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 四十年近く生きてきて、こんなはずじゃなかったのにと何かを悔いたことを数えればきりがない。そして未だに悔いていることについては自分以上にきっと友晴の家族の方が何度もなんども悔いて、傷ついて、悲しんでいることを知っている。  自分が普通でないことをぼんやりと自覚したのは小学六年の時だった。  中学入学を控え同級生たちがそわそわとし始めた頃のことだ。学校の帰り道友人と二人きりになった時、あのさ、と彼は話し始めた。 「オレ、今好きな子がいるんだけど」 「へえ、そうなんだ」 「好きって、そういう好きだからな」  友晴の反応にちゃんとわかっているのか、という視線を向けられたので、「わかってるよ」と苦笑した。 「どんな子?」 「今、委員会が同じなんだよ。だから、よく話すし、たまに二人で帰ったりしてる」 「知らなかった」 「今初めて言った」 「そっか」  彼の横顔はいつになく緊張していた。話を聞いていくとどうやらその女子に卒業する前に告白しようと思っているらしかった。別に友晴に何かアドバイスをしてほしいとか、女の子の気持ちを探ってほしいとか、そういう意味での話ではない。 「ただ、トモに聞いてほしくて」 「僕でよかったの?」 「トモだから話してんだよ」 「へえ、そっか」  それは自分が特別だと言われているのと同じで正直とても嬉しかった。でも、嬉しいのといっしょになんだか無性にさみしくなった。 「告白なんか初めてするから、どきどきしてんだ」  ほんのり頬を赤くして、彼ははにかんだ。そして、照れくささと緊張を紛らわすように、友晴に聞いたのだ。 「トモは、誰か好きな子、いる?」  問われてみるまで友晴は自分にそういう感情があるのか考えたことがなかった。まだ彼と話している時間の方が楽しかったし、どちらかといえば内向的な方で勉強が好きと言っては変わっているなと友人に笑われることがあった。  だから、素直に自分が思っているまま口にした。 「わかんない、かな」 「わかんない?誰も好きになったことがないってこと?」 「……たぶん、そう」  そうかあ、と彼はまた笑った。別にからかうわけではなく、単純に友晴はまだなのだな、と思っているようだった。だからこそ好奇心がわいたのかもしれない。 「じゃあさ、この子は特別だな、とか、ずっと一緒にいたいな、とかそんな感じに思う子、いない?」 「え?」  無邪気に問うてくる彼は、友晴にとって親友と呼んでもいい程の仲で、だからこそ初めて告白しようという彼の緊張をすこしでもやわらげてあげられればと思った、それだけだった。 「ぼくは、ヒロくんとは、ずっと一緒にいたいよ」 「……え?」  きょとん、と彼は友晴を見返し、ぶはっと噴き出した。 「違うって!それは友達としてだろ?オレが聞いてんのは、友達以上に特別な子って意味だよ」 「え……?あ、ああ、そうか。……そうだね」  ぼくは、と言いかけて、ぎりぎりのところで踏みとどまった。今、自分が言おうとしていることで、彼の笑顔が消えてしまう気がしたからだ。 「ごめん、やっぱりまだわかんないや」 「ん、いいって!オレも無理に聞こうとして、ごめんな」 「んーん、いいんだ。ヒロくんは頑張ってね」 「おおっ!」  彼は何事もなかったかのように無邪気に笑っていた。でも、友晴はその時気づいてしまった。自分はもしかしたら彼が女の子に抱くようなものを、彼に対して抱いてしまっているのではないか、ということ。  親友だからずっと一緒にいたいと思っていた。でも、彼以上に特別だと思う人などその時の友晴にはいなかった。中学生になって、高校生になって、その先もずっと一緒にいられるものだと思っていた。でも、そうじゃないかもしれない。そう考えた時、今まで感じたこともない寂しさが心の中からあふれ出しそうだった。  ずっと一緒にいられるよね。きっと、この話をする前であれば、親友としてそう告げられたかもしれない。