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 またね、と言ったのに翌週水曜日友晴が仕事の後訪れたのはキッチン・小森ではなかった。  通勤中ちょうど乗り継ぎで降りる駅の近くにその店はある。こじんまりとしたところだが、常連もいて夜遅い時間は必ず客が三、四人はいる。居酒屋よりはバーといった雰囲気だが、“お酒も出るご飯やさんですよ ”、と店長は言っている。 「あれ、珍しいですね」 「お久しぶりです、柚井(ゆい)くん」  店長の柚井はグラスを磨く手を止めてにこりと微笑んだ。オープンの時間から間もないこともあり、店にはまだ誰もおらず、友晴はカウンター席に座ることにした。 「何になさいますか?」 「ティフィンミルクを」 「かしこまりました。少々お待ちください」  いつもと同じものを頼み、ふう、と一息つく。すぐにグラスは出てきて柚井は「どうかしましたか?」と首を傾げた。  柚井は独特の雰囲気がある青年だ。二十代の頃にこの店を始めてからずっと一人で経営しているらしいが、生まれや育ちなどの話は聞いたことがない。別に友晴もそれを知ろうとは思わないし、ここへはどちらかと言えば彼に話を聞いてもらうために来ている。 「やっぱり、柚井くんには隠しておけないな」 「隠してるつもりだったんですか?友晴さん、結構顔に出ると思いますけど」 「そうかな?」  はい、とにっこり微笑まれてどきりとする。彼の言葉はまっすぐで、だからこそ初めて会った時からいろいろな話をしてしまった。  この店のことを知ったのは大学の友人の紹介だった。友晴はゲイだということを隠して生活していたが、三年の半ば同じ講義をとっていた一人の男が隣に腰かけた時『白崎くんってゲイだよね』とメモを見せてきた。誰にも言ったことがない秘密がどうしてバレてしまったのかと当時とても焦ったが、彼は『俺もゲイだから』とメモの続きに書いて笑った。初めは不信感もあったが、彼も不思議な人で、友晴がゲイだとわかったのも「見てればわかるよ」と呆気なく言ってみせ「大丈夫、俺もネコだから友達になろう」とさらっと言った。話をしてみると彼にはきちんと恋人もいて、恋人について話す相手がほしかったのだと教えてくれた。  彼の明るさもあって、友晴は初めてゲイの友人ができた。友人と言ってもたまに外で待ち合わせて、食事をしながら彼の恋人について聞くのが主で、友晴自身のことはまだ癒えきらない傷をほんの少し共有する程度だった。なにせまだ高校生の時のことは自分自身整理できてもいなかったし、家にもほとんど連絡を入れていない時だったから、彼にどこまで話していいのか判断がつかなかった。彼を信用していなかった訳ではないが、そこそこ拗らせていたのだと今ならわかる。  そして、十年ほど前、友人に柚井の店を紹介された。  柚井の店はゲイバーではない。でも、彼は自分がゲイだということを公言しており、昔からずっと片想いをしている相手がいるのだということは店に来る常連は皆知っていた。柚井は話を聞くのが上手で、店に来る客は別にゲイではなくても彼に話を聞いてほしいという人が多かった。  大学時代の友人は、恋人とともに地方に移るから、自分が友晴の話を聞けない分、柚井に聞いてもらったらいい、と言った。  柚井とはすぐに打ち解けた。報われない恋を経験しているものどうし話が合うことが多く、彼に話を聞いてもらうことで自分の中に溜まり込んでいた感情をある程度昇華することができた。 「お兄さんの子どもが産まれた時以来ですよね」 「えっ、もうそんなに来てなかったかな」 「はい。もう来てくれないのかな?って思ってました」 「それは、なんだかすみません」 「いえいえ。俺のところに来ないってことは、穏やかに生活できているんだろうなって思っていたので」 「……そうだね」  初めて会った頃はあらゆる悩みがあり、頻繁に通っていた。兄の結婚式の前にもどうしようと相談していたのだが、確かにここ数年は心穏やかに過ごしており、それに加えてキッチン・小森に頻繁に通うようになったので、いつしか柚井の店へは足が遠のいていた。 