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recollections/episode 11 2/2
これは嫉妬というやつなのかな、と考えて三日が過ぎた。
考えれば考えるほど気持ちが重くなっていくだけなので、仕事に没頭し作業の合間の空いた時間に数分ぼんやり考えるだけ。仕事はつつがなく進むのに、普通ならこういう時は仕事も手がつかなくなるものなのかなとかえって沈み、前にもこんなことがあったなと思い出す。
結人と付き合い始める前、同性のあんな年下の子に好きになってもらえると思わなかったし、好き合えるとも思っていなかった。それが今互いの親すら認めてくれるような関係になったというのに何を悩んでいるんだろう。
たった一度結人が歳の近い女の子と笑い合っているのを見ただけだ。結人とその彼女が一年ほど前に付き合っていたのだとたまたま聞いただけ。
たったそれだけのことを気にし過ぎている自分が一番面倒くさいなと思う。
四十近くになってもろくに誰とも付き合わず片想いばかりしてきたからなのだろうというのはわかっている。
重ねてきた年月を取り返すことはできないし、いくら頑張っても結人と今より歳が近くなることはない。歳が近ければもっと自信が持てたのか、異性だったならば気にせずに済んだのか、と考えたところでその仮定の場合結人とは今のような関係になっていない気がする。
果たしてこの想いを誰かに話せるかといえば悩みどころで、今日もまた真っ直ぐ家に帰ろうとしているところを会社のエントランスでむんずと腕を掴まれた。
「白崎課長、飲みに行きますよ」
「えっ……ちょっと」
世話焼き、お節介焼きの来田。
「昼休みに掴まえようとしてもふらっと消えちゃうし、今日こそは洗いざらい吐いてもらいますよ」
警察に連行される犯人の気分だ。まあ、面倒な自分でも来田はたいして気にしないだろうし、ちょっと聞いてもらうぐらいならいいかな。どこまで話すかはあとで考えることにして。
「おいしいものが食べたい」
「わかりました!」
相変わらず腕は掴んだまま来田はどこかへ予約の電話をかけているようだった。うん、大人しく連行されることにしよう。
「ケンカでもしたんですか?」
「してないよ」
直球だな。まあもともとこういうやつか。というか恋愛がらみだってばれてるし。それも今更か?
湯葉料理が食べられる半個室の料理屋で一杯目の酒とお通しが運ばれてくるなり問いかけられ、半ば諦めの境地で素直に答える。
「あ、この金平うまい」
「でしょう?……じゃなくて、じゃあなんでそんな浮かない顔してるんですか。まさか別れたとかではないんでしょ?」
「それは、ないな」
気落ちはしているが、別れる、なんて想像してもみなかった。その事実に我ながら驚く。
「ただ、僕が一人でぐるぐるしてるだけだよ」
「ぐるぐる?」
「一人でいらないことを想像して不安になって、会うのが気まずくなって、声も聞いてない」
「なんですかそれ、会って話せば解決じゃないですか」
「そう簡単に言うなよ」
コース料理を予約していたのか、酒以外注文していないのにまた店員がやってきて茶碗蒸しと海老焼売を置いていく。想像以上に料理がおいしくて、言葉を探しながら舌触りのいい日本酒がどんどん進む。
「ケンカもしてないなら、白崎課長は何をそんなに悩んでいるんですか?」
「……笑わないで聞いてくれるか」
「笑いませんよ」
「ん……なんというか、ちょっとしたことで嫉妬してしまって」
「嫉妬……誰に?」
「……元、恋人」
「ははあ……。え?浮気されたわけじゃないでしょ」
