1750人が本棚に入れています
本棚に追加
/43ページ
recollections/episode 10
――『友晴さん花火しない?』
――『花火?』
――『うん、二丁目の公園で』
――『今から?』
――『そ、今から』
夏の終わりの日曜日。夕暮れ時に結人からメッセージが届いた。
突然だな、と思ったが、とくべつ用事もなかったから『わかった。行く』と返し着替えて部屋を出る。着替える、と言っても家用のゆるゆるなTシャツから誰に見られても問題なさそうな白いシャツに替えたのと、ジャージからジーパンに履き替えたぐらいなのだが――きっと結人なら部屋着で出て行ったってたいして気にしないのだろうが、ちょっと外に出ると行っても誰に会うかわからないし、念のため……だって、恋人に会うんだし、と言いわけを並べる。
「友晴さん、こっちこっち!」
「ああ……あれ?」
「トモくん!」
公園に着くと結人の隣で小さな影がぴょんこぴょんこと跳ねている。それからその奥にもう一人四十代程の男性が立っていて、ぺこりと頭を下げた。
「えっと……」
「新しい父さん」
「ああ……」
どうも、と頭を下げると「初めまして」と彼も朗らかに笑った。
「小森……基浩です」
結人から聞いてはいたが穏やかで優しそうな人だ。そういえば婿養子なのだな、と今更ながら知った。
「あ、僕は――」
「白崎……友晴さんですよね。咲千さんと結人くんからお伺いしています」
「そうですか」
「お世話になっております」
「いえいえ、こちらこそ」
こちらこそ、息子さんに大変にお世話になって、お世話になって……?――いや、間違いではないけれども。
次の言葉に悩んでいるうちに結人が「急に呼んでごめんね」と間に入った。
「いや、かまわないよ。陽人くんとお父さんも一緒だったんだね」
「うん。ていうか陽人が花火したいって聞かなくてさ」
「そうなんだ」
ベンチの上にはずらりと花火セットが並べられている。結構買い込んでるな。
恐らく出資者であろう結人の継父はせっせと袋を開けて準備を進める。手伝おうとしたら「もうできますから」と微笑まれた。
「トモくんとゆみにい、ボクにナイショでおっきい花火見に行ったんでしょ?」
「え……」
結人の方をちらりと見て「内緒にしてたの?」と聞くと「いやべつに」と苦笑する。
「内緒にするつもりはなかったんだけど、あえて言う必要もないかなと思って言ってなかったんだ」
「それをナイショって言うんだよ?」
「だって、行く前に言ったら陽人も行きたいって言うだろ?」
「行きたかった!」
ゆみにいばっかりずるい、と陽人は頬を膨らませる。
「でも、もう終わっちゃったからここで花火するんだよな」
「……うん」
しぶしぶ、しょうがなく、許してあげる、と顔に書いてある。
後ろで準備していた基浩が陽人の肩をぽんぽん、と撫でて「来年は行こうね」と微笑むと、「お母さんもいっしょに行ける?」と陽人が彼の服の裾を引っ張った。すぐに返事はできず、基浩は結人と視線を交わし、こくりと頷く。
「遠くは難しいかもしれないけど、きっと大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「うん」
まだどうなっているかわからない来年の夏の話。ここにいない結人の母親のお腹の中の新しい命がこの先無事に産まれたとすれば、一年後まだまだ歩くことも話すこともままならない赤ん坊のはずだ。きっと、いや間違いなく一家の中心は赤ん坊になる。そうなるであろうことは幼い陽人の想像の外側の話で、それでも漠然とした不安が心のうちを占めているのかもしれない。
その事実を突きつけるわけではない。かと言って、嘘をつくわけにもいかない。きっと大丈夫、と言い聞かせているのは陽人に対してというより、基浩自身や結人に対してのような気がした。
「その頃には陽人もお兄ちゃんだな」
「お兄ちゃん……」
結人が陽人の前に屈み、小さな両手を彼の大きな手で包み込む。
「そうだぞ。陽人が俺のこと呼ぶみたいに、はるにいって呼んでくれるかもな……呼ばれたい?」
「わかんない」
ふるふると首をふり、「だって」と陽人は声を小さくする。
「……ボクは、ゆみにいみたいなお兄ちゃんになれるかわかんないもん」
「俺だってたいした兄ちゃんじゃないよ」
「ゆみにいはかっこいいもん」
「ははっ、なんだよ急に、照れるな」
「ボク、ゆみにいみたいになりたいけど……でも……」
「別に俺みたいにならなくてもいいんだよ。陽人は陽人のままでいい」
「ボクのままでいいの?」
「そうだよ。陽人は今でも十分かっこいいし、がんばってるから、今のまま俺の大事な弟でいたらいいんだよ」
「そうなの?」
「うん。母さんも父さんも、それから俺も陽人が大好きだから、陽人と生まれてくる弟か妹が仲良くなれたらいいなって俺は思う」
大きな瞳が兄を見つめてゆらゆらと揺れる。友晴も、そして新しく家族になった基浩も兄弟二人の間には入れない。でも、結人は不安な顔なんて一切見せずにただ笑っていた。
「仲良くなれるかな」
「なれるよ。だって、陽人は兄ちゃんとも仲良しだろ」
「……うん」
「まあ、ケンカした時は兄ちゃんが陽人の味方してやるよ」
「ほんと?」
「ん、ほんと」
きっと両親はどっちの味方になるかなんて選べないから。
