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スーパーで会った日からキッチン・小森に行くと結人の方から話しかけてくるようになった。
「いらっしゃい、白崎さん」
「こんばんは」
いつもの席についたところで結人は近づいてくると、メニュー表を差し出しながら微笑んだ。
「今日のオススメは辛子明太子の乗ったポテトサラダでございます」
「へえ、おいしそう。じゃあそれと……」
「鰆の塩焼き?」
メニュー表のページをめくりながら指さす前に当てられた。
「……うん」
「かしこまりました。白崎さん、鰆好きですよね」
「――ん、そうだね」
クイズが当たった子どもみたいに嬉しそうにするものだから、可愛いなとまた言ってしまいそうになって変な間ができてしまった。でも結人は気にする様子はなく「少々お待ちください」と笑顔で去っていく。
これは懐かれている、んだよなあ。初めて会った日のことを思うと嘘みたいだ。敵意むき出しで睨みつけてきていた大型犬が今や出会いがしらにしっぽを振って飛びついてくるような感覚。それはなんだかくすぐったくて何度でも味わいたくなってしまう。
「いい子でしょ」
「――……千代さん」
不意に千代が満面の笑みで話しかけてきてどきりとした。もちろん視線の先にいるのは結人だ。
「そうですね。千代さんが言ってたとおり、すごくいい子で一緒にいると癒されます」
「そうそう。あの子の明るさや優しさは一種の才能だと思うの」
「そうですね」
「でも、春休みもずっとバイトしてるし、友達と遊ばないの?って聞くと別にいいんだ、って言うし、ちょっと心配にもなるのよね」
「……わかる気がします」
「そう?」
「はい。この前、お家のことすこし聞いたんです」
「そうだったの。あの子が家のこと言うなんてめずらしい」
「そうなんですか?」
「そうよ。接客業は笑顔だって繁人さんにたたきこまれてるから店ではあんなだけど、一歩外に出ると無愛想で、口下手で」
「そう、なんですか」
家のことも店のことも饒舌に話す結人を知っているので嘘みたいな話のように思えたが、初めて会った日の結人を考えると彼が心を開くには時間がかかるのかもしれないなと思った。
「困ったことがあったらすぐ言うのよって言っても、家のことは大丈夫だからって」
なんとなくわかる気がした。家のことも祖父母のことも大事にしている結人があえて心配をかけるようなことは言わないだろう。
「お母さん――千代さんにとっては娘さんになると思うんですけど、なんておっしゃっているんですか?」
「それが……」
千代の表情が暗くなる。踏込すぎたかなと思ったが、千代は苦笑して話し始めた。
「結人と娘はよく似ているんです。親子だから当然の話かもしれないけれど、たとえ本当に困ったことがあっても『大丈夫』って昔から言うような子で。そんなところ似なくてもよかったのに。結人がここでバイトしているのも少しでも家計にお金を入れるためらしいんだけど、そんなことしなくてもいいぐらい娘もよく働いているの。お恥ずかしい話なんですけど、そんな調子で仕事ばかりの子だから、なかなか連絡もつかなくて。結人がバイトを始める前に『迷惑かけたらごめんね』って言ったんだけど、そんなの私からすれば大したことじゃないのに……」
「いい娘さんなんですね」
「いい娘かしら?もう少し甘えてくれてもいいと思うの」
困った子よね、と千代は苦笑する。
「白崎さんにこんなこと言うのもあつかましいと思うんだけど結人の話、ときどき聞いてあげてもらえないかしら」
「ええ、僕でよければ」
「ありがとう」
断る理由なんてなかった。いつも家族の温かさを思い出させてくれる千代の力になりたかった。それに結人と一緒にいるとむしろ友晴の方が癒されてばかりで、彼の力にもなりたいな、と思った。
「お待たせいたしました――って、ばあちゃん、また白崎さんのことつかまえてっ」
ちょうど結人がやってきて、「また余計なこと言ったんだろ?」と皿と盆を手に頬を膨らませる。
「はいはい、ちょっと話してただけじゃない――……ごゆっくり白崎さん」
「はい」
千代が去ったあと「ばあちゃんすぐ話長くなるから」と結人は言ったが、祖母の背中を見つめる瞳には愛情が見てとれる。
「千代さんと話すの楽しいよ?」
「白崎さん変わってんなあ」
ははっ、と笑って結人は持ってきていたものを差し出す。
「はい、ご注文のポテトサラダと鰆の定食でございます」
「わっ、おいしそう」
「ん、おいしいですよ」
実は俺もまかないで昨日食べたんだ、と内緒話みたいに耳打ちされる。吐息が耳にかかってあわてて距離をとったが結人は「どうかした?」と首を傾げる。
「いや、なんでもない」
「そっか――じゃなくて、そうですか」
「別に気にしてないよ」
「いや、俺が気にする」
真面目だなあ。でも、気づいていない時もあるし、言ってあげた方がいいんだろうか。いや、他の客への対応を見ている限り問題なさそうだし、僕だから……?
