recollections/episode 11 1/2

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recollections/episode 11 1/2

 夕飯のカレーを煮詰めていると電話が鳴った。ふつふつと小さく呼吸する茶色の海を眺めながら一度火を止め電話に出る。母からだった。  母の方から電話があるのは珍しいことだ。何事かと思って出てみたら『友晴、林檎食べない?』と母は問う。 「林檎?」 『そう、林檎。青森にいるお友達からいっぱいもらったの』 「ああ、そういうこと」  つまりお裾分けをしてくれるということだろう。ほとんど絶縁状態だった今まではこんな相談をされることなんてなかったから、すこしくすぐったい。初めて聞く母からの微笑ましいSOSに「僕ももらっていいの?」と返すと母は『もらってもらって!』と嬉しそうに言った。 『毎日食べてはいるんだけど、お父さんと二人じゃ限界があるでしょ。ご近所さんにもあげたんだけど、それでもなくならなくって』 「わかった。取りに行ったらいい?」 『来てくれるの?』 「うん、だって送るの大変でしょ。送料かかるし」 『送料なんて、そういうのは別にいいの。でも、友晴が来てくれるんなら嬉しい』  家族に会いたい、と言ってもらえるのが特別でありがたいことなのだと最近たびたび噛みしめる。 「ん、じゃあ行く」 『いつ来られそう?』 「明日予定ないし行くよ」 『そう、じゃあ待ってるわね』 「うん、また明日ね」 『はーい』  明日は久しぶりに何も予定のない日曜日だ。結人はバイトに入ると言っていたから、実家の帰りにでもお店に寄ろうかな。林檎もいくつかお裾分けしてあげよう。  お裾分けのお裾分け。結人の喜ぶ顔が早く見たい。 「最近結人くんとはどうなの?」 「どうって……」  こういう話をする時の母は女子高校生のようだ(いや、別に女子高校生がそんな話をしているのをじっと見たことはないのだが勝手なイメージだ)。  リビングでテーブルを挟みアイスティーの氷をからからストローで転がしながら母は「だって気になるんだもの」とはしゃぐ。昔、男の人が好きなのと泣いた人とは到底思えないのだが、泣かせてしまったからこそ、せっかく楽しそうにしているのに答えないわけにいかない。 「パンケーキ食べに行ったり、花火大会に行ったり……あと、弟くんとあっちのお父さんと一緒に花火もした」 「へえ~、いいわねえ」 「まあ、うん……楽しかったよ」 「……そう」  にこにこ自分のことのように嬉しそうにするからどんな言葉を返していいかわからず、黙ってしまう。 「私も昔お父さんといっぱいデートしたの」 「そうなんだ」 「お父さんインドアでしょう?だからいつも私が誘ってね、あれしようこれしようって。でも、お父さん一度もいやだって言わなかった」 「そうなんだ」  父の趣味といえば読書ぐらいで友晴の中にはいつもソファに座って本を読んでいるイメージが強い。ただ、友晴が子どもの頃も時折休日に母に連れられてどこかへ出かけていたような気もする。 「どこ行ってたの?」 「そうねえ、お花を見に行くことが多かったかしら」 「花?」 「そう。春になれば桜を見て、梅雨は二人で傘をさして紫陽花を見て、秋はライトアップされた紅葉を見に行ってね。冬はお父さんも私も寒いの苦手だからお家にこもってたけど」 「はは、そう言えばそうだった気もするな」  母には花がよく似合う。家の庭で大事に育てた花に休日水やりをするのは退職前から父の仕事だ。退職した今は水やりそのものが父の仕事になっているのかもしれない。 「結局私の話になっちゃった」 「聞いてほしかったんでしょ」 「そうね」  仲睦まじい両親の話は聞いていると純粋に心が和む。この両親に育ててもらったから、きっと自分は人に優しくありたいと思えるようになったのだろう。 「そういえば、父さんと母さんがケンカしてるのって一度も見たことがないね」 「何言ってるの、何度もあるわよ」 「そうなの?」 「ええ。一番は晴一が生まれたばかりの頃で、私も何かとイライラしてしょっちゅうケンカしてた。友晴が生まれてからも小さなケンカはいっぱいあったけど、あなた達に見えないようにしてただけ」 「そうだったんだ……」  四十年近く生きてきて両親が離婚するという心配だけは一度もしたことがなかった。自分のせいで不安をかけた時も父は息子だけでなく母を守ろうとしていて、だからこそ家を出ると決めることができた。 