「違う。そんなことするような子じゃない」
「……っびっくりした、急に惚気ないで下さいよ」
「え、いや、別にそんなつもりじゃ……」
お猪口をぐいっと飲み干して羞恥を誤魔化す。すかさず来田が「どうぞ」と徳利を差し出し促されるまままたちびちびと口にする。
「で、なんで嫉妬したんですか?」
「全然たいしたことじゃないんだ。僕の……恋人が働いているのはカフェみたいなところなんだが、そこに相手がやってきて、楽しそうに笑い合ってるのを見た」
「……それだけ?」
「それだけだ」
本当にたったそれだけ。来田はそれでも茶化さず「なんでですか?」と問うてくれる。
「二人の姿を見て、これが普通なんだろうなって思ったんだ」
「普通……?」
「ああ。前に好きになってはいけない相手だって話しただろう。僕らは二十も歳が離れている」
「二十?!」
流石に同性ということは臥せておいた。もちろん見かけた彼女が異性であるということも含めて“あれが普通だ”と思ったのはあるが、年齢のことはいつだって気になってしまう。
「二十ってことは……高校生……?」
「高校三年だ」
「はあ~……課長ってそんな年下がタイプだったんですか」
「いや、今まではそんなことなかったよ。たまたまなんだ。年齢なんて関係なく好きになってしまった」
「……ははあ……ベタ惚れなんですね」
「まあね」
アルコールが回ってきたこともあり、唇からはするすると言葉が溢れていく。彼が、とつい言いそうになるのをなんとか我慢して他の言葉に言い換えるだけの理性はまだなんとか残っている。
「こんなに好きになるとは思ってなかったし、こんなに些細なことでずっと悩むなんて思ってもみなかった。でも、好きだから自分よりもっと隣にいるのが普通な相手がいるだろうとか、この先僕がどんどん歳をとっていって、ますます一緒にいづらくなるんじゃないかとか、そんなことばかり考えてしまってね」
「……なんというか、想像以上に課長がちゃんと恋しててびっくりしてますよ俺は」
「この前だってちょっと話しただろう」
「それはそうですけども」
ひと月ほど前にも、来田に引き連れられていった飲み会で結人のことを話していた。あの時は付き合い立てだったし、どこを好きになったとか、デートはどこに行ったとか、そんな話をしたような気がする。舞い上がって、嬉しくて、ただ聞いてほしくて。来田はとても聞き上手なのだと改めて知った。
今日だってこんなに話すつもりはなかったのに。話して心が幾分かすっきりしているのだから、感謝しなければならない。
「白崎課長」
「なんだ」
大真面目な顔で来田が見つめてきたかと思えば「いいんですよ」と微笑まれた。
「いい?何が」
「悩んだっていいんです。嫉妬したっていいんですよ。歳が離れてるってのはあるかもしれないですけど、たとえ歳が近くても、俺だって好きな相手のことになるとしょっちゅう嫉妬するし、悩みまくります」
「そうなのか」
「それが普通なんです」
「……そうか」
「ただ、それでもやっぱり我慢するのも声に出さないのも疲れますから、小出しにした方がいいと思いますよ」
「小出しに……」
「そう。相手だって嫉妬されてばっかりとか束縛されてばかりとかそういうのは疲れるかもしれないですけど、少なくとも俺は少しぐらいなら嬉しいですよ」
「嬉しい……?」
「はい。だってそれだけ相手が俺を好きって思ってくれてるってことじゃないですか」
「そんな風に思えるものかな」
「じゃあ、課長は相手が課長と同じ立場だったらどう思いますか?嫉妬されて、自分より似合う相手がいるはずだって」
結人より、僕に似合う相手……?結人だけが僕を好きだと言ってくれたのに?
