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翌週、いつものように水曜日の夜キッチン・小森に出向くとドアの向こうから何やら言いあっている声が聞こえた。
「トマト残すやつにはデザートはなしだからな」
「えーっ!」
店内中に響く子どもの声。カウンターの中にはいつも通り小森夫婦がいたのだが言い合う声は二人のものではない。二人の視線の先には、小森夫婦と同じくカウンターの中にいる結人と、目の前のカウンター席に座る小さな子どもがいた。
七、八歳というところだろうか。椅子にはランドセルがかけられており学校帰りに寄り道したのだとわかる。
結人は友晴と目が合った瞬間「あ」と小さくこぼし、気まずそうに視線をそらした。そうして今度はカウンター席に座っていた子どもと目が合ったが、子どももまた「あ」と固まりさっと視線をそらした。あれ、なんか、今ーー。ふっと頭に何か浮かんだが、そこへ千代の声が降ってくる。
「白崎さんごめんなさいね、うるさくて」
「いえ」
千代は申し訳なさそうに告げるとカウンターから出てきて「どうぞどうぞ」と招かれる。店内には他の客はまだおらず、なんとも言えない雰囲気の中、いつもどおり窓際の席に腰かけた。
ちらりとカウンターの方に視線をやればもう言い合いはおさまっているものの結人がじーっと子どもを見据えていて、子どもは目の前に置かれた皿と結人とを交互に見比べている。
「あの、あちらのお子さんは……」
メニュー表を広げながら耐え切れず問いかけると、千代はふふっと小さく笑った。
「孫その二、よ」
「その二……?」
「結人の弟なの」
「あ、……あー……」
そういうことか。友晴は先程感じた何かの正体を見つけ一人頷く。そういえば結人もこの前弟がいるって言っていたな。
兄弟の顔がそっくりかといえばそうでもない。全体の雰囲気は違うし、兄は癖っ毛の茶髪だが弟はストレートの黒髪で一見兄弟には見えない。ただ、少し下がり気味の眉毛や唇の形などところどころ似ているところがある。兄弟なのだから当然の話だが、あまり似ていない二人の顔が友晴と視線が合った瞬間重なった。
「それで、今二人はケンカしてるんですか……?」
なんとなくこそこそと小声で聞いたのだが、千代は特に声を抑えることもなく「そんなんじゃないのよ」と笑う。
「お兄ちゃんが弟に好き嫌いするんじゃないって言い聞かせてるだけなの」
「好き嫌い……?」
「そ。ね、お兄ちゃん?」
「そうです」
「!」
急に話を振られ、びくりとしたのは当然結人ではなく弟の方だった。
「ほら、ばあちゃんにも言われてるぞ」
「うっ、だって~。嫌いなもんは嫌いなんだもん」
兄からの追撃に弱々しく弟が返すものの兄の表情は変わらない。子どもの目の前にはオムライスが乗っていたであろう白い皿にプチトマトだけがきれいに残されていた。どうやらトマトが嫌いらしい。
「おいしいだろトマト。ケチャップは好きなくせに」
「ケチャップとトマトじゃ全然ちがうもんっ。トマトは口に入れたらぐにってなるからいやなのっ」
「ぐにっ、なんてなんねーだろ。ぱくって食べちゃえば同じだよこんな小さいの」
「ゆみにいにとってはそうでもボクにはちがうのっ」
「じゃあプリンはなしな」
「やだー!」
「ふっ、ははっ!」
「!」
友晴が急に噴き出したせいで結人と弟の視線がいっぺんに集まった。
「ああ、ごめんごめん。拗ねた顔がそっくりだなあ、って思ってつい」
「……ゆみにいが拗ねるの?」
「おいこらっ」
友晴の言葉に先程まで半べそを書いていた子どもはきょとん、と友晴を見返してくる。まんまるの大きな瞳は興味津々に見つめてきて愛らしさに笑みがこぼれる。その後ろで焦り出した結人がまたなんとも可愛い――というのは心の中にしまっておく。
友晴は席を立ち、子どもの隣に腰かけると「そうだねえ」と頷いた。
「結人くんも拗ねると君と同じような顔するんだ」
「へえ」
「ちょっと、白崎さんなに言ってんですか」
「あらあら、お兄ちゃんが焦ってるわ」
「ばあちゃんまで余計なこと言うなよっ」
「ははっ」
繁人まで笑い出してしまった。
お兄ちゃんの面目が丸つぶれだが、子どもの顔はすっかり笑顔になり、いたずらっぽく友晴に問いかけてくる。
「ボクね、ゆみにいの苦手なもの知ってるよ」
「へえ、なになに」
「いや、白崎さんも聞かなくていいから」
「まあまあ」
焦って身を乗り出そうとする結人を宥め、続きを促す。