「友晴さん、何か食べます?」 「あ、うん。じゃあ、トマトサラダと、焼きおにぎり」 「かしこまりました」  柚井の店のメニューには和食も洋食もある。単純に彼が好きなものや客にこれが欲しいと言われたものをメニューに足して作っているらしい。そのどれもおいしいということを久々に思い出した。  柚井は手を動かしながら「それで?」と友晴に言葉を促す。 「今までは心穏やかだったのが、今日は違うんですか?」 「……まあ、そうだね」 「新しい恋をしたとか」  ずばり、すぐに当ててくるところが柚井らしい。 「なんでわかるの?」 「ん?そんなの友晴さんが恋してますって顔してるから」 「うっ、そうかな……」 「そうですよ」  はい、トマトサラダ、と目の前にサラダを置かれる。  柚井は焼きおにぎりを焼きながら「恋している人の顔はわかりやすいです」と微笑む。 「そんなに?」 「はい。特にここに来る人は、そういう話をしたいって人が多いから。あ、今めちゃくちゃ好きでしかたがないんだなってわかります」 「……僕もそういう顔、してるかな」 「してますね」  直球だ。恥ずかしくなって手で顔を覆ったが、柚井は気にせず「まあ、みんなそうですから」と笑う。それから、 「でも、友晴さんは新しい恋を見つけて幸せいっぱいって雰囲気ではないですよね」と苦笑する。 「なんでわかるかな」 「勘ですよ。いろいろな人を見てきたから」 「そうか……」 「それから、俺と同じような顔してるから、かな」 「……そうだね」  ずっと片想いをしている柚井にしかわからない友晴の気持ち。  ほどなくして焼きおにぎりが出てきて、箸でつつきながら「あのね」とゆっくり話し始めた。 「絶対好きになってはいけない相手を好きになってしまったんだ」 「絶対って、既婚者とか?」 「違うよ。そっちじゃなくて、年齢の話。彼、まだ十八なんだ」 「十八……!それはまたすごく年下を好きになったんですね。友晴さんって三十代後半ですよね?」 「そう、今年で三十八。彼と僕とでは親子ほど離れているんだ」 「はあ……確かにそれは、なんというか、複雑ですね」 「だろう?相手は未成年だし、それに、彼はいろいろ他にも抱えているものが多くて」 「そうなんだ」 「うん。それで、決定的に無理だなって思ったのは、彼の両親が離婚していて、離婚した原因も父親がゲイだったってことなんだ」 「それは……なんというか、彼は父親のことが嫌いなんですか?」 「嫌い、というか……父親がゲイだから自分達は捨てられたって思ってる」 「そう、か……」 「望みがないだろう。自分でも思ったよ。なんで好きになったんだろうって。でも彼の父親がゲイだったって知った時にはもう彼のことが好きだった。でも、彼は僕を父親みたいに慕ってくるんだ。優しくて、あったかくて、彼の隣はとても居心地がいいけど、でも、このままでいいのかなって」  サラダをつつきながら、はあ、とついため息がもれる。柚井は静かに頷いて「つらいですね」と友晴の気持ちを肯定してくれた。 「でも、すごく慕われてるなら、ちょっとは望みはないのかな」 「ないよ。たとえ一億分の一の確率であったとしても、そんなのだめだよ」 「……なんで?」 「なんでって……」  柚井はカウンターの中から真っ直ぐ見つめ返してくる。その瞳はどこか結人に似ているものがあった。先程は肯定してくれたのに、なんで、と思いながら友晴は言葉を続ける。 「だって、こんな四十も近いおじさんが、息子みたいな子を好きになって、いいはずがないだろう。それに、ご両親が離婚した原因のこともあるし、彼の家族だってきっと悲しむ」 「……友晴さんは、家族のこと、傷つけたって言ってましたもんね」  過去の記憶をたぐりよせ、悲しみに寄り添ってくれる。それから柚井は「でもね」と言った。 「彼から離れようって思っているなら、やめておいた方がいいですよ」 「……なんで」  きっとそうなるだろう、と思うことを言い当てられ動揺したが、柚井は「だって」と切なげな瞳で問いかける。 