「……それはないな」
「いやいや、あるでしょ!?」
ダンッと手に持ったジョッキをテーブルに勢いよくおいて来田は声を大きくする。
「あ、すみません、つい興奮して」
「……いや、構わないけど」
「白崎課長、真面目な話、白崎課長は社内でも結構モテてるんですよ」
「ええ?そんな話聞いたことないよ」
何を急に言い出すかと思えば。
ないない、と笑えば来田は、はあ、と大きなため息をついた。
「本人にモテてるなんて誰も言いませんよ。でも、白崎課長は仕事はできるし、誰にでも優しいし、上からの信頼も厚いし隙あらば恋人に立候補したいって女子社員はいっぱいいるんですよ」
「初めて聞いたな」
「だからっ、本人には言いませんしっ!」
びっくりしすぎてまた酒を煽る。来田がすかさず注文してまた酒を煽る。その繰り返し。来田もだいぶ酔ってるな。
しまいに鍋が運ばれてきて、来田はふつふつ煮立った白い海から豆腐を掬い「はいどうぞ」と甲斐甲斐しくお椀によそってくれた。そして「あのですね」と渋い顔をする。
「白崎課長も嫉妬したり、悩んだりしてると思いますけど、きっと相手もいろいろ悩んでると思いますよ」
「そうかな」
「そうです。だって、二十も年下なんでしょう?課長に釣り合う人になりたいって頑張ってる姿が目に浮かびますけどね」
と言いつつも、来田が想像するのは可愛らしい女子高校生だろうが。残念ながら結人は男子高校生で、それはもうよくモテて、頭も良くて、夢もあって。
「僕にはもったいない子なんだ」
「だから急に惚気ないでくださいよっ」
もうっ、と来田は苦笑して、あーあとため息をつく。
「俺も彼女が欲しいです」
「あれ、別れたのか?」
「別れましたよっ!この前飲んだ時話したじゃないですかっ」
「忘れてた」
「もう、俺の話全然聞いてないでしょ?」
「ごめんごめん」
「俺も課長ぐらいモテればすぐに彼女ができるんでしょうけどね」
「だからモテてないって」
真面目に返したのに来田はじーっと睨んで来て「わかったわかった」と今度は友晴の方から鍋の豆腐を掬って渡した。
来田の別れ話を聞いているうちに二十一時近くなり、お互い飲みすぎているからとタクシーを拾って駅まで移動した。自宅の最寄り駅までは電車で一本。来田と別れて各駅停車に乗り、二十分程乗っている間に多少酔いは醒め、ふらつかず歩ける程度にはなっていた。
改札を出てぼんやりと夜空を眺め、来田の言っていたことを思い出す。
嫉妬したって悩んだっていいんだ、か。それを結人がどう捉えるかは話してみないとわからない。昔から悩みを抱えて自分の殻にこもるのは悪い癖だ。一応自覚はあるものの長年の習性というのはなかなか直らない。
それに、どうやって話を切り出したらいいものか想像がつかず、どうしたものかな、としばらくその場に立ち尽くしていた。
どれぐらいそうしていただろうか、背後からとんとんっと肩を叩かれた。
「なに」
「あ、やっぱりトモだ」
「っ――ヒロくん」
「また会えたな」
「……うん」
紘唯は「あれ、酔ってる?」とくすくす笑った。
「今、会社の部下と飲んでて、帰ってきたとこ」
「トモこのへんに住んでんだ」
「うん。こっから十分ぐらい歩いたところ。君は……違うよね?」
この前会った時と同じくスーツを着てはいるが、暑さもあってジャケットは脇に抱えている。
「取引先と飲んでた帰りなんだけど、嫁さんがこの近くの店でどうしても土産に買って来いってのがあってさ」
「今から買いに行くところ?」
「そう。シュークリームなんだけど、季節限定の山葡萄味があるんだって。駅前って聞いて探してたんだけど、店の名前も外国語でいまいちわかんないし、十時閉店だから割とギリギリで……」
「ああ、それなら僕わかると思うよ。一緒に行こうか?」
「え、いいのか?」
「うん、あとは帰るだけだし」
「じゃあ、お願いしようかな」
通勤の行き帰りで必ず通る場所にその店はあった。夜遅くまで開いている分帰り道でも目に留まることは多く、“季節限定山葡萄クッキーシュー”というポスターを眺めるたび買おうかどうしようか悩んで我慢していた。
歩いて三分ほどで店に着き、ショーケースに並ぶシュークリームを二人で眺める。
「そうそうコレコレ。買ってくる」
「ん、僕は出ておくよ」
「わかった」
そのままずっと見ていたらこんな夜遅くにもかかわらず買ってしまいそうだ。入り口の外で待っていると五分も経たず紘唯は出てきた。