「ゆみにいは犬が苦手なの」
「えっ?」
あんな白い犬のスタンプ使ってるのに?問いかけるように結人の方を見れば、掌で赤くなった顔を押さえている。へえ、ほんとなんだ。
「意外だね。でも、そのことと君がトマトを食べられないことは関係ないよね?」
「うっ」
突然確信を突いた問いかけに子どもは慌てて目をそらしたが、友晴は笑顔で続ける。
「お兄ちゃんがなんでプリン作ってくれると思う?」
「……ごほうびだから」
「なんの?」
「ボクががんばってトマト食べるから」
「そうだよね。がんばれ、のプリンだよ。お兄ちゃんは君がトマト食べられるって信じてるんだ。応援してくれているんだよ」
「……うん」
「食べられるよね?」
「……」
お皿のそばに置いてあったスプーンでトマトを掬い、差し出す。子どもはそっぽを向いていたが、しばらくして友晴の顔と結人の顔を見比べると「あ」と口を開いた。
「いい子だね」
「ん」
ぱくり、と口の中に入れ、もぐもぐと咀嚼する。うーっと小さく唸りながら、なんとか飲み込んだ。
「えらい。よし、じゃあ、残り一個は僕が食べてあげる」
「え、いいの?」
「ん、いいよね?」
「うんっ」
子どもの方と結人の方を見て聞いたのだが、結人はなぜか目を丸くしたから「ん?」と首を傾げると、渋々といった様子で頷いた。ぱくり、と口の中にプチトマトを入れて子どもに笑って見せる。
「おいしいね」
「おいしくは、ないかなあ」
「ははっ、そうか。そうだね」
えらいえらい、と頭を撫でてやると子どもは「ありがとう」とにっこりほほ笑んだ。その笑顔はやっぱり結人とそっくりで、うっかり赤面しそうになり、げほんっと誤魔化すように咳払いをした。
「じゃあ、僕は戻るから」
「ええっ、ここにいていいよ」
「え」
きゅっとスーツの裾をつままれ、引き留められた。カウンターの中では繁人がふふっと噴き出して「気に入られちゃったなあ」と笑っている。背後で千代も「子どもの扱い上手なのねえ」と微笑んでいた。
「えーっと、じゃあ、ここで食べようかな」
「うん!」
元気な返事に思わず微笑んだのだが、あと一人結人だけが無言のままで、どうしたのかと見てみれば、そっくりだと言った拗ね顔がそこにあった。あれ……?
「ごめん、余計なことしたかな?」
「……いや、助かりました。俺すぐケンカになるんで」
家族のことに口を出されて怒っているのかと思ったが、結人はすぐに表情を柔らかくしてむしろ申し訳なさそうに苦笑した。なんだ、気のせいだったのかな。
「白崎さん、今日は何食べますか?」
「んー、じゃあ、僕もオムライスにしようかな」
「かしこまりました」
その後はいつも通り料理を出してもらい、しだいに店の中に他の客も増えてきて小森夫婦も結人も給仕に追われていた。友晴は料理を待つ間暇を持て余していたし、結人の弟と話をすることにした。
「名前はなんていうの?僕は友晴だよ」
「ともはる……トモくん?」
「ははっ、なんかそれ懐かしいな」
「懐かしい?」
「うん。昔友達にそうやって呼ばれてた」
呼ばれた瞬間どきり、としたが、「じゃあトモくんね」と無邪気な声に反論する気にもならずそのままにしておくことにした。
「ボクは、陽人。小学二年です」
「あれ?僕と半分同じだね」
「うん!トモくんのハルはなんて書くの?ボクのは太陽の陽だってお母さんに教えてもらった」
「そうなんだ。僕はね、晴れの日のハル。なんだか意味まで似てるね」
「ほんとだ!」
太陽さんさんっ、と陽人は楽しそうに歌い出す。さほど大きな声でもなかったので保護者三人も特に何も言ってくることはなく、周りの客も微笑ましそうにこちらを見ていた。
そうしているうちにカウンターの向こうから友晴のオムライスと陽人のプリンが差し出された。
「お待たせいたしました」
「ありがとう、結人くん」
「ごゆっくりどうぞ」
もう結人は拗ねた顔も怒った顔もしておらず、いつもの笑顔だった。なんとなくホッとして「いただきます」と手を合わせる。
オムライスは外はふっくら、中身はとろとろの絶妙な具合で口の中に入れるとほろほろ溶けた。
「ん~、おいしいっ」
「それはよかった」
繁人も嬉しそうに笑う。オムライスを堪能していると横からまたくいくいっとスーツの裾を引かれた。
「どうしたの?陽人くん」
「あのね、トマト半分食べてくれたから、プリンもはんぶんこしよ」
「そんな、いいよ。僕はトマト大好きだし、プリンは陽人くんのご褒美じゃないか」