「友晴さん、きっとまた後悔するでしょう?」 「っ……」  こんなはずじゃなかった。そうやって後悔したことが友晴の人生の中には何度もあった。結人のこともいつかきっとそうなってしまうのではないかという不安もずっとあった。 「でも、このままそばにいるのももうつらいんだ」 「……うん、うん。そうですよね」 「僕はどうしたらいいんだろう……親のように慕ってくれる彼を裏切りたくない。でも、そばにいすぎたら、自分の心と体が引き裂かれるような気がするんだ」 「友晴さん……」  グラスを握りしめているうちに、いつの間にか中の氷はすっかり溶けてしまっている。柚井はカウンターの中からそっと手を差し出すと、グラスを持った友晴の手の甲にそっと手を添えた。 「今すぐ、答えを出す必要はないと思います。簡単には出せないとも思います。でも、これは俺の勝手なわがままで申し訳ないんですけど……」 「……なに?」  顔を上げると、柚井の真剣な表情がそこにあった。 「離れる時は、ちゃんと別れの言葉を言ってあげてもらえませんか」 「別れの言葉……?」 「はい。俺には片想いの相手がいるって言いましたよね」 「そうだね」 「俺、その相手が気づいたら自分の前からいなくなってて、別れの言葉ももらえなかったんです。別に亡くなったとかそういうんじゃないけど、そのまま手の届かない人になってしまって、俺の気持ちはずっとひとりぼっちなんです」 「……柚井くん」  彼の片想いの相手について詳しく知る者はいないし、友晴も今まできちんと話を聞いたことはなかった。でも、彼が相手に抱える想いがどんなに強いものなのか痛い程伝わってきた。 「わかった。黙って消えたりしない」 「ありがとうございます」  ほっとしたように微笑み、柚井は手を離した。 「まあ、すごく近所に住んでるから、引っ越しでもしない限りどこかで会ってしまう気はするよ」 「そうなんですか」 「うん。だから、少し距離を置くぐらいならいいかなって」 「……そう、ですね」  何も永遠の別れにしようというわけではない。ただ、ほんのすこし距離をとるだけ。本当に離れる時はきちんとさよならの言葉を告げる。僕にそんなことができるだろうか。不安はぬぐいされなかったが、柚井にも自分にも言い聞かせるように「大丈夫」と友晴は声に出した。 「ありがとう、聞いてくれて」 「いえ、またいつでも聞きますから」 「……うん」  大丈夫。ほんのすこし距離を置くだけ。そばにいるつらさを置いて、そばにいる温かさを失うだけ。  皿の上にほとんど置いたままにしていた焼きおにぎりは、わずかに固くなってしまったが、それでも口の中に入れると甘じょっぱさが広がってとてもおいしかった。それなのに、今は無性にキッチン・小森のオムライスが食べたかった。  週末の日曜日も、翌週の水曜日も、友晴はキッチン・小森には行かなかった。土曜は買い物も少し遠出をして、いつもは見ない映画を見たり、図書館に行ってみたりして、夕飯はいろいろな店に入ってみた。オムライスがおいしいところ、パスタがおいしいところ、いろいろあったが、つい結人との記憶にちなんだものを選んでしまい、どうしようもないな、と苦笑した。  日曜日の夕方、予想はしていたが、クロを抱えて読書をしていると、結人からメッセージが届いた。  ――『友晴さん、お久しぶりです。最近店に来てないみたいですけど、忙しいんですか?』  ――『んー、そうだね。仕事が立て込んでて、家にも持ち帰ってるから』  ――『そうなんですか……。ちゃんと食事とってますか?』  ――『それは大丈夫。きちんと週一回は作り置きを作るようにしているし、野菜もきちんととるようにしてる』  ――『そうなんですね。友晴さん、ちゃんと自炊するんだって言ってましたもんね』  ――『うん、だから、もうしばらくお店には行けないかも』  返事を送ると、スタンプが送られてきた。白い犬がしょぼんと耳を垂れさせている。  ――『わかりました。また、落ち着いたら来てくださいね。プリンも作りますから』  ――『うん、ありがとう。