「ありがとう。まじで助かった」
「いや、大したことしてないし」
「そんなことないよ。あ、そうだこの前も林檎ありがとな。母さんも嫁さんもめちゃくちゃおいしいって喜んでた」
「それならよかった」
「だから、これ」
「……え?」
はい、と差し出されたのは目の前の店のロゴが入った白い箱。
「林檎のお礼と、今日のお礼」
「いや、こんなわざわざ買ってもらうようなことしてないし」
「でももう買っちゃったんだからもらってくれよ。それに、トモも食べたかったんだろ?」
「えっ、なんで」
「だってトモの顔に食べたいって書いてあったから」
「なっ……」
「トモは昔から甘いもの大好きだもんな。変わってないんだなって思ったよ」
ほらほら、と白い箱を押し付けられてしまった。人間そう簡単に好きなものは変えられない。食の好みなら、なおいっそう。昔馴染の親友には二十年の時が経っても好きなものなどお見通しだ。
「はは、もう、本当かなわないな」
「お互い様だろ?」
「どこがだよ」
笑って返すと不意に紘唯は真面目な声で「よかった、笑った」と眉尻を下げる。
「え……」
「なんか、さっき見かけた時落ち込んでるように見えたから。違った?」
「……違わない」
冗談で誤魔化せなくて、つい肯定してしまった。紘唯は「やっぱり」と苦笑する。なんでもお見通しか。
一緒にいたのはもうずっと昔のことなのに。彼は変わらず心配してくれる。
紘唯はスマートフォンをだし、「ん」とメッセージアプリのQRコードを差し出した。
「連絡先、聞いていい?」
「……ん、わかった」
コードを読み取るとすぐに友達に追加される。アイコンは愛らしい女の子の顔で「娘さん?可愛いね」と言うと「だろう?」と紘唯は途端に誇らしげな父の顔になる。
「まあ、何があったかは知らないけど、俺で聞けることなら聞くし、連絡しろよ」
「ありがとう」
彼の大きな手が頭の上をぽんぽんっと撫でる。
「なんだよ」
「あ、ごめん。子どもによくやるから癖になってんだ」
「ああ、なんかわかるよ」
「トモも誰かにしてやんの?」
「ん、まあね」
そう、たとえばこの親友は知らない恋人とか、その弟とか。
紘唯は「へえ」とにやにや笑ったが詳しいことは聞かないでいてくれた。
そのまま店の前で別れて帰路に着き、『シュークリームありがとう』とメッセージを送ると『どういたしまして』とすぐに返事が届いた。
――『これ、嫁さんと娘』
お願いしてもいないのに家族三人で撮った写真が送られてきた。
――『奥さん美人だね。あと娘さん君にそっくり』
――『そうそう、俺と嫁さんのいいところとった顔だよな』
――『自分で言うなよ』
――『だって事実だろ?』
自慢げに語る顔が目に浮かび、思わず噴き出してしまった。
――『今度また実家のこと落ち着いたら誘うから飲みに行こう』
――『わかった』
きっと飲みの席でも妻と娘自慢が絶えないことだろう。当たり前のように親友とまた話ができて、関係性を続けていけることが嬉しい。
沈んでいた気持ちも来田と紘唯の二人のおかげで少しずつ浮上して、帰宅したら結人にひとまず連絡してみようと思った。
「友晴さん」
「……結人」
まだメッセージは送っていない。電話もかけていない。それなのに自宅の部屋の前に結人が立っていた。
「ごめんなさい、こんな遅くに」
「いや、いいんだ。ちょうど連絡しようと思ってたから」
「そうなの?」
「うん……とりあえず入って」
結人は学校からそのままバイトに向かった帰りなのか制服を着ていた。詰襟はまだ暑いのかシャツ一枚でそれでも衣替えをしたからか長袖を着ているのは久しぶりに見る。
「入っててもよかったのに」
「急に来たから」
「そうか……」
合鍵を渡してからも結人は必ず一度連絡を入れてから鍵を使う。今日も連絡してくれればよかったのだが、気を遣ったのかもしれない。
部屋に入るとすぐにクロが走り寄って来て、餌をあげている間に結人にはリビングに入っておいてもらった。ソファで座って待っていてもいいのに結人はカーペットの上にあぐらをかいてじっと動かず、友晴が手に持っていた白い箱をキッチンのカウンターの上に置いた時だけ顔を上げじっと見つめてきた。
普段は結人の方からあれこれと話し始めるのにいつまで経っても沈黙が破られず、どうしたものかとキッチンでうろうろしていると「友晴さん来て」と結人の目の前をぽんぽんっと叩かれた。
「……うん」
もしかして、怒ってる……?
