢していたであろうことは子どもながらになんとなくわかっていたし、大人になって振り返るともっと兄も甘えたってよかったのにと思う。  結人は一人の息子であると同時に陽人の兄で、弟の前で怒ってしまったことを恥じているし、悔いている。 「しょうがないな。わかった。一緒に行ってあげる」 「……!ほんとですか」 「うん」 「ありがとうございますっ」  影が落ちていた顔が一瞬でぱあっと明るくなる。そんな様子を見てしまったら、誰だってしょうがないなってなるんじゃないかな。 「帰ろう、君の家に」 「はい」  結人の母親と会うのか。緊張と不安で押しつぶされそうなのはむしろ自分の方だな、と友晴は苦笑した。  結人の家は友晴の家から五分ほど歩いたマンションだった。まさかこんなに近いと思わなかった。  これから帰ると結人に連絡させておいたこともあり、咲千がマンションのエントランスの前で待っていた。毛先だけふわっとパーマをかけた長い黒髪の彼女はシャツにカーディガンを羽織っただけという姿で、電話越しのイメージよりずっと柔らかい印象だ。 「結人!」  息子の姿を見つけると咲千は駆け寄ってきた。 「母さん、仕事は」 「心配したでしょうが!」 「!」  咲千は結人の手を両手でぎゅっと握ると「ほんとに、心配したんだから」と涙ぐんだ。 「ごめん、母さん」 「私こそごめんなさい。あなたの気持ちを全然考えられていなかった」 「……うん」  ごめん、ともう一度言い、結人は母親をそっと抱きしめた。本当にお互いのことを大切に思っているんだろう。彼女も抵抗することなく抱きしめられていたが、不意に顔を上げ友晴の姿を見ると急いで体を離して「すみません」と頭を下げた。 「わざわざ送ってきて下さったのにお見苦しいところをお見せして……」 「いえいえ。僕はただついてきただけですから」 「そんな、昨日から本当にありがとうございました。白崎さんがいてくださらなかったと思うと、結人が出て行ったまま帰って来ないんじゃないかと不安になっていたかもしれません」  確かに、昨日の結人の様子だとそうなっていてもおかしくなかった気はする。 「でも、彼は帰るつもりはきちんとあったと思うんです。僕はただ、彼の話を聞いてほんの少し背中を押しただけですよ」 「それが本当にありがたかったです。ありがとうございました」  深々と頭を下げ、釣られるように結人も頭を下げる。 「いや、そんな大丈夫ですから」 「はい。ありがとうございます」  顔を上げた時には彼女はもうすっきりした笑顔だった。 「あとは、二人でよく話します」 「二人じゃなくて、陽人もだろ」  すかさず隣から結人が声をはさみ「……そうね」と咲千は彼を見て苦笑する。ああ、本当に家族なんだな、と当たり前のことだが友晴は思った。話している様子もだが、なにせ二人の横顔があまりにそっくりだったから。 「友晴さん、何笑ってるんですか?」 「こらっ、失礼なこと言わないの」  結人の言葉にぎくっとしていたら咲千が叱ってくれた。まあ、叱るほどのことでもないのだが。 「だって、なんか今まで見たことない顔するから」 「今までって、あなたそんなに付き合い長くないでしょう?」 「そうだけど、なんか……」  ちらっと友晴を見て結人が唇を尖らせる。 「そんなたいしたことじゃないよ。微笑ましいなって見てただけ」 「そう?」 「そうそう」  本当はちょっと違うが間違いではない。息子と友晴とのやりとりを見て、咲千もふふっと微笑んだ。 「結人、本当に友晴さんのこと慕ってるのね」 「そうだよ」  咲千の言葉と、真顔で返す結人の言葉と、二人がふっと微笑む様にどきりとした。 「ほら、またその顔っ」 「結人っ、失礼でしょうがっ」  同じやりとりを繰り返して「大丈夫ですから」と言ってから友晴は帰ることにした。 「じゃ、またお店で」 「はい、待ってます!」  結人の隣で咲千がまた深々と頭を下げる。友晴も軽く頭を下げ、その場を去った。  もとから心配はしていなかったが、きっと二人――いや、陽人も含めれば三人は大丈夫だろう。温かい家族の姿を見られてほっとしたのと同時にこれから静かな我が家に帰ることがとても寂しく感じた。  