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 昼間の出来事のせいかその夜の夢には友晴の母親が出てきた。夢の中なのに現実に引き戻された気がしたが、母親は記憶の中に色濃く残る悲しそうな顔ではなく、幸せそうに笑っていた。母親は何か箱を持っていて、友晴のことを穏やかに見つめている。そうか、これは母さんの誕生日だ。  ――「なにかしら?」  ――「開けてみて」  母親も友晴も笑っていた。詰襟の制服を着ているから中学の時のことだ。学校でバイトは禁止だったし両親にもお金のことなら心配いらないから学業に専念するようにと言われていたので、友晴は毎月一度もらうお小遣いをほとんど使わずとっておいた。もとから遊ぶことより勉強の方が好きで、筆記用具か本を買うことぐらいにしか使っていなかったが、たまには友達と外食だってしてもいいと言われても大事な時のためにと貯めていた。 友晴にとって一番大事なのは家族の誕生日で、母親にはいつも決まってハンドクリームをあげていた。専業主婦の母親は水仕事で手荒れが尽きず友晴のプレゼントをとても喜んでくれていた。  ――『ありがとう。友晴はいい子ね』  ――『いい子って歳じゃないよ』  ――『母さんにとってはいつまでもいい子よ』  目が覚めて、脳裏に残る母親の笑顔を思い出し胸が苦しくなった。思い返せば母親が泣いている顔などあの頃は一度も見たことがなかった。  高校三年の “あの日 ”初めて母親が泣くのを目にした。 「幸せな夢だったのにな」  母親の笑顔を思い出せば思い出すほど、あの日の涙の記憶が色濃くなる。母親を泣かせてしまった。それは友晴にとって罪の意識として今も心の奥深くに残っている。  いつもはつい大きいなと思ってしまう寝起きのクロの声が聞こえず、どうしたのかと思えば枕元でくるんと体を丸めて眠っていた。目覚まし時計のライトを付けるとまだ四時前だった。  そのまま再び眠りにつくこともできず、ぼんやりと天井を眺める。思い出すのは一番つらいと思っていた頃のことばかりだ。  母親の泣き顔を初めて見た日の翌日、熱が引いてから父親に自分が同性しか好きになれないということと、大学に合格したら一人暮らしをさせてほしいことを伝えた。商社に勤め仕事一筋で生きてきた父は寡黙で基本的に家庭のことに細かく口を出してこない人だった。その父が静かに言った。 「正直俺には同性を好きになるのは理解ができない。今後理解できるようになるとも思えない」 「うん」 「……もう、治せないんだろう」  治せない、その言葉から自分の性嗜好を病気と思われたんだろうなと思った。でも、しかたのないことかもしれないとも思った。今まで当たり前のように妻を愛し、子どもたちを愛してくれた人だ。異性を愛せなければ今こうして友晴は生きていない。 「そうだよ」  きっぱりと告げると「すまなかった」と父は頭を下げた。そんなことしてほしくなかった。でもそうさせているのは紛れもなく自分だった。 「家のことを母さんに任せきりにした俺にも責任があるだろう」 「父さんのせいじゃないよ」 「……そうだとしても、母さんはそう思っていない。自分のせいだと責めている。だから、お前が距離を置きたいというならそれでもかまわない。父さんにとってはお前たち子どもと同じように母さんのことも大事だ」 「……知ってる。ごめんなさい、父さん」  父の優しさがつらかった。いっそ軽蔑して突き放してくれた方が楽だったかもしれない。そう思うのと同時に、こんな自分でも家族として見捨てないでいてくれることに泣きそうになるのを必死にこらえた。自分のせいで今まで両親や兄が守ってきたものを壊し、それなのに自分はただ逃げることしかできない。どうやって償えばいいのかもわからなかった。  それ以降少しずつ家の中の会話がぎこちなくなり、次第に両親も友晴も口数が減っていった。事情を知らない兄は静かな家の中で誰よりよく話し、友晴にも話を振ってきたがすぐに会話は途切れてしまった。そうして気遣ってくれていた兄から笑みが消えたのは数日後の朝のことだった。 「兄さん、おはよう」 「……」  あれ、と思った。いつも笑顔ですぐに挨拶を返してくれる兄が視線も合わせず部屋に引き返して行った。そしてリビングに行くと母がまた泣いていた。 「ごめんなさい」 「え?」 「昨日、私がお父さんに話しているのを聞かれてしまって」  誰に、なんて聞かなくてもわかった。  また母さんに謝らせてしまった。悲しい顔をさせて、泣かせてしまった。父さんももう何も言ってくれない。  それから家を出るまでの間はひたすら勉強をしていた記憶しかない。一人になるしかないのだと自分に言い聞かせ、大学を合格し、本当に一人になった時、正直ほっとしたのを覚えている。もうこれで誰の悲しい顔も見なくていい。そう思うのと同時にもうあの家には帰れないかもしれないと思った。  大学へ行くための学費も生活費も積み立てをしていたからと通帳まるごと渡され、賃貸契約も父親が済ませ、四年分の家賃も予め支払ってあった。  友晴が考えることと言えば、今まで大事に育ててくれたことや今後の生活にも経済的にも何の不安もないよう準備していてくれたことに対してどうやって恩を返したらいいか、自分がしてしまったことへの償いをどうすればいいのか、そればかりだった。  