表情の固さはどう考えてもそうとしか思えず、気まずい空気をがまんして目の前に座った。
「なんで正座?」
「いや、なんかそういう空気だから」
「どういう空気?」
じとっと睨まれて危うく声が出そうになった。絶対怒ってるな、これ。結人は顔が整っているだけに怒るとすごみがあって、心臓がきゅっと縮まる気がする。
クロは二人の空気など知る由もなく、ソファの上で暢気に眠り始めた。僕も早くクロと一緒に寝てしまいたい。
「結人、ごめん」
「……それはなんに対しての謝罪?」
「えっ……と」
別にケンカをしたわけじゃない。今からしそうではあるけれど。ただ、怒らせたなら謝った方がいいと思っただけだ。
結人が怒りそうな理由を必死に探して答える。
「しばらく連絡とれなかった。この前も心配してくれたのに、会いに来なくていいって言った」
「それは……別に気にしてないよ。心配だったけど、友晴さんも仕事があるのわかってるし」
「えっと、じゃあなんで怒ってるんだ?」
「わかんないの?」
「……うん」
「友晴さん、今日誰といた?」
「……えっと、会社の部下と飲みに行ってた」
「えっ、そっち知らない……どおりで顔赤いと思った」
そっち?なんのことだ。
友晴が混乱している間にも「もしかしてまたあのクリタって人?」と聞かれ、なんで知っているんだろうと思ったが、そういえば先月来田と飲んだ時結人に迎えに来てもらったんだった。あの時結人は何か言っていただろうか。酒のせいで記憶が若干曖昧だ。
「俺が言ってるのは、ついさっきの話」
「さっき……?ああ、えっとシュークリーム屋にいた。ほら、あの白い箱の」
「知ってる」
「なんで?」
「友晴さんが駅でぼんやり立ってんだけど、って友達から連絡きて」
「いや、なんで友達は僕の顔知ってるの」
「写真見せたことあって……って今はそういう話してるんじゃなくて、シュークリーム屋に一緒にいた人の話してんの」
「え、ああ……えっと、古い友人で」
「“ヒロくん”じゃないの?」
「っ……」
次々に畳みかけられる言葉に頭が追い付いていかない。今、なんて言った。なんで知ってる。
「俺、友晴さんが体調悪いのかと思って、駅まで迎えに行ったんだ。そしたら、知らない男と一緒にいるし……だめだ、って思いながら二人のこと追いかけて……よく見たら友晴さんの実家で写真に写ってた人に似てるなって思った。そしたら、友晴さん、“ヒロくん”って呼ぶし……」
「いや、彼にはたまたま会っただけで」
「たまたまとかそういうの別にいいんだよっ」
結人は友晴の膝の上に置かれていた手を取ると、ぎゅっと握りしめてきた。
「友晴さんが……いつも俺にするみたいに、頭撫でてた……友晴さんも全然嫌がらないし、二人で笑ってるし……見てられなくて……」
「結人、別に彼は友達ってだけで、それ以外なにもないし」
「わかってるよっ!付き合ってるの俺だからっ……。友晴さん、今までの誰より俺のことが好きだって言ってくれた。俺しか好きじゃないって言ってくれた……でも……」
ぎゅうっと掌に力がこもり、痛いほどだった。結人はまっすぐ友晴を見つめたまま、声を絞り出す。
「だって、俺……友晴さんが初恋なんだ。どうやって友晴さんに俺だけ見てもらおうかってそんなことばっかり考えて、でも、友晴さん酔っぱらって無防備な姿部下に平気で見せるし、俺よりずっとちゃんとした大人の男の人に安心しきった顔見せるし……しかもその人友晴さんが昔好きだった人だし……嫉妬で気が狂いそうだよ」
抱えていた想いを吐き出して、きゅっと引き結んだ唇は噛みしめて切れてしまいそうだった。
痛そう、と思って掴まれていない方の手を頬に伸ばし、結人の顔を包み込むとびくっと結人は震えた。今にも千切れてしまいそうな唇に触れて撫でると「なにか言ってよ」と触れた場所が震える。
「ごめん、まさか結人がそんな風に思ってるなんて気付かなくて」
「俺はもうずっと前から何度も嫉妬してるよ。陽人にだって嫉妬して笑われた」
「そういえばそんなこともあったね」