それじゃ』  白い犬がバイバイと手を振る。それを見つめて罪悪感でいっぱいになった。  嘘をついてしまった。今は別に仕事が立て込むような時期ではない。むしろ忙しい時は今までならキッチン・小森に向かい、空腹と心を満たしていた。ほんのすこし、と思っていたのに、結局はっきりと距離を置いてしまっている。  ほんのすこし、の具合がわからない。境界が曖昧なまま、こうしてすこしずつ、すこしずつ、彼との距離は遠く離れて、いつか別れの言葉が言えるだろうか。きっと結人は別れの言葉を伝えても伝えなくても悲しむだろう。それがわかるから、どう接していいのか、彼に近づいていいのか、わからないままでいる。  ふとリビングの棚の上を見ると、結人にもらったコロンの箱が目に入った。そういえば結局まだ箱を開けてもいなかった。クロをお腹からおろし、箱を取ってからもう一度座って開けてみた。蓋を開けた瞬間、ラベンダーの優しい香りがふわっと香り、彼と出かけたあの日のことを思い出させた。  手紙に書かれていた、これをつけてキッチン・小森に行くことはいまだにできていない。彼はこのラベンダーの香りが友晴に似合うと言ってくれたが、本当に似合うだろうか、と照れ臭かったのもあるし使ってしまうのがもったいないという思いもあった。  コロンの瓶は掌に収まる小さなもので、蓋はラベンダーの花の形のようになっている。シュッとひと拭きだけ手首に噴きかけてみると、あの日の記憶がもっと色濃くなった。  会いたい。そう思うのに会いに行くことができない。さよならを言う勇気もない。 「僕はいったいどうすればいいんだろう……」  その時、ピンポン、と玄関のチャイムの音が鳴った。配達だろうかとドアを開けると、そこに立っていたのは結人だった。 「……どうしたの」 「こんばんは。バイトさっき終わったんですけど、ちょっとでも顔が見たくて、来ちゃいました」 「……そんな」  へへっと結人は無邪気に笑う。以前の友晴であれば、とりあえず中へと促していたが、ためらいがちに「まだ、仕事があるんだ」と告げると結人は「そうなんですか」とあの白い犬のようにしょんぼりした。 「でも、仕事だったらしょうがないですよね」 「うん、ごめん」  また嘘をついてしまった。 「あ、じゃあ、友晴さん、せめてこれだけもらって」 「え……」  彼が差し出したのは、以前にももらった透明な包みに赤いリボンが巻かれた焼きプリンだった。 「友晴さんにはいくらお礼をしてもし足りないから、ちょっとずつ返していけたらなって思って」 「結人くん……」  はい、と包みを差し出される。でも、友晴は受け取らなかった。 「友晴さん……?」 「もらえない」 「え……?」 「僕だって、君からもう十分いろいろもらったよ」 「そんなことないですよ」 「あるよ。君はいっぱいくれた。僕には十分すぎるぐらいだ」 「そんな、でもプリン一個だし」 「いいんだ」  結人の笑顔が少しずつ曇っていく。それを見るのもつらかったが、友晴はもう今しかないと口に出した。 「もう、家にも来ないでほしい」 「なんで」 「だって、君と僕とはおじいさんの店の孫と客って、ただそれだけじゃないか」 「友晴さん、なんでそんなこと言うの?」 「そんなこと?……僕は、この前のこともあって、君に近づきすぎたのかなって思ったんだ。家族でもないのに君の家庭の事情にまで踏み込んで、何をしているんだろうなって思った」 「それは、俺も母さんも感謝してるし、家族でもないのに、なんて誰も思ってないよ」  徐々に結人の声も焦りを帯びて、必死にすがりつくように言葉を繋げる。 「むしろ、俺の方が友晴さんに甘えすぎてたなって思うよ。友晴さんの生活もあるのに、俺のことばっかり面倒見させて、悪かったなって思ってる。でも、もう店でしか会えないの?」 「それが普通だろう」 「友晴さんの言う普通ってなに?俺が友晴さんの家に来るのなんて、母さんも知ってるし、もう全然普通のことだよ?」 「普通じゃないんだよっ」 「っ」  つい声を荒げてしまい、結人がびくっと肩を揺らす。 「僕は、少なくとも普通じゃなかったと思う。