「白崎さん」
「はいっ」
思考を見透かされたかと思った。でも、そうではなかったようで、結人は他に客がいないのをちらちらと確認してから「あのさ」と言葉を続けた。
「今日、また途中まで一緒に帰っていいですか?」
「え、いいけど。どうしたの?」
「ちょっと相談したいことがあって」
千代に話を聞いてあげて、と言われたばかりだ。そうでなくても頼りにされるのは嬉しい。
「わかった。もう仕事終わるの?」
「うん、ありがとう!」
ぱあ、と花のように笑顔を咲かせ、うっかりまた見惚れてしまった。気づかれぬよう視線をそらし「いただきます」と手を合わせる。結人が去ってからも頭の中は彼の笑顔でいっぱいで、ポテトサラダにかかったマヨネーズがなんだかとても甘く感じた。
「お待たせしました」
「いえいえ」
食事を終えるまでに結人が着替え、春の夜道を並んで歩いた。そこかしこにコブシの花が咲いていて、月夜に浮かび上がった白色と結人の横顔がとても合うなと思った。
「それで、相談って?」
つい目的を忘れかけそうになり問いかけると結人はまったく予想していなかった問いを口にした。
「四十歳の女の人って何をもらったら喜ぶと思いますか?」
「四十歳の女の人?……ってなんでまた」
まさか好きな相手がそんなに年上とか――、
「その……母さんがもうすぐ誕生日なんです」
「あ、ああ」
なんだ、そういうことか。そりゃそうだ。
「バイト代は実のところ受け取ってもらえなくて、自分のために使うか貯金しておけって言われてるんですけど、それじゃいやなんです」
千代が言っていた通りだ。
「でも、母さん頑固だから。誕生日プレゼントだったら受け取ってくれると思うんですよね」
「確かに。喜ぶだろうね」
「でしょ?」
本当にいい子だなあ。お母さんもさぞ喜ぶことだろう。
「でも、それなら千代さんに頼んだ方がいいんじゃないかな?僕なんてそんな参考にならないよ」
「ばあちゃんに頼んだりなんかしたら母さんにすぐばれると思います」
「そうかな?」
あんまり連絡とれないって言ってたけど、これは結人は知らないことなのだろうか。
「そうです。普段はそんなに話もしないのに、俺のことになるとなんでかすぐ二人で盛り上がって……」
ああ、そういう。愛されているってことだよ、と言いかけて僕がそれを言うのもな、とやめておいた。
「だから、白崎さんしか頼れる人がいないんです」
「……そうかなあ」
「そう!歳も母さんと近いし」
「そう、だね」
確かにもう四十近い身ではあるけれども。ってなにをショックを受けているんだ僕は。
「だから、お願い!」
立ち止まり、両手を合わせられた。
きっと結人から見れば友晴は人並に女性と付き合ったことのある男性というイメージなのだろう。彼は友晴がゲイだということは知らない。だから異性愛者で友晴の年齢ともなると当然女性がどんな贈り物をされたら喜ぶか知っていると思われたのか。ただ、残念ながら友晴には女性と付き合った経験などあるはずもなく、どうしたものかと途方に暮れた。そして、ちくりと胸の奥に小さな棘がささったような気がしたが、気のせいだと自分に言い聞かせる。
結人は両手を合わせたまま、ちらっと視線だけを上げて見せる。いつもはすこし見上げる彼の顔が頭を下げているせいでとても近い。
「白崎さんじゃないとだめなんだ」
「っ」
なんで、そういうことを言うかな。
「……わかったよ」
「ほんと?!じゃあ、今度のお休みの日、付き合ってもらっていいですか?」
「えっ」
急に話が飛躍したぞ。
「プレゼント買いに行くの、ついてきてください!」
「ええ……助言だけじゃだめ?」
「だって、言われても実際どれがいいかわかんないと思うし、いつもうちの店に来る前の時間って買い物されてますよね?」
「そ、そうだけど」
キッチン・小森に日曜出向く前はたいてい日用品の買い物袋を提げていくので、嘘はつけない。しかも、相変わらず結人は頭を下げたまま、上目遣いで「だめ?」なんて言うから、本当にずるいと思った。
「わかったよ」
「やった!ありがとう、白崎さん!」
「!」
瞬間右手を引かれ、気づいた時には小指どうしを絡められ、ぎゅっと力をこめられる。
「約束ね」
そう言って彼は無邪気に笑う。あれよあれよと言う間に話が進み、日曜日の朝、駅前で待ち合わせようと連絡先まで交換することになってしまった。
帰宅して、クロに餌をやっていると普段はほとんど鳴ることのないスマートフォンがピロンと新着通知を知らせる。
――『日曜日、楽しみにしてます。よろしくお願いします』