頬に触れた手を結人の手が包み込む。そのまま引き下ろされ、もう片方の手と一緒に包み込まれた。まだ冷えるような季節じゃないのに結人の指先は固く冷えていて、緊張しているのだとわかった。
「結人、実はね、僕も最近自分を見失うぐらい本気で嫉妬したよ」
「……そうなの?」
「うん。この前の日曜日、結人の店に行った時、同い年ぐらいの女の子と話しているのを見たんだ」
「ああ、確かにあの日同級生が来てた」
「話してたうちの一人、結人と前に付き合ってたんだろう」
「えっ、なんで知って」
「千代さんが教えてくれた」
「っな――……ばあちゃん余計なことを……!」
この怒り方からして事実なのだろう。そのことがまた心を抉ったが今結人と手を繋いで話しているのは自分なのだと心に言い聞かせる。
「千代さんを責めないであげて。僕が聞かなきゃよかったんだ」
「でもっ、そのせいで友晴さん変な勘違いしたんじゃないの?」
「勘違い……はしていないつもりなんだけど……彼女に笑いかける君を見て、ああ、これが普通なのかなって思ったかな」
「それ、勘違いより悪いし」
「ん、そうだね。君と付き合ってるのは僕なのに、何を悩んでいるんだろうって思ったよ。でも、やっぱり僕はどうしたって君が歳の近い女の子と一緒にいるのを見ると、そっちの方がいいのかなって思ってしまうんだ」
「いいわけないよっ」
「うん、そうだよね、君にも失礼だと思う。こんなこと言ったら君を傷つけるって思った。だから言わずに我慢しようって……でも、今言わないとって思ったんだ」
結人は、初恋なのだと教えてくれた。好きだから嫉妬するのだと言ってくれた。
「僕も君が好きだから、好きでしょうがないから……こんな気持ちになるんだよね。ずっと好きでいてほしいと思うし、僕しか好きになってほしくないし、わがままだって思うけど、あんな優しい顔で笑うのは僕だけにしてほしいって……言ってもいいのかな」
もう言っちゃったけど、と苦笑すると、結人が強く腕を引き、その広い胸の中に包み込まれた。
「いいよっ、いくらでも言ってよ!俺だって友晴さんの安心しきった顔も、優しい顔も、困った顔も泣いた顔も俺にだけ見せてほしいよっ。できることなら会社の人だって友達だって近づかないでほしいけど……そんなの無理ってわかるから……がまんする」
「……うん、できるだけ気を付けるよ」
「ん、そうして」
結人が望んでくれるのなら、どんなことだって叶えてあげたい。無防備すぎるのだと叱られたこともあったから、自分で思うよりもっと気を付けなければいけないのだろう。
結人はしばらく苦しいほどに抱いていた腕をようやく緩め、もう何度となくそうしたように額どおしをごつん、とぶつけると「それからね」と久しぶりに見る柔らかな笑みで囁いた。
「俺が店で元カノと話してた時、アイツに向けて笑ったんじゃないんだ」
「……どういうこと?」
「怒んないで聞いてね?」
「……何?」
お伺いを立ててから、内緒話をするように結人はこそこそと白状した。
「アイツはもうただの友達で、友晴さんのことも実は話してて……あの時“今日もカレシ待ってんの?”って聞かれたんだ。だから、“そうだよ、とびきりかっこよくて可愛い人だから、惚れんなよ”って……言っちゃった」
「な……んでそういうこと、言うかな……」
「だって、俺だって母さん以外にも惚気たいしっ!アイツも一緒にいた友達も偏見ないから聞いてもらうならアイツらしかいなくてっ」
ごめんごめんっとぐりぐり額を擦りつけられ、逃げようとしたががっしりと掴まれた腕は全然緩む気配がない。友晴だって本気で逃げるつもりもない。そんなの全部わかっていて、それでもじっとしてはいられない。だって、そんなの恥ずかしすぎる。
「だから、友晴さんが心配することなんて、これっぽっちもないんだよ」
「……それはそうかもしれないけどっ」
「大丈夫だよ、アイツらむしろもっと聞かせてってうるさいんだ。友晴さんのかっこいいところも可愛いところも全部話したいけど、やっぱり惚れられたら困るからほどほどにしておくね?」
「なに言ってるかわからないよっ」