でも、これは普通ではないのかもしれないと思った時、口に出せなくなってしまった。  それでもまだ友晴は子どもだったので自分が普通ではないとは認めきれず中学生になってからも彼と友人関係を続けた。  そうして中学生になり、はっきりと自覚してしまった。 「この前、彼女と初めてキスしたんだけどさ」  昨日の夕飯ハンバーグだったんだけど、みたいな軽い調子で、彼は語り始めた。中学二年の夏。クラスはわかれていたけれど、昼食は屋上で一緒に食べていた。彼には小学生の時に告白した女の子とは別の恋人ができていた。 「そう、なんだ。それを僕に言ってどうするんだよ」 「いや、なんか誰かに話さないと落ち着かなくてさ」 「なんだそれ」  ははっ、と笑ったつもりだったが、上手に笑えていたかどうかはわからない。ただ、彼は気にせず彼女との仲について語りつづけ、友晴はふうん、とかへえ、とか適当に相槌を打っていた。そうでなければ、何か変なことを口走ってしまいそうだった。  彼と彼女の仲はあっという間に進展し、セックスをしたということまでぼんやりとではあるが聞かされた時、もうだめだ、と友晴は思った。 「オレさ、別れたんだ、彼女と」 「え……?」  三か月程経った頃、彼はあっさりと告げた。 「なんで?」 「なんでかなー、なんとなく?」 「なんとなく……」 「まあ、そういうことだから。トモともまた遊べる」  彼は無邪気に笑った。  別れたのだと聞かされて最初に思ったのは、よかった、ということだった。そして親友が彼女と別れてよかった、なんて思ってしまう自分が最低だ、と。  僕は、ヒロくんが好きなんだ。彼が誰より特別で、誰よりずっと一緒にいたい。そんなこと、本当は初めて告白しようと思っていると聞かされた小学生の時からわかっていた。でも、そうじゃないと信じようとしていた。でも、もう無理だった。  彼のことが好きだ。キスするなら彼女じゃなくて僕にしてほしかった。初めてセックスするのだって自分であってほしかった。彼の指に何度触れてほしいと思ったかわからない。  その時食べたサンドイッチの味はまったく憶えていない。初めてはっきりと自覚した己の感情を持て余し、放課後一緒に帰ろうと言う彼の誘いは断り急いで帰宅した。そして自分の中に燻る感情を押さえきれず自室のベッドに潜って自慰に耽った。  最低だ、と思いながら己を慰めている最中に思い浮かぶのは親友のちょっと骨ばった指先や焼きそばパンをおいしいと言って頬張った唇や歯や、シャツの隙間から見える鎖骨を流れていた汗、そして「トモ」と自分を優しく呼ぶ声だった。 「――ぁ、あっ、んんぅ、ヒロくん、ヒロくんっ……」  昂る性器を手のひらで包み夢中で擦って想い人の名を呼んだ。  それまで自分は淡泊な人間だと思っていた。勉強が好きで、色恋になどさして興味もなく自慰のしかたもろくにわからぬまま朝夢精していることもたびたびあった。性欲もそこまで強くもなくもしかしたら将来恋人ができたとしてもセックスなんてしたくないかもしれない、と思っていた。でも、そんなのとんだ思い違いだった。本当は好きな人のことを考えると何度射精しても止められないほど欲に飢えていて、挙句彼に抱かれたいと思っている。そんなにも夢中になって自分を慰めたことなどその時まで経験がなく、力尽きてから掌いっぱいに付いた精液を見て、自分に対する嫌悪感と後悔で涙が溢れた。  それからは、どうやって自分の感情と、自分が普通ではないことを隠そうかということに必死になり、勉強が疎かになって成績が落ち、両親にも二つ年上の兄にも心配された。友晴の両親は友晴が今までよく勉学に励んでいるのを知っていたので「今は調子が悪いだけ」と励ましてくれた。面倒見のいい高校生の兄は「勉強なら俺が教えてやるから心配するな」と度々声をかけてくれた。家族が優しい言葉をかけてくれるたび、自己嫌悪は増すばかりだった。自分が成績を落としている理由を知ったらどんなふうに思うだろうか。想像しただけでこわかった。  親友の彼との距離感もうまくつかめなくなっていった。近くにいすぎると自分の感情が表情や言動や行動に表れるような気がした。