一文のあと、すぐにもう一度ピロンと音がして、スタンプが送られてきた。スマートフォンの画面の中で丸くて白い犬がぺこり、と動作付きで頭を下げる。目がくりっとした白い犬はどことなく結人に似ていて笑みがこぼれた。
――『頼りになるかわかりませんが、よろしくお願いします』
すぐにまたピロンと返事が届いた。
――『白崎さんは頼りになります!』
そしてまた白い犬のスタンプが送られてくると、まるっこい犬は『むきぃっ』という効果音とともに腕が太くなった。
「ふっ、なんだこれっ」
思わず噴き出してしまった。愛らしい犬と極太の腕がミスマッチでなんとも可笑しい。結人はどんな顔でこれを送っているのだろう。
足元ではクロがかまってほしそうににゃーん、と周りをぐるぐる歩いていた。
「そうだ、クロ、おいで」
にゃ、と一瞬声を出したクロを抱え、ソファに腰かけて膝の上に乗せる。クロは撫でてもらえると思ったのかくるんと体を丸めた。
「動くなよ」
滅多と使わないスマートフォンのカメラを立ち上げ、カシャッとクロを写真におさめた。
――『うちには猫がいます』
――『うわっかわいい!でもなんで猫?』
きょとん、と白い犬が首をかしげたスタンプとともに返された返事に、確かに、と自分でも思った。
――『いや、君が犬を送って来るから』
――『猫を送っておこうと思って?』
――『そうです』
そうですってなんだ、そうですって。何してるんだろうな。自分の行動に頭を抱え、うーんと唸っているとクロが撫でないの?と言いたげに見上げてきた。それと同時にまたピロンと音が鳴る。
――『白崎さんって可愛いよね』
「え?……え?」
見間違いかと思い何度か見返したが、見間違いではなかった。
――『猫が可愛いの間違いだろう?』
――『あ、ごめんなさい、失礼なこと言ったかな?』
失礼なことというか、なんというか。
――『だって僕は四十近いおじさんだし』
――『白崎さんをおじさんなんて思ったことないです』
いや、いやいやいや。だから、なんで。なんで君はそういうことを言うの。若者ってみんなこうなのかな?
クロを抱きしめて身悶えていると、『ごめんなさい』と返事が届いた。
――『初めて会った時、似たようなこと言われて怒ったのは俺なのに。白崎さんの気持ちちゃんと考えてなかったです。怒らせてしまいましたか?』
しょんぼり、そんな効果音がつきそうな白い犬が送られてきて、参ったな、と思った。
――『怒ってないよ。冗談だろうなって思ったし。そんなに気にしてない。君はあの時傷ついたんだよね。僕の方こそごめん。僕は大丈夫だよ』
――『白崎さんに謝ってほしいわけじゃないんです!俺はもう気にしてないから。白崎さんがいい人だって知ってます。だからあなたを怒らせたのかな、と思って焦りました。大丈夫って言ってもらえてよかったです』
スマートフォンを見つめる瞼がじんわりと熱を持つ。一文字一文字もう一度読み返し、瞬きをしたら涙が落ちた。
僕は、いい人なんかじゃない。君に頼られて、優しくされて、喜んで、舞い上がって。年甲斐もなくはしゃいでいるんだ。
どうしよう、彼が好きだ。
どうして彼と連絡先なんて交換してしまったんだろう。もう誰も好きにならないと思っていたのに。息子ほども歳が離れた男の子に恋い焦がれてしまっている。
初めて会った日に好みの顔だなんて思ったのがいけなかった。きれいだなんて言ったのがいけなかった。信用して話を聞いてあげてと言ってくれた千代の信頼を裏切るつもりなのか。そんなことはできはしない。彼に恋などできはしない。
もう誰も傷つけたくない。
返事をなんて返したらいいかわからないまま画面を見つめていると、ピロンともう一度音が鳴った。
――『遅い時間まですみません。仕事で疲れてますよね?わがままばかりでごめんなさい。おやすみなさい』
時計を見るともう日付をまたごうかという頃だった。膝の上ではクロがすやすやと寝息を立てている。
時間なんてすっかり忘れていた。わがままなんて思いもしなかった。もう彼から返事が来ないと思うとさみしい。でも、あす以降また会話ができるかもしれないと思うとそわそわしている。
二十年近く前に置き去りにしてきた感情があとからあとから溢れて止まらない。
僕はまた大事な人を傷つけてしまうのだろうか。温かくて優しいものを壊してしまうのだろうか。
それでも結人との『約束』を破ることはできない。
約束を守ったら、彼から離れよう。そう決めたらしだいに心が凪いでいった。
もう傷つくのは自分一人だけでいい。
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