「んーん、はんぶんあげる。トモくんへのありがとう、のプリンだよ」
「陽人くん……」
あげる、と言って聞かない陽人は、いつかの結人を思い出させた。
――「これは俺の気持ちなので」
そういえば、あの日もプリンだった。
「わかった。じゃあ半分もらうね」
「うん!ゆみにいのプリンおいしいんだっ」
「あ、これ結人くんが作ったプリンなんだ」
「うん、売り物じゃないぞって言ってた。トクベツなんだよ」
「へえ」
結人にとってプリンにはありがとう、とか、がんばれ、とか、いろいろな想いが込められた大事なものなのだろう。それはきちんと弟の陽人にも伝わっていて、こうして半分こにしようと言ってくれる。兄弟なんだな。
「トモくんもきっと好きになるよ」
「……そうだね」
もう好きだよ、とは言わずに、結人の方をちらりと見るとほんのり頬を赤く染めてぷいっとそっぽを向いてしまった。可愛いな、ほんとに。
繁人に皿をもう一枚もらい、半分、と言いつつ遠慮して三分の一程プリンをわけてもらった。
表面がカリカリの焼きプリンはやっぱりとてもおいしくて、優しい甘さがした。
「すみません、最後まで陽人の相手させて」
「全然構わないよ。楽しかった」
結局閉店の時間まで店にいて、陽人とずっと話をしていた。小森夫婦にも「陽人のことまでありがとう」と何度もお礼を言われ恐縮するほどだった。
陽人ははしゃぎ疲れたのか最後はうとうとし始め、今は結人の背中に背負われぐっすりと眠っている。
すっきりと晴れた春の夜道を並んで歩きながら心もなんとなくふわふわしている。
「白崎さん、なんであんなに子どもの相手うまいんですか?弟いましたっけ?」
「いや、僕は兄が一人いるだけだよ」
「へえ、弟だったんだ」
「見えなかった?」
「はい。一人っ子かと思ってました」
やっぱり結人は鋭い。正直今の友晴は家族とほとんど会っていないので、兄の気配は薄い気がする。
「兄はとても面倒見がいい人なんだ。さっきのトマトのことも、昔兄が僕にああやって嫌いな物が食べられるようにしてくれたから、その真似をしただけだよ」
「いいお兄さんなんですね。というか、結人さんにも嫌いなものなんてあるんですね」
「僕にだって嫌いなものの一つや二つぐらいあったよ」
「へえ、なになに」
興味津津といった様子で聞いてくる顔は陽人にそっくりだった。まだまだ結人も子どもなのだ。
「ピーマン」
「えっ、ピーマンの肉詰め大好きじゃないですか」
「いや、だから嫌いなものがあっただけで、今はおいしく食べられるようになったよ」
「なーんだ。今はないのか」
残念そうな顔をするから「大人になると味覚は変わるんだよ」と笑った。
「確かに俺も昔は嫌いだったものでも今好きなものって結構あるかも」
「だろう?」
「うん」
「あ、でもそういう君にも苦手なものがあるんだっけ?」
「あっ、それは忘れてくださいよっ」
白い頬がまた赤く染まり、たまらずふふっと笑ってしまう。
「忘れられるわけないだろう。あれだけ犬のスタンプ送ってきておいて、犬が苦手なんてっ……ふっ、くくっ」
「もう、白崎さん笑いすぎですよっ」
ぷりぷり怒る様子がまたあのスタンプの犬によく似ていて笑いが止まらなくなってしまう。でも、このままではどんどん拗ねてしまうな、と思いなんとか笑いをひっこめた。
「ごめんごめん。でも、なんで犬苦手なの?」
「そこ掘り下げます?」
「掘り下げるね。気になるし」
「もう~……そんなたいしたことじゃないんですよ。小学生の時、近所に住んでる犬の繋がれてる鎖がとれて、しばらく追いかけ回されたんで、それがトラウマになってるだけです」
「うわあ……思ったより可哀想な感じだね」
そんなことされたら誰だってトラウマになるだろう。結人は「でもね」と苦笑して続ける。
「あとから母さんに聞いてみたら、その犬トイプードルだったらしくて、ただ俺に構ってほしかっただけだったみたいなんです。周りで見てる大人からすれば何をそんなにこわがってるんだって笑い話で」
「でも君にとってはトラウマになっちゃったんだ」
「ですね」
「ははあ……それは可哀想に」
「全然気持ちがこもってないんですけどっ」
「ごめんごめん」
可哀想だな、と思ったが、可愛いなあと思ったのも事実だった。
「まあ、今は吠えられなければ平気です。見るだけなら可愛いなって思うし。スタンプの犬も綿菓子みたいで可愛いなって思って買っちゃったんですよ」