だから同じクラスの友人と食べるから、と昼休みも教室で過ごすようになり、帰宅時間は彼が部活動を終える前に帰った。それでも彼は友晴のことを気遣ってくれて、誕生日には今日ぐらいは、と誘われて一緒にファーストフード店に行った。距離を置いてから半年が経過し季節は冬にさしかかっていた。プレゼントにマフラーを渡された時は泣きそうになるのを必死にこらえ、ありがとう、となんとか口にした。  その後は受験勉強に集中するからと前にもまして距離を置き、落ちていた成績も受験を前にして元通りになった。  ただ、ひとつ問題だったのは自分で思っていた以上に自分の体がきちんと年齢相応の男子中学生として育っていたことだった。何度セックスしても止まらないと笑って話すクラスメイトほどではないにしても自慰をせずにすごすわけにはいかなくなった。  溜め込みすぎることが体によくないことは元々知っていたし、定期的に自慰をしないと親友が夢に出てきて夢精するというなんとも気まずい朝を迎えることになる。そうして人並みにするようにはなったものの、どんなに考えまいとしても最中浮かぶのは彼のことだった。友晴は友人が多い方ではなかった。というより、もともとあまり交友関係が広い方でもなかったのに、自分の性嗜好について自覚してから更に拍車がかかり、クラスメイトとはあたりさわりない関係を気づき、きちんと友人と呼べるのは彼一人になっていた。 このままではまずいと思いながら時が経ち受験を終え、卒業式を迎えていた。彼とは志望校が別だったので卒業式のあときちんと親友として別れを告げ、それきり連絡をとらなくなった。  高校入学後、このままではだめだ、と自分を叱咤し、両親や兄を安心させたいという思いもあり自分なりに交友関係を築くよう努力をした。その甲斐あって新たに友人もでき、時折お互いの家を行き来するようにもなった。このまま何事もなく、自分は普通に戻れるかもしれないという淡い期待もあった。元通り、とまではいかなくても、両親や兄に心配をかけないような人間にはなれるかもしれないと思っていた。  高校三年の秋、友人と同じ予備校に通うようになった。その帰り道、「小腹が空いたな」と言いだした友人とコンビニで肉まんを買い、近所の小さな公園に寄った。ベンチに二人で並んで座り、肉まんをかじっていると友人が「あのさ」と口を開いた。 「なに?」 「友晴はさ、好きなやつ、いる?」 「え?」  もう記憶の奥底にしまった小学生の春の日が蘇る。いや、あの時と今とじゃ違う。恋をするということがどういうことなのか知っているし、自分のこともわかっている。落ち着いて答えを返せばいい。 「いないよ。今は受験のことでいっぱいでそれどころじゃないし」 「ははっ、優等生だなあ、友晴は」 「それなりに良い成績じゃないと入れない予備校に一緒に通ってるんだから、お互い様だろ」 「そういうんじゃないって」 「……?」  苦笑してから、彼は「そんなことじゃなくてさ」と続けた。 「俺さ、好きなやつがいるんだ」 「……へえ。そうなんだ。頑張れよ」 「なにそれっ、テキトウッ」 「そんなことない」  彼とこういう話をするのはそういえば初めてかもしれないな、と思った。友晴が自分から話すことももちろんなかったが、友人関係になってから彼の口からも好きな人という単語すら聞いたのは初めてだろう。もう三年近く一緒にいるのに不思議な感じだな、となんとなく考えていると不意に何か温かいものがベンチの上に乗せていた手の甲を包んだ。彼の掌だった。 「……なに?」 「おまえなんだ。好きなの」 「え……?」 「友晴のこと、友達じゃなくて、それ以上の意味で、好きなんだ」  彼の目はいたって真剣だった。頭の中が一瞬で真っ白になった。今まで彼をそういう目で見たことは一度もない。一度もないはずだ。普通の友人として付き合い、このまま続けば親友と呼べる関係になるかもしれない、と思っていた。 「ごめん、今そんなこと言われても困ると思った。でも、俺達志望大学別だろ?