「ありがとう」 「いいのよ。ケンカするほど仲が良いって言うじゃない?お父さんと私は本当にそんな感じ。ケンカしたってすぐ仲直りするの。お父さんがいつも先に謝ってくれて、そしたら私も許さないわけにいかないじゃない。ずっとケンカしてるのはつらいもの。お父さんの優しさにいつも甘やかされてるの」 「僕は何を聞かされているんだろうな」 「友晴が言い出したんじゃない」 「そうでした」  ふはっと二人で噴き出して、ひとしきり笑ってから母は「あなたもね」と真面目な顔で言う。 「結人くんとケンカしたら、どっちが悪くてもすぐに謝ったらいいのよ」 「母さんはいつも父さんに謝ってもらってたのに?」  いじわるなことを言ったのに、母は全く気にする様子もなく笑って返す。 「あなたは私よりお父さんに性格が似てるから、平気よ」 「そうかな?」 「そうよ。自覚なかったの?」 「なかった。兄さんの方が父さんに似てると思ってた」 「逆よ。まあ、晴一もお父さんに似てるところもあるけど、どっちかというと私だなって思う」 「へえ」  最近あまり兄と話すことがないが、昔からずっと子ども達を見てきた母の言うことだ、間違いないのだろう。 「でも、僕はまだケンカしたことないよ」 「あら、仲良しでいいこと」  ふふふ、と母は微笑んで「私も最近はお父さんと全然ケンカしないのよ?」と自慢げに言った。 「多くない?」  玄関先で優に十個以上ある林檎の入った紙袋を抱え苦笑する。友達からもらったという林檎は大きめの段ボールいっぱい詰められていて、まだ三分の一も減っていなかった。せめてこのぐらいもらわなくては消費に貢献したことにはならないのだろう。 「結人くんにあげたらいいじゃない」 「え」 「あげるんでしょ?」  考えていることなどばればれだ。 「うん、そうする」  ありがたく頷いて小さい紙袋も一緒にもらった。  紙袋いっぱいに詰め込まれた林檎はずっしりと重い。林檎を持って帰ったからって筋肉痛になったらひ弱すぎて笑ってしまうな。  真っ赤に熟れた丸い実からは甘酸っぱい良い香りがする。丸ごと食べてもおいしそうだが、結人にあげたらアップルパイにでも変身するかもしれない。甘くて楽しい想像を膨らませながら駅までの道を歩いていると、「あれ?」と目の前で声がした。 「トモ」 「――え」  半月ほど前、実家のアルバムの写真の中で見た。声は記憶の中のものより少し低い。身長はもともと友晴より五センチは高かった。中学の卒業式に別れを告げた彼が制服からスーツに姿を変えて立っていた。 「……ヒロくん」 「あ、やっぱり!トモだよなっ。ヒロくんなんてひっさびさに呼ばれた」  たたっと走り寄って来て、“ヒロくん”と友晴がそう呼んでいた彼――紘唯(ひろただ)ははにかんだ。笑うと目じりに皺が寄り、友晴と同じだけ彼も歳を重ねたのだと実感する。 「僕だって、もうトモなんて呼ぶの君ぐらいだよ」 「そう?まあ俺ら昔ずっとつるんでたもんな」 「……そうだね」 「高校から別になったけど、携帯電話繋がんなくなって嫌われたかと思ってた」 「――嫌いになる理由なんてないだろ」 「ははっ、ん、そう言ってもらえて嬉しい。トモのことだからアドレス変えて連絡するの忘れてたとか、携帯電話壊れたとか、そんなだろ?」 「もう昔のことすぎて忘れたよ」 「まあ、そうか」  本当は、今でもはっきり覚えているけど。そんなこと言わなくてもいい。知らない方がいい。 「トモは実家出てんだよな?もう帰んの?」 「うん。母さんに林檎いらないかって言われて取りに行ってた」 「あー、これね。重そう」 「ヒロくんも何個かいる?正直重すぎてさ」 「ほんと?いるいる」  紙袋の中から小さ目の紙袋を取り出して三つ詰めて渡そうとしたら、「袋あるから平気」と鞄の中からビニール袋を取り出して自分で入れた。そういえば、昔からコンビニなんかで買い物した時に律儀に袋を畳んでとっておくタイプだったな、と思い出して笑みがこぼれる。 「俺も今帰りだけど、駅まで一緒に行っていい?」 「帰るとこなのに、駅に戻るの?」 「いいんだよっ、久々にトモに会えて話したいだけなんだから」 「……わかった」  断ることなんてできなかった。彼の実家がもうすぐそこなのは知っているし、急ぐからと言えば頷いてくれるのもわかっている。それでも、昔から彼のまっすぐな言葉に抗えた試しはない。 「トモの母さん元気にしてる?」 「ん、まあ。この前ちょっと病気してたけど、もう元気」  並んで歩く秋の夕暮はなんとも静かで、紘唯の声だけがやけに鮮明に聞こえる。 