せめて一人でも自立して生きていけると知ってもらおうとそれだけ考えることにした。積み立ての通帳にはできるだけ手をつけず、友晴は家庭教師のバイトを始めて、それを生活費にあてた。幸いにも勉強は得意だったし人へ教えることも苦ではなかった。  初めてバイト代をもらった時は生活費をきりつめて母親への誕生日プレゼントを買った。大学入学を控えた春、母親への誕生日プレゼントを渡せなかったことがずっと心残りで、いつものようにハンドクリームを買い、すぐに郵送した。  そして、一週間後母親から葉書が届いた  ――『プレゼント、ありがとう。ちゃんとおいしいものを食べて、よく眠って、元気でいてね』  友晴はその葉書を見つめ、一人暮らしのがらんとした部屋の隅で静かに泣いた。自分は確かに愛されている。そう信じさせてくれる母親の優しさが心からありがたかった。それと同時にそんな母親を泣かせてしまった後悔は心に深く刻まれた。  その後も友晴は毎年欠かさず母親の誕生日には必ず贈り物をした。変わり映えのない贈り物にもかかわらず母親はいつもお礼の葉書を返してくれた。  家に帰ることはできなかった。いくら言葉で愛情を感じたとしても自分の性嗜好も変わらなければ家族の悲しみも変わらない。  帰省しないかわりに、誕生日の贈り物だけではなく季節ごとに葉書を送った。  ――『父さん、母さん、兄さん、元気ですか。僕は元気に過ごしています。無事に大学も卒業することになり、春から商社の経理部で務めることになりました。自分には不相応なほど大きな会社で緊張していますが、精いっぱい働きます。今まで育ててくれてありがとう』  いつも最後にごめんなさい、と書きそうになり、何度も謝られても困らせるだけだと思い感謝の言葉で締めくくった。  真面目に働き、預けられていた通帳を元の金額に戻してから送り返し、両親に仕送りも始めた。  両親からは一度通帳を送り返されたが、せめて今まで育ててもらった分と大学に行かせてもらった分と返させてほしいと頼み仕送りを続けた。  そして、三十歳になった春、父親から電話がかかってきた。仕送りはもういらない、ということと、もうそろそろ帰って来たらどうだ、と父は言った。 『母さんももう大丈夫だと思う』 「そうかもしれないけど、今さらどんな顔で会ったらいいかわからないよ」 『そうか……』  父親は無理強いをしない人だと知っていた。いつかは帰るべきなのだと頭の中ではわかっていたが、タイミングを掴みかねていたのも事実だった。沈黙が流れる中、口を開いたのは父親の方だった。 『友晴が大丈夫になったら帰ってくればいい。いつでも待ってるから』 「ありがとう」 『あと、今日電話したのはそれだけじゃないんだ』 「……なに?」 『実は、晴一(せいいち)が結婚することになった』 「そうなんだ、兄さんももう三十二だもんね」 『ああ、少し遅かったぐらいだ。もうじき招待状が届くと思うから、式にだけは出てやってくれ』 「……わかった」  さすがに断ることができなかった。それにこんな機会でもなければ両親にも兄にも再会する勇気は出なかっただろう。  それでも兄は本当に自分と会いたいと思ってくれているのだろうか、と不安に思ったが、兄からの招待状が届き、封筒の中には兄からの手紙が入っていた。  ――『もう家のことは心配するな。友晴はお前の好きなように生きればいい。父さんも母さんも、俺も友晴のことが大好きだよ。今まで連絡できなくてごめん。久しぶりに会いたいよ』  手紙を持つ手が震えた。両親と兄の想いをすこしでも疑った自分を責めた。  式にはきちんと出席した。ただ、十年以上も顔を合わせていなかったから両親とも兄ともうまく会話ができず、披露宴でも黙々と食事をとっていただけだった。  兄はとても幸せそうだった。友晴にも一言だけ『お前も幸せになれ』と言ってくれたが、友晴はなんて言葉を返したらいいかわからず、ただ兄の笑顔を見つめ返すことしかできなかった。  その後、ほどなくして兄には子どもができ、両親は兄嫁と孫にかかりきりになった。  兄にはその後も実家に帰ってくるように言われたが折角兄嫁を囲んで幸せそうにしている両親に水を注すのが申し訳なくて、結局帰れずじまいで歳をとっていった。  四十歳を間近にする今も、友晴は実家に帰ることができないまま、猫と一人と一匹の生活を続けている。  母親への誕生日プレゼントは今年もすでに準備してあり、あとは送るだけという状態にしてあった。 ――「母親に誕生日プレゼントで何かあげたくて」  朝陽がカーテン越しに部屋にさしこむ中、照れくさそうに笑った結人の顔を思い出す。  結人のことが好きだ。結人には幸せであってほしい。もちろん、彼の母親にも。  夢から覚めたくないと思うのに、友晴の母親の顔を思い出しては切なさで胸がいっぱいになり、身動きがとれなくなる。  彼との約束は守ろう。でも、絶対にこの気持ちを知られてはいけない。夢から覚めないためには自分の気持ちに蓋をするしかない。  さよならはできないけど、君の笑顔を守りたいよ。  わがままで身勝手でどうしようもない大人だけれど、ただそばで見守ることを許してほしい。
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