「わかるわかる!」
結人がどれだけ自分を好いてくれているのかよくわかった。あの時の笑顔は友晴に向けられたもので、完ぺきな杞憂だったこともわかった。だからこそ、愛されすぎてどんな顔をしたらいいのかわからない。
ぎゅっと閉じた瞼をほどくように、結人は眼鏡を取り去り、額にも瞼にもちゅっちゅっとキスを落とす。そのまま目を開けるタイミングを見失って頬にも鼻にも唇を落とされ、「もういい加減に」と言おうとしたら唇を塞がれた。
あっと思わず目を開くと結人がじっとこっちを見ていて慌てて再び目を閉じた。
結人の瞳の中に映る自分は、ただただ結人が好きなのだという顔をしている。こんなにもわかりやすいのに、こんな顔を他の誰にも見せるわけがないのに、結人は心配して、嫉妬して、結人にだけ見せてほしいのだと言う。
でも、そうやって求めてくれるからこそ、友晴が抱えていた同じような気持ちを正直に結人に話すことができた。
「結人、嫉妬してくれてありがとう」
「それ、ぜんぜん嬉しくないよ」
「だって、これも結人がくれた初めてだから」
「……そうかなあ」
「ん、そうだよ。嫉妬してもらえるのって嬉しいんだね」
「まあ……それはわからなくないけど……でももう嫉妬したくない」
「そうだね」
「でも友晴さんはなあ……モテるからなあ……」
「そんなことないよ」
「あるし!」
ごろん、とそのままカーペットの上に押し倒された。結人も隣に寝転び、ぎゅうっと腰を抱きしめられる。肩に顎を乗せて「それに」と話すから吐息が耳元にかかってくすぐったい。
「あのシュークリームの人と連絡先交換したでしょ」
「見てたの?」
「うん、消して、とは言わないけど……」
彼の名前は出さないところに結人の気持ちが滲み出ている。
「結人が心配するようなことは本当にないんだよ。だって彼結婚してるし、子どももいるよ」
「……そうなの?」
「うん、家族写真送ってきて自慢された」
「へえ……」
ぎゅうっとしがみつかれたまま、なんとかスマートフォンをポケットから取り出し、「ほら」とメッセージに送られた写真を見せた。
「じゃあ、俺達の写真も送って」
「えっ」
「……うそだよ。そんな本気で困った顔しないで」
ごめん、と言われてなんだか申し訳なくて結人の頭を抱きしめる。
「いつか、彼にも言えたらいいな」
「無理しなくていいよ」
「んーん、無理じゃないよ。言っていいかどうかはゆっくり判断する」
「ん、そうして。友晴さんが傷つくのは嫌だ」
ただの友達だと言っても嫉妬するのに、彼との関係が壊れないよう心配してくれる。結人の優しさが愛おしい。
他の誰になんと言われても、絶対に好きだと言ってくれる。好きでいてくれる。
本当はね、結人が好きでいてくれるなら、他の誰に傷つけられてもいいよ。でも、きっと結人は僕が傷つくのを見て傷つくから、結人のために僕は慎重になるよ。
「ありがとう、結人」
「ん、友晴さんも、いっぱい話してくれてありがとう」
「うん。不安になったら声に出すよ」
「そうして、俺もそうするから」
嫉妬も、不安も、悲しみも、それから好きだという気持ちも、何度だって声に出そう。
「あ、そうだ、林檎」
「林檎……?」
「うん、あとで林檎食べよう。母さんにいっぱいもらったんだ」
「そうなんだ」
ふっと思い出した真っ赤な果実。床に落として傷ついた林檎。食べられないけど捨てられなかった。ちゃんと綺麗に剥いたらきっとおいしい。
「いっぱいあるけど、結人と二人で食べたらあっという間だろうね」
「そうだね……アップルパイ作ろうかな」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「作ってくれるだろうな、って思ったから」
「作るよ、友晴さんが食べたいなら」
「食べる」
作ってもらおう。甘い甘いアップルパイ。痛んだ林檎もきっともっと甘くなる。
結人がいれば、食べられない林檎はない。
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