「俺んとこは父さんが先月病気で倒れてさ」 「そうなの?」 「ん、命に問題はなかったし、もうじき退院すんだけど、母さんも滅入っちゃってて休日は実家に戻ってんだ」 「そうなんだ……休日出勤の後に大変だな」 「あー、まあ今日は特別。いつもは土日休んでるよ。それに今自分ちに帰っても誰もいないし」 「えっと……?」  一人暮らしじゃ、ない。 「ああ、トモは知らないもんな。俺結婚したんだ」 「そう、なのか」  紘唯が左手を目の前にかざすと、薬指のプラチナリングがきらりと光る。  いつかそうなるだろうとは思っていた。昔から何人も彼女と付き合っていたし、いつかは結婚して、子どもを作って、幸せな家庭を築くのだろうと想像していた。 「子どももいる。そんで、奥さんが子ども連れて実家に帰ってくれてんの」 「いい奥さんだね」 「ん、そうだろう?」  想い描いた未来が今ここにある。でも、幸せそうな彼を見ても、友晴は過去のように悲しくも切なくもならなかった。心の底から嬉しかった。昔からずっと仲が良くて、親友だと思っていた彼が幸せになってくれた。その事実を心から喜べる。 「トモは?結婚は……してなさそうに見えるけど」 「どういう意味だよ」 「だって、なんか結婚した奴ってそういう雰囲気あるから」 「はは、まあ想像通り独身だよ」 「そうか」  紘唯の言わんとすることはわかる。人がよく言う“所帯じみる”ということだろう。確かに会社でも家庭を持っている者と独身の者とでは雰囲気が違う。  紘唯の想像する結婚のイメージと友晴とでは合致しないだろうし、彼は昔のまま友晴を異性愛者だと信じて疑わない。それを敢えて訂正しようとも思わないし今のままの関係を続けたい。 「でも、トモ雰囲気変わったよな」 「……そうかな」  突然立ち止まり、じいっと顔を覗きこまれてどきりとした。 「まあ、二十年以上経ってんだから当然だけど……結婚はしてないけど、恋人はいるだろう?」 「……うん」  思わず頷いていた。紘唯は「やっぱり!」とにっこり笑い、また歩き出す。友晴も後を追い、また二人で並んで歩く。  紘唯は「そうか~」とため息をつくように夕暮れの空に呟く。 「トモにも大事な人ができたんだな」 「……そうだね」  いつか、彼に聞かれたこと。  ――「トモは、誰か好きな子、いる?」  ――「この子は特別だな、とか、ずっと一緒にいたいな、とかそんな感じに思う子、いない?」 「大事にしたい、って思うよ」 「は~……トモに愛されたらさぞ幸せなんだろうな」 「なんで?」 「なんでって……そんなのトモだからだろ」 「……答えになってないよ」  答えになっていないのに、彼の言葉はじんわり胸の中にしみこみ、友晴を勇気づけてくれる。きっと彼に愛される妻と子どもも幸せに違いない。だって、彼だから。 「結婚すんの?」 「え……――」  投げかけられた言葉は、過去の自分なら一生無縁のものだと思っていた。でも、今は違う。 「したい、と思ってるよ」 「まじで?……わーっ、トモがどんな相手と結婚すんのかめちゃくちゃ気になる」 「ご想像にお任せするよ」 「なんだそれ!教えてくんないのかよっ」  もう、と紘唯は唇を尖らせたが、「しゃーねーな」と笑ってくれた。 「そんじゃ、またな!」 「ん、またね」  駅の改札を挟み、林檎を三つ小脇に抱え「ありがとな!」と彼は笑う。  初めて好きになった人。これからもずっと親友でありたいと願う人。  彼の背中を見送りながら、過去の自分にさよならをする。  少し減ったといってもまだまだ重い林檎を抱え、キッチン・小森に向かうといつにも増して混んでいて、珍しく店の前に椅子が五つ並べられていた。前二つには二十代程の女性二人が並んでいて、メニュー表を二人で捲って眺めている。  この数ならそんなに時間はかからないかな、と中を覗いてみると結人がちょうどテーブル席の客の応対をしているところだった。いつもならバイト頑張ってるなと微笑ましく見守るだけなのだが、今日は視線をそらせなくなってしまった。  結人が応対している相手はちょうど彼と年も近そうな女の子二人で、そのうちのショートボブの子が親しげに結人に話しかけていて、結人もしばらくその場に留まっていた。同級生だろうか。  以前一度結人と買い物をしていた時にも同級生の女の子と遭遇し、その時は友晴が心配になるほど結人は女の子を冷たくあしらっていた。今も困ったような表情をしてはいるが、結人からも何かを話しかけているようで、そこそこ親しいのかもしれない。  