「まあ、確かにあの犬は可愛い」
「でしょ?」
スタンプの犬に罪はない、と二人でまた笑った。それからしばらく黙って歩いていたが、不意に結人が歩みを止めて友晴のことをじっと見つめてきた。
「なに?」
「あの……」
結人にしては歯切れが悪く「ん?」ともう一度促すと、結人は「お願いがあるんですけど」と言った。また買い物に付き合ってほしいとかそういうことだろうか、と思ったが、まったく予想とは違うお願いをされた。
「俺も白崎さんのこと名前で呼びたいんですけど、だめですか?」
「……名前?」
「はい。陽人がその……トモくんって言ってるの聞いて、さすがにそんな風には呼べないんですけど、友晴さんって呼んじゃだめですか」
「……あー……えっと」
まさかそんなことをお願いされるとは思わず返答に詰まった。陽人が愛称で呼んでくるのと結人が名前で呼ぶのとでは友晴にとって全く意味合いが異なる。でも、結人からすれば弟より付き合いの長い自分だけいつまでも苗字なのは、と思っているのかもしれない。それを無碍に断るのも変だろうか。
「だめですか?」
「っ……」
また、その上から見てるのに上目遣い。ほんのわずかに傾げられた首はわざととしか思えなかったが、友晴には断るという選択肢はない。
「いいよ」
「やった!ありがとう、友晴さん!」
「……どういたしまして」
しぼりだした声は震えていなかっただろうか。今、僕は顔が赤くなっていないだろうか。夜道ではっきりと肌の色まで見えるような状況じゃなくてよかったと心底ほっとした。
結人はるんるんと歌でも歌い出しそうな様子で、背中に陽人を背負っても軽い足取りで歩いていく。友晴もその後を追いかけながら熱くなる頬をごまかそうとできるだけ結人とは反対側を向いて歩いた。
「そういえば、お母さんにはプレゼントあげた?」
沈黙を保つのもなんとなく気まずくて尋ねると「まだです」とすぐに返事が返ってきた。
「母の誕生日、ちょうど今度の土曜なんですけど、家族三人でレストランにランチ食べに行こうって話してて」
「へえ、楽しみだね」
「そうなんです。母さん普段は仕事バリバリしてて、土曜も出勤していることが多いんですけど、家族の誕生日は絶対に一緒に過ごしてくれるんです」
「想像以上にいいお母さんでびっくりだね」
「でしょ。あんまり家事は得意じゃないんですけど、稼いでる分記念日はおいしいもの食べるぞってはりきってて」
「ははっ、そうなんだ。でも食べに行くのはご両親の食堂じゃないんだね?」
「じいちゃんとこ?それはないですよっ」
だって繁人も千代も家族だろう、と思ったが、そういうわけにはいかないらしい。
「だって、いつも俺達のこと任せっきりで、ちゃんと母親らしくしてないって負い目に感じてるんです。自分の誕生日だからって顔を見せるなんて申し訳ないっていつも言ってます」
「きっと、そんなことはないんだろうけどね」
「ですよね。俺も別に母さんが母親らしくないなんて全然思ってないんですけど、そこは母さんがこじらせてるところなんで」
「そうか」
友晴はなんとなくわかるな、と思った。友晴も別に帰ろうと思えば帰ることができる家がある。それでもいつまでも決心がつかずにいるのだから、理由は違えどまだ連絡を時々でもとっている結人の母親の方が状況的にはいい方だろう。
「別に仲が悪いわけじゃないもんね」
「はい。母さんの誕生日だから、母さんの好きにしたらいいかなって思います」
「うん、そうだね」
結人の背中には今背負っている弟の重みだけではなく、様々なものが背負われているのだろう。そんな気がした。まだ高校生なのに大人びて見えるのは彼の家庭環境から来るもので、せめて自分の前では等身大の彼であってほしいと思った。結人が名前を呼びたいと言ったのはいいきっかけかもしれない。
歳は子どもほども離れているが、友晴と兄のような、近すぎず遠すぎない存在として彼の支えになってあげたい。
「お母さん、プレゼント喜んでくれるといいね」
「そこはまったく心配していません。だって、友晴さんと二人で選んだものですから」
「……ん、そうだね」
心の中の願いに寄り添うように結人は優しく笑う。
君はどうしていつも僕が一番ほしいと思う言葉をくれるんだろうか。
結人にもらったラベンダーのコロンはまだ箱の中で眠ったまま、封を切ることすらできずにいる。
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