そうしたら、一緒にいられるのもうあと数か月しかなくて、なんか、急に寂しくなって……がまんできなかった」  たった一人でいい、気の置けない友人がほしい。そうやって自分なりに努力して彼の友人としてそばにいた。自分は一度でも彼のことを変な目で見ていただろうか。大切なたった一人の友人なのに。  すぐに彼の告白を断ることができなかった。彼とはずっと友人でいたい。でも、今断ってしまったら、きっと彼とは友人ではいられなくなってしまう。だって、自分が昔そうだったように、好きだと思った相手、しかも同性に告白して断られて今まで通りそばにいることができるだろうか。 「友晴?ごめん、そんな怯えないで」 「え」  いつの間にか、友晴は俯いたまま彼と目を合わせることすらできなくなっていた。いつの間にか手の甲を包んでいた彼の掌も消えている。 「僕は……」 「大丈夫、無理に答えを出してほしいなんて思っていない。断ってくれたっていい。俺がただ自分の中にしまっておけないダメなやつってだけだ。友人として付き合ってくれてるお前の気持ちを踏みにじって、傷つけるかもしれないってわかってて、言わずにいられなかったんだ。バカだろ」 「君は、僕が知るかぎりバカじゃない」 「ふはっ、おまえっ、そういうとこだよ!」 「え?」 「そんなだから、好きになったんだ」  また、彼の瞳がまっすぐに友晴をとらえ、離さなくなる。 「ごめんなさい、って言っていいよ。気持ち悪いって思うよな。でも、たとえ断られても友人としてそばにいさせてほしい。だめ?」  そんなことない。君は気持ち悪くない。意気地なしは自分だし、告白できる君は素直にすごいと思うし。友人でいられなくなってしまうという恐怖も取り去ってくれる。どうしよう、昨日まで友人だったのに、そう思うのに。 「ごめん、なんて、言えないよ」 「えっ」 「僕も、男が好きなんだ。気持ち悪いって思ってもいいよ?」 「っ……」  泣きそうだった。嬉しかった。そのままの自分で受け入れてもらえるかもしれない、と思った。彼となら友人としても、恋人としても関係を続けられるかもしれないと思った。 「友晴、好きだ」  その日、初めてキスをした。そうしたらもっと彼のことが好きになった。もう彼には何も隠さなくていい、そう思った。  キスをしたあと、お互いなんとも気まずくて、そのままあまり言葉も交わさず別れて帰宅した。  明日からどうしようか。また受験勉強に身が入らなくならないようにしないとな、と考えながら自宅のリビングに入ると、いつもは帰宅時間キッチンで夕飯を作っている母がリビングでじっとソファに座っていた。 「ただいま、母さん。どうしたの?具合悪い?」 「……そこ、座って」  母の顔は青ざめていた。体調が悪いから座っていたのだろうか、と思ったが、母の発した言葉でそうではないのだと知った。 「あなた、男の子が好きなの?」 「…………え?」 「さっき……公園で、お隣の奥さんが……」  すべてを聞かずとも母の言いたいことはわかった。母は泣いていた。 「ごめんなさい」  それしか言えなかった。浅はかだった。同性愛者である自分にも人と同じように好きな人ができて、その人と愛しあえると思ったこと。それを知って家族がどう思うか、今まで何度も考えてきたのに、自分の気持ちにさからえなかったこと。もうすこし冷静になれていたならばあんな人目につくようなところで感情的にならなかったこと。母を泣かせて、きっとこの後父親を苦しめ、兄を悩ませる。 そして、きっと、いや、間違いなく彼を傷つける。初めて好きと言いあえた人。初めてキスをした人。 「予備校、別のところにするから」 「……わかった」  断ることなどできるはずがなかった。それ以上会話もできないまま部屋に戻り、携帯電話を見てみると彼からメールが届いていた。  ――『明日も会えるの楽しみにしてる』  ぼたぼたっと画面に涙がこぼれ落ちた。  ごめん。ごめん。僕は結局君のことを傷つける。  ――たとえ断られても友人としてそばにいさせてほしい。  折角そう言ってくれたのに僕は断ることができなかった。