君が本当につらそうだったから、放っておけなくて……でもあれは一回きりのことだ。もう大丈夫だよ。君には君の家族がいるじゃないか」 「それはそうだけど、家族と友晴さんは違うよ」 「そう、違うんだよ。だから、もうここへは来ないでほしい」 「っ……なんでそうなるんだよ!」 「――っ」  不意に結人が距離を縮め、体を押されるまま部屋の中に入り、ドアがバタン、と音を立てて閉まった。後ずさり、部屋の中に一歩下がるとまた一歩結人が近づいてくる。だめだ、こんなのだめだ。わかっているのに、結人が空いた左手で友晴の右手首を掴んで離さない。 「違うってなに?そんなの違うに決まってんじゃん。友晴さんは俺の家族とは違う。家族じゃないけど、家族と同じぐらい大事だよ」 「っ……」  掴まれた手首にぎゅっと力が籠められる。身も心も痛いほどの強い想い。押し流される。 「俺は、友晴さんも俺と一緒だと思ってた。他には替えが効かない、誰とも違う大事な存在だって。だから、あんなに優しくしてくれたんじゃないの?違うの……?」 「……違わない……から、困るんだろ」 「え」  もうだめだ、と思った。あんなにしっかり蓋をして、心の奥にしまっておこうと決めていたのに。すこしずつ、すこしずつ、距離を置こうって決めたのに。 「そうだよ。同じだよっ。君が想ってくれているように、僕だって君のことが大事だ。家族とは違うけど、誰とも違う大事な存在だって思ってるよ……でもっ――……違うんだよ」 「友晴さん……?」  俯いて合わせられなかった視線を上げて、彼の顔を真っ直ぐに見た。同じだ、と言われて嬉しそうな顔、それなのに、友晴の言葉で不安げに揺れる瞳。こんな表情、見たくなかった。 「僕は、君が好きなんだ」 「え……?」  もとから大きな瞳がもっと大きく見開かれ、長い睫毛が驚きに震えている。 「家族の間の感情じゃない。君を友人だなんて思ったこともない。最初は歳の離れた可愛い弟ぐらいの気持ちでいた。でも、もう違うんだ……僕のそれは、君には絶対に抱いてはいけない感情なんだよ」 「友晴さん」 「えっ――」  唐突に視界を遮られ、気づいた時には彼の腕の中にいた。彼がこの前母親にしたのとは全然違う。締め付けるような強い抱擁に頭の中が真っ白になった。 「俺も友晴さんが好きです」 「っ……」 「友晴さんと、同じ、一緒なんです。俺も、あなたを友達なんて思ったことは一度もない。家族のように感じていた時もあったけど、そんなの一瞬でした。友晴さんが好きなんですっ」 「君は、何を言って……」  動揺していた。どくんっ、どくんっと心臓が早鐘のように鳴り続けていたが、それは友晴のものだけではなく、結人のものもだった。 「友晴さんの好きって、そういう好きですよね?恋愛感情の、好き、でしょう?」 「……」  ぎゅうぎゅうに抱きしめていた体を離し、結人は近距離でじっと目を見つめて問いかけてくる。逃がしてはくれない。でも、答えられない。 「放してくれ」 「えっ」 「放せって言ってるんだっ……!」 「友晴さんっ……!」  思いっきり力を込めて結人の体を押し返し、距離をとった。結人が呆然とこちらを見返してくる。でも、ちゃんと言葉で伝えるしかない。 「君は、何を考えているんだ」 「何って……友晴さんのことが好きだって」 「そういうことじゃないっ」 「え」 「君は……自分が何を言っているのか、君の言葉で何が変わるのか、全然わかっていない」 「どういうこと……?」  彼にもう隠し事はできない。すべて話そう。決意して、口を開いた。 「同性を好きになるってことが、どんなことなのか、君はわかっていないだろう……。僕は、自分がゲイだということで母親を泣かせた。幼い頃から優しくしてくれた兄を傷つけた。父親に “悪かった ”って頭を下げて謝らせた。そういう人間なんだ。男を好きになった、たったそれだけのことなのに、大好きな家族を壊したんだ。僕が男を好きになることで、家族は一生その傷を負って生きていくんだよ。君に、そのつらさがわかるか……?」 「そんな……」 「君のお母さんは、僕のことを信頼してくれている。