「トモくんは?」
「え……?」
急に視線を向けられて、どくんっと心臓が跳ねた。「俺だけじゃ不安なのかよ」と結人が頬を膨らませたら、陽人は「ちがうよ」と笑った。
「ゆみにいとは仲良しだけどケンカもするから、ゆみにいとケンカしたらトモくんに味方になってもらう」
「なっ」
「僕はかまわないよ」
「えっ」
結人が陽人と友晴とを交互に見比べ青ざめる。後ろで見ていた基浩は「陽人くんは白崎さん大好きだもんな」と笑っている。継父から告げられたまさかの事実にたじろいでいると陽人が「そうだよ」と大きく頷き兄の手から離れると、友晴の手を引いた。
「お父さんはお母さんの一番の味方だから、ボクはトモくんに一番の味方になってもらう」
「いやいやいや」
結人が間に入ろうとするから「結人」と制して陽人の手を握り返す。
「お兄ちゃんとケンカしたらうちにおいで」
「ほんと?やったっ」
「友晴さんっ」
ふっと噴き出したのは基浩だった。「咲千さんからいろいろ聞いてはいるけど、息子たちがすみません」と笑う彼の“いろいろ”が何なのかは気になるところではあるが聞かないでおこう。
「ボク、来年はトモくんと花火行きたいな」
「え?僕と?」
「うん。ゆみにいばっかりずるいもん。お母さんとお父さんと赤ちゃんと行くけど、トモくんとも行く」
「ははっ、僕でいいの?」
「うんっ」
ふんわり花が咲いたような笑顔はやっぱり結人そっくりだった。陽人の後ろで結人がじーっと見つめてきていたが、まあまあと視線でなだめる。陽人は満足したのか基浩のもとへ寄って行き「どれがいいかな?」と二人で花火を選び始めた。
その様子を眺めながら結人が歩み寄って来て「だめだよ」と口を尖らせる。
「なにが?」
「友晴さんと花火行くのは俺だから」
「三人で行ってもいいんじゃない?」
「やだ」
二人がいい、とこっそり小指を絡めてくる。親子二人が背中を向けているからよかったものの、ずっと繋いではいられない。お兄ちゃんなんだから、と言うのは酷だということは知っていて、「大丈夫だよ」と微笑み、一瞬小指をきゅっと結んで「約束ね」と離したら結人は目を見開いて「ずるいよ」と苦笑した。
「トモくんどの花火がいい?」
「んー、これかな」
「これね、はい、どうぞ」
「ありがとう」
「お父さん、火!」
「はいはい」
陽人を囲んでそれぞれ花火を持ち、基浩がコンクリートの上に立てたローソクから火を灯していく。
じりじりと先っぽのひらひらした紙が燃えていき、ちかちかと小さな光がじゅわっと勢いを増し、徐々にきらきらとあたりへ広がっていく。
街灯だけが光る夜の中、橙、赤、緑、青、それぞれの光が交差して、一時の夢の世界を彩る。
陽人は次々に火をつけていき、花火の光で文字を書いてみせたかと思えば、二本持って色を合わせてみせて、時に結人とどちらが綺麗か、なんて競っていた。
最後にとっておいた四つの噴火花火を基浩が一つひとつ並べていき、陽人がすこし後ろをついて歩く。
「陽人くんすっかり新しいお父さんに馴染んでるね」
「ん、俺より一緒にいる時間長いからかな。あと俺より基浩さんの方が甘いからさ。母さんと三人だけの時よりむしろ幼児帰りしてる気がする」
「そうなんだ」
「うん。基浩さん、母さんのこともそうだけど、陽人のこともちゃんと見てくれてて、寂しそうにしてるとすぐ気づいてくれるんだ」
「安心だね」
「うん」
頷きながら結人はどこか寂しそうだった。彼にとって今まで母親と弟を支えることが大きな役割で、これからは自分のことを一番に考えればいいのだと納得はしてみせているが、実際のところはそんなにすぐに気持ちは切り替えられないだろう。陽人がさっき不安そうな顔をした時、結人は心なしか嬉しそうで、彼の複雑な想いがそこにあった。
「大丈夫だよ、結人」
「え?」
「陽人くんにとって一番身近なかっこいい人は、きっとずっと結人だよ」
「……そうかな」
「うん、そうだと思う」
兄弟の絆は他には代えがたいものがある。それは友晴もよく知っていることだ。
「僕にとっても、兄はずっと憧れの人だから。父とは違う、特別な存在なんだ」
「そっか。友晴さんって弟なんだっけ」
「そうだよ」
「ブラコン?」
「どうだろう。そういうの考えたことないな……。ただ、兄はずっと大好きな人、それだけだよ」
「ブラコンだね」
「そうなの?初めて言われた」
「ほんと?」
くすくす二人で笑っていたら陽人が「ゆみにい!トモくん!」と手を振った。
基浩が噴火花火に火を灯す。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
わーっと自然と声が漏れた。それは結人も、陽人も同じ。
陽人の手が基浩の手をぎゅっと握り、笑い合う。二人の姿を見つめながら、結人が手の甲をとんっと友晴の手に当ててきて、かすかに体温が伝わる程度に触れ合い、離れる。
変わりゆく花の光は瞼に焼き付き、胸を焦がす。誰もみな、この夏の光景をずっと忘れないだろう。
「友晴さん」
「ん?」
「花火は俺と行ってね」
「まだ言ってる」
「だって」
友晴さんは俺のだから。
友晴の耳にだけ聞こえる小さな声。
「大丈夫だよ」
僕の夏も、秋も、冬も、そして春も。
来年も、再来年も、その先も、君に捧げるんだと決めているから。
最初のコメントを投稿しよう!