だって、本当に彼のことが友人として大好きだったから。そんな彼と恋人にまでなれたら、どんなに幸せだろうかと考えてしまった。もう僕には君を好きでいる資格も権利もない。友人でもいられなくなってしまう。ごめん。  ――『ごめん、やっぱり告白にはこたえられない。ごめん、本当にごめん。もう話しかけないで』  震える指で返事を送ると、すぐに電話がかかってきた。 『友晴、なんでっ』 「ごめん、公園で会ってるの見られて……それで、親が……」  電話のむこうで、彼が息を飲むのが伝わる。泣き止もうとしてもいっこうに涙が止まらず、声が震える。 「本当に、ごめんっ、ごめんっ」 『友晴……』 「……さよなら」  三年近くの友人とたった一時間程度の恋人を一度に失った。電話を切ってから自分はどうしようもなく彼のことが好きなのだと自覚した。もっと早く気づけばよかったのだろうか。彼が他の誰より大事だと思い始めた時、友人以上の感情がそこにあるのではと考えてみるべきだったのだろうか。いや、そんなこと自分にできるはずがなかった。彼が告白してくれたから自分の想いと向き合うことができたのだ。  流し続けた涙がようやく止まった時にはもう日付を越えようという時間だった。部屋の外から兄に一度声をかけられたような気がしたが無視してしまった。泣き疲れてそのまま眠り、翌朝目覚めるとなんだか無性に体が重かった。どうやら熱があるらしい、と気づいたのはトイレに行こうとしてベッドから転げ落ちた時だった。駆けつけてきた兄に抱きかかえられベッドに戻された。重たい瞼を再び閉じかけた時、母が部屋に入って来た。当然だが母はもう泣いていなかった。母の方を見ると、こわばった表情でこちらを見つめていたが、友晴の額にそっと濡れたタオルを乗せると「何か、食べられる?」と問うた。 「ごめんなさい」 「っ……友晴――……」  質問の答えになっていない。そんなことはわかっていたが、重たい瞼が綴じきる前に伝えておきたかった。 「僕、卒業したら、この家を出るよ」 「え……」 「わがままを言って、ごめんなさい」  きっと母が望んでいた言葉ではなかっただろう。でも、一晩考えて、自分が母の望む普通になることも、普通の人間として家族のそばにいることもできないと思った。 「わかった。お父さんには自分で言うのよ」  母は静かにそう答えると「おじや、作るから。ちゃんと食事はとって」と言って出て行った。  父に相談することは正直気が重かった。でも自分で決めたことだ。一人でも生きていく、と。  たった一度、たった一時間でも自分には恋人がいた。もうそれで十分だ。友人だった彼を傷つけて、家族を不幸にして、これ以上誰かを巻き込みたくなかった。  すっかり乾ききったと思っていた涙が一筋、頬を伝って流れ落ち、枕に染みこんだ。  にゃーお。耳元で響く声にうーん、と目覚め、枕元で鳴いていた黒猫の頭をよしよしと撫でる。それでもまたにゃーおと鳴くものだから「わかったよ」と苦笑して枕元に置いてあった眼鏡をかけ重たい体を起こした。  朝の五時半。月曜日といえどまだ一時間は寝ていられる。それでも愛猫のクロはご飯を待ってはくれないので、エサを器に入れ差し出してやるとガツガツと勢いよく食べ始めた。 「おまえは食いしんぼだね」  ふあ、と欠伸をもらし瞼を擦る。なんだか懐かしい夢を見たな。もう二十年近く昔の話だ。若かったなあと苦笑し、ベッドに引き返す。ご飯を食べ終えたクロもとととっと着いてきて、ベッドのはしっこに乗っかると毛づくろいを始めた。 「おまえがいるからさみしくないよ」  猫にというより自分に言い聞かせるように友晴は声にして、横になると瞼を閉じた。また昔の夢を見るかもしれないな、と思ったが、夢の中にはクロが出てきて、ぶくぶく太って風船みたいになるというもので、風船になったクロを慌てて追いかけてぜえはあと息を切らしていた。おかげで目覚めてからもなんだから体が重たくて、歳かなあなんてぼやいたのだった。
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