帰宅して家事を済ませてからクロを腹に乗せぼんやりとしていると、スマートフォンがピロリンと鳴り結人からメッセージが届いた。  ――『友晴さん、今から電話していいですか?』  ――『いいよ』  すぐに電話がかかってきた。 『友晴さん、いきなりすみません』 「いいよ。クロとごろごろしてただけだし」 『いいなあ、俺もまたクロとごろごろしたい』  いいよ、と言いかけて「ん」と肯定とも否定とも取れる返事だけにした。そんなに当たり前のように結人が来ることになったら、いろいろと困る。 「お母さんと話したの?」 『話しました。それで、友晴さんにも話しておこうと思って――というか俺が聞いてほしくて』 「いいよ」 『ありがとうございます』 「うん、それで?」 『――あれからまたお互いに謝って、いろいろ話しました。母さんも事前にきちんと話しておくべきだったって反省していたし、もう少し早く相談していればよかったとも言ってました。そしたら俺もあそこまで怒って頭ごなしに反抗しなかっただろうって』 「ん、そうだね」 『あと、実は陽人は再婚予定の相手と会ったことがあったらしいんです』 「えっそうなの」 『はい。母さんと陽人が二人で出かけた時に会ってたらしくて、でもその時陽人には “お母さんと仲良しな人 ”って紹介したそうで。陽人はふうん、って思う程度だったらしいんですけど、そんなら俺にも言ってくれって感じじゃないですか』 「まあ、そうだね」 『俺だけ仲間外れかよって思って……でも母さんは話さなきゃ話さなきゃと思ってるうちに仕事が立て込んで、俺もバイト始めて、結局話せずじまいになったらしいんです』 「それは、なんというか……うん、でも結人くんとしてはそれでも話してほしかったよね」 『うん……まあ、俺がバイト入れたの、母さんと顔合わせるのが最近気まずくてってのもあったので、俺のせいでもあるんですけど』 「そうか……」  そうだ、彼の顔を見て母親が切なそうな顔をするって言っていたな。 『まあ、最終的には、俺も母さんが幸せならそれでいいんで、今まで通り俺も一緒に暮らしてもいいならいいよ、って言ったんですけど』 「けど……?」  まさか、と思って聞くと結人は『それはだめだって』と声を低くする。 「理由は聞いた?」 『はい。その理由っていうのが、全然想像もしてなかったことで』 「うん」  しばらく沈黙が続き、結人は友晴も想像をしなかったようなことを告げた。 『母さん、できちゃったんだって』 「え?」 『もう、今の人とは仕事繋がりで二年ぐらい付き合ってて、妊娠してるんだって』 「……そう、かあ」  なんともコメントしづらい話だ。とりあえず結人の話を聞くことにした。 『母さんは、俺が家のことも陽人のこともほとんどやってるのに付き合うなんてって最初断ったらしくて、でも、相手の人は真剣に結婚を考えていて、在宅勤務だから母のことも俺達のことも支えられるから付き合おうって言われたそうなんです』 「それは、その人もかなり君のお母さんのことが好きなんだね」 『ははっ、まあそうですよね。バツイチ子持ちなのに、母さんにベタ惚れらしくて。母さんも最後には折れて、でも、本当に再婚できるか判断できないから、ずっと俺達にも黙って付き合ってきたみたいで』 「ははあ……まあ、お母さんとしても複雑だっただろうね」 『はい。で、今年に入ってプロポーズされたらしくて、腹を決めたところで妊娠もわかって。そんな、妊娠するぐらい好きになってんのかよって俺ももうなんか呆れて……再婚する気満々じゃねーかよって。母さんは自分も迂闊だったって言ったんですけど、あのしっかりものの母さんがそんなに絆されて好きになった相手ならもういいかなって思ったんです』 「そうか」  結人の声は徐々に穏やかになっていった。ちゃんと納得できたのか、と思っていたら「でも」とまた結人は声を荒げる。 『だったら俺も一緒に暮らした方がいいじゃないかって思うじゃないですか?』 「え、ああ、そうかな?」 『そうですよ。だって相手が在宅勤務って言っても母さん産休に入るわけで、赤ちゃんできたら育児もあるし、俺も支えたいって言ったのに、母さん “それはだめだ ”って聞いてくれなくて』  ああ、そういうことか。 