君が世界で一番大事だと言った彼女を、僕に裏切らせるのか……?君が僕のような父親ほども歳の離れた男を好きだと言って、お母さんがなんて思うか考えたことがあるのか?……何より、君はお父さんがゲイで、家族を捨てたって言ったじゃないか。お母さんも君も傷ついたんだろう……?君まで男が好きだって知ったら、お母さんはなんて思うか考えなかったのか」  結人は友晴を見つめたまま、じっとその場に固まり、動かなくなってしまった。それが答えだ。 「男を好きになるということが、どれだけ大変なことなのか、どれだけの人を傷つけることになるのか、何度自分が傷つくことになるのか、後悔することになるのか、よく考えなさい。僕は、もう十分すぎるほど家族を傷つけたし、自分も傷ついたし、何度もこんなはずじゃなかったって後悔したよ。もう十分なんだ。いくら君が僕を好きでいてくれようとも、僕はそれに答えられない。君のことが好きだなんて、先に言ってしまった僕が悪かった。本当にすまない。消せるものなら君の記憶を消したいよ」  涙があふれ出そうになったが、なんとかこらえた。  結人はあいかわらずじっと友晴を見つめ、それからぽつりと「いやだ」と言った。 「やだ……消せないよ。俺はもう知ってる。友晴さんが俺のことを好きだってことも、俺を傷つけたくないって思ってくれてることも、母さんを傷つけたくないって思ってくれてることも、全部、ぜんぶ知ってるんだ。忘れられるはずがない。今までのことだって、絶対一生忘れたくないよ」  ぼろっと彼の瞳から大粒の涙があふれて頬を滑り落ちる。ああ、彼を傷つけてしまったんだと思ったが、もう遅い。自分はまた、こんなはずじゃなかったと、後悔する。 「今は、お互いに冷静じゃないから、とにかく帰りなさい」 「い、やだっ」 「だめだっ、帰るんだ」 「いやだっ」  抵抗する結人の体を押して無理やりドアの外へ押し出した。 「やだっ!友晴さん!やだよっ」 「わがままを言うなっ」 「っ……」  涙で濡れた顔を最後に目に焼き付けて、ドアを閉めた。それでもドアの外から結人が「友晴さんっ」と叫んでいる。 「近所迷惑になるからっ」 「っ……うっ、……ふっ……ううっ、友晴さん……」  泣いている姿は、幼い子どものようだった。純粋であどけなくて、大人になる直前の大きな子ども。  どんなに泣かれても友晴はドアを開けなかった。  それからどれぐらいの時間が立ったのか、がたん、と何か音がして、立ち去っていく足音がした。  しばらくじっとその場で立ちつくし、ドアののぞき穴から外を見てみるともうそこには結人の姿はなかった。おそるおそるドアを開けてみると、ドアノブに紙袋がかかっている。 「これは……」  紙袋の中身は結人があげると言って聞かなかったプリンだ。紙袋の中にはプリンだけではなく、ノートの切れ端のようなものが入っていた。ドアを閉め確認してみると、そこには殴り書きで結人の字が書いてあった。  ――『友晴さん、友晴さんがなんと言おうと俺は友晴さんが好きです。絶対、また会いに来ます 結人』 「っ……」  どうして、なんで。あんなに突き放して、傷つけて。放りだしたというのに。 「なんで、君はそんなに強いんだっ……」  玄関先に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。ノートの切れ端は結人の涙で湿っていて、文字も滲んでしまっている。そこまでして、好きという言葉を彼はなんのためらいもなく告げてくる。  傷つくと言った。後悔すると言った。それなのに。  どうして君は、こんな僕を好きだと言ってくれるんだ。  ノートの切れ端は、掌の中でにぎりしめてぐしゃぐしゃになってしまった。友晴の心の中もぐしゃぐしゃに押しつぶされて、消えない滲みがじんわりと、でも確かに心を染めていく。  こんなはずじゃなかったのに。結人のくれた二文字が頭の中を離れない。
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