そのうち結人は女の子に何かを話しかけられ、次の瞬間、ふっとやわらかく微笑んだ。それを見て女の子は結人の肩を軽くたたき、笑いかける。  ちくり、と胸に棘が刺さり、じくじくと痛みがすこしずつ広がっていく。動け、動けと足に念じるのに、根っこが生えたように立ち尽くしていた。 「あら、白崎さん!」 「……千代さん……」  椅子に座っていた女性客の注文を取っていたのだろう、千代が友晴の姿に気付き近づいてくる。 「どうしたの?そんなところに立って」 「えっと……」 「ごめんなさいね、今日はなんだか混んでて」 「いいんです。日曜の夕方ですから、混んでて当然ですよ」 「そうね。ありがたい話だわ」  ちらり、とついまた結人の方に視線を向けると、ちょうど先程のテーブルから去っていくところだった。 「結人に用事?」 「え……」  千代が視線に気づき、にこりと微笑む。 「えっと、まあ……でも、忙しそうなんで、今度でいいです」 「そう?もうじき席も空くからすこし待っててもらえたら結人も手が空くと思うわよ」 「いや、いいんです。結人くんも知り合いが来てるみたいですし」 「え?……ああ」  つい、口をついて出てしまった言葉に千代も視線を店内に向ける。 「あの子達ね、来るの久々なのよ」 「前からよく来てたんですか?」 「そうね。去年の夏ぐらいはしょっちゅう来てて……」  へえ、となんとか当たり障りのない相槌を打つ。千代はなぜかそっと友晴に身を寄せるとこそこそと小さな声で言った。 「多分ね、付き合ってたの」 「――え……」  付き合ってたの。  誰と、誰が、なんて聞かなくてもわかる。「まあ、もうずっと前に別れたみたいなんだけどね」と言う千代の言葉は頭の中を通り抜け、胸の中に刺さった棘がじんじんと痛みを増すのだけがはっきりとわかった。 「あの……僕、帰りますから」 「あら、もうすぐ席空くけど……」 「いいんです。それじゃ、また」  またどうぞ、と千代が笑いかけるのにも答えられないまま、その場を離れた。  始めは早足で歩き、徐々に歩みを速め、最後は走って自宅に帰った。  バタン、とドアを閉めてずるずるとその場に蹲る。部屋の奥からにゃーと鳴いてクロが近づいてきたが撫でてやることもできず、荒れた呼吸を整えながら抱えていた紙袋をぎゅうっと抱きしめた。ごろんっと一つ林檎が転がって床にごとんっとぶつかり、クロが林檎を追いかけていく。 「……だめだよ、クロ」  なんとか林檎を拾い紙袋をキッチンに運んでクロに餌をやった。そのままその場にまた蹲り、じっとクロが餌を食べるのを見つめる。  ――「付き合ってたの」  千代に言われた言葉が頭を離れない。結人が女の子に向けた優しい微笑みを忘れられない。  もう別れたのだと千代は言った。今結人と付き合っているのは自分だ。それなのに、なんでこんなに不安なんだろう。  それからどれぐらい時間が経っただろうか。スマートフォンがピロリンと音を立てる。  ――『友晴さん、今日店に来てくれたんだよね?ばあちゃんから聞いた。なんで帰っちゃったの?』  なんで。彼に送る答えが見つからない。  ――『混んでるみたいだったから、また今度にしようと思って』  ――『そうだったんだ。待っててくれてよかったのに』  ――『ごめんね、また行くから』  また、ちゃんと。会いに行くから。それまでに心の中に降り積もる重たいものをどかすから。  ――『じゃあ、この後家行っていい?』  ――『いや、今日はちょっと体調が悪いから、また今度にして』  これは嘘だろうか。心の不調は嘘じゃない。体もうまく動かない。  ――『体調悪いなら俺が看病するよ』  ――『そこまでするほどじゃないから。今日実家帰ってて少し疲れたんだ。寝れば治るよ』  これは嘘じゃない。  ――『そうなんだ。わかった。明日仕事あるもんね。また今度ね』  ――『うん、また今度』  心配をかけてしまった。気を遣わせてしまった。優しさに甘えることを結人は喜ぶけれど、これはきっと彼の望むものではない。  どうにかしなければ、と思うのに、どうしていいのかわからなかった。 「林檎……あげられなかったな」  床に落ちて傷ついた林檎。食べられないわけじゃない。でも、傷ついてしまった林檎はなんだか自分の心のようで、持て余して、最後の最後まできっと食べられない。
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