『君のお母さんは、君のことが本当に大事なんだね』  たまらず結論から言葉に出すと結人は『なんでわかるの』と苦笑した。 「だって、君が家にいたら、絶対なんでも君がやろうとするだろう?新しいお父さんがたとえ手伝ってくれようとしても、頑張ってしまうのはわかりきってる。君はもうじき大学生だ。それなら家から出すことで君の負担をなくしたい、って思ったんだよね」 『……その通りです。友晴さんにはかなわないな』  大人だなあ、と結人はため息まじりに呟くが、友晴がわかったのは母親にはかなわずとも、結人の幸せを心から願うからだ。 『母さんもしっかり仕事を休んで、育児だけに専念するから大丈夫だって。今まで俺が頑張った分、これからは自分のために精一杯生きてほしいって。それが母さんの願いだって言われました。俺を邪険にしているわけじゃくて、ただ、俺に自由に生きてほしいだけだって』 「優しいね」 『そうだと思います。母さんが優しいのなんて最初からわかってた。でも、俺は母さんがずっと俺の本当の父親のことを気にしているんだって引き摺って、自分のせいだって責めて、もしかしたらそういうのも伝わってたのかもしれないなって思いました』 「うん」 『だから、俺ももう気にしないことにしたんです……と言っても、今すぐゼロにってのは無理ですけど』 「そりゃそうだよ。それに気にしなくなっても、忘れることってなかなかできないと思うし、無理に忘れようとしなくてもいいと思う」 『……そうかな?』 「だって、君にとって、すべてが悪い思い出じゃないんだろう?」  これは本当に憶測だったが、結人から両親が離婚する以前のことで悲しみやつらさを思わせるような言葉は一度もなかったから。  想像通り、結人は『ほんと、かなわないな』と笑った。 『俺、子どもの頃、ちゃんと幸せでした。女みたいだって言われたことは嫌だったけど、両親にはちゃんと大事にされていたと思います』 「うん」 『本当なら、何も知らずにずっとあのままでいたかった』 「うん」 『でも、そういうわけにはいかないから』 「うん」  友晴に伝えるというより自分に言い聞かせるように結人は続ける。 『新しい家族と、幸せになれたらなって思います』 「そうだね」  もう結人の中で迷いはなくなっている。過去のこともこれからの未来のことも、すこしずつ彼の中で整理していって、彼の人生を考えていくのだろう。 『友晴さん』 「ん?」 『友晴さんのおかげです』 「僕?僕は何もしてないよ」 『そんなことない。友晴さんがいてくれたから、俺は母さんともちゃんと話ができた。一人だったら目を背けてしまったようなことも、友晴さんがいたからこうやって受け入れて、ちゃんと自分のことを考えようって思えたんです』 「……それは、君が頑張ったんだよ」  真剣な言葉の一つひとつが心の中に染みこんでふわ、ふわっと灯りを燈す。結人の言葉は夕闇の中で夜道を照らす月のように優しくて、春の晴れた日にぽかぽかと照る太陽のように温かい。 『ありがとう、友晴さん』 「……うん。君の力になれたなら、嬉しいよ」  君が考えるこれからの人生に、すこしでも自分がいればいいのに。僕がそんな風に考えてしまうことを君は知らないだろう。  でも、いいんだ。それでいい。 「これからは、自分のために何がしたいか考えて、幸せになるんだよ」 『はい。俺、やっぱり専門学校に行って、キッチン・小森を継ぎたいです。じいちゃんも、ばあちゃんも、あの店も大好きだから』 「うん。頑張れ」 『はい!友晴さんにおいしいって言ってもらえるように、がんばりますね』 「うん」  好きという感情はあふれだしたら止まらない。止める方法なんてあるんだろうか?あるなら誰か教えてほしい。  この気持ちを抱えたまま、君のそばにいるのは、正直僕にはもうつらいかもしれない。  数時間前に別れたばかりなのに、彼の笑顔が恋しくて、会いたくて今すぐ “会いたい ”と言いそうになるのを必死にこらえた。 『それじゃ、友晴さん、またね』 「ん、またね」  またね。あと何度君にその言葉を伝えられるだろうか。  電話が切れてもしばらく受話器を耳に当てたまま離せなかった。  
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