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 四月に入ってから会社には新人が配属され、一週間過ぎた頃には基礎研修を終えてそれぞれの部署で本格的な研修が始まる。友晴の所属する経理部にも新卒の社員が入社してきて、今年四年目になる来田は指導係として慌ただしく動いているようだった。  金曜日の昼、久しぶりに食堂でゆっくりと話す機会を得た時には来田はどことなくやつれて見えた。 「どうした、なんか疲れてるな」 「どうしたもこうしたもないですよ課長」 「ははっ、弱ってんなあ。新人そんなに大変なのか?」 「大変というかなんというか」  相変わらずのカツカレーをガツガツと頬張りながら、来田は指導係としての役目がいかに大変か語り続けた。予想はしていたが、そもそも礼儀がなってないとか、こちらが聞くまで困っていることを教えてくれないとか、新卒にはありがちなことばかりだった。 「遅刻は?」 「してないですね。時間はちゃんと守ってます」 「ふうん、じゃあミスした時はきちんと謝ってくるか?」 「それはまあ、言葉ではね」 「それなら君が新人の時よりはマシだな」 「えっ、俺そんなでした?」 「そんなだったよ」  まさかそんなと目を丸くする来田に苦笑して食後の茶を啜る。来田の指導係は友晴だった。 「五分前行動しろって言ってもいつもギリギリに来るし、あらかじめ準備しておけとわざわざ言っておいたことは忘れるし、挙句今みたいに『そうでしたっけ?』って謝る前にとぼけてたな」 「うわっ、ひどいですねそれ」 「君のことだよっ」  他人事のように言うものだから呆れを通り越して噴き出してしまった。 「まあ、君の場合はなんだかんだ器用だから自分のミスは自分でフォローするし、最後はきちんと謝るし、僕はそこまで困ったなとは思わなかったけどね」 「白崎課長は褒めて伸ばすタイプだったので俺は本当に助かりました」 「今更褒めても何も出ないよ」 「わかってますって」  残りひとつのトンカツを頬張り食べきる頃には来田はからっといつもの笑みを浮かべていた。まあ最初からただ聞いてほしいだけだろうということはわかっていた。  来田のように裏表のない人間は付き合うのが楽だ。甘えるところは甘えてくるし、できないことを無理にしようとしない。  今の新卒というと、結人と四歳ほど違うわけだが、来田の話を聞いているとやっぱり結人は大人びている。繁人や千代の教育もあってのことだろうし、仕事熱心な母親に似たところもあるのだろうが、義理堅く、礼儀正しく、そして何より底抜けに明るくて優しい。千代いわく学校では大して明るくもなくむしろ無愛想らしいし、先日の元クラスメイトという女の子への態度から考えても頷ける。そんな結人が友晴には気を許し、頼りにしてくれることは純粋に嬉しくて誇らしさすらある。  こうして何かにつけついつい思い出してしまい、ふわふわと空に浮かんだ風船のようにどこまでも高く昇っていけそうな気がするのだが、日に日に大きくなって、もはや破裂しそうになる想いを持て余しているのも事実。  それを見透かしたかのように来田が「課長は最近よく百面相してますよね」と笑った。 「どういう意味だ」 「そのままですよ。なんかちょっと前、ほら、プリン食べてた時から。ふわふわの笑顔だったかと思えば、急に思いつめたような顔してるし、ちょっと心配してるんですよ」  俺なりにね、と来田は真面目な顔で言う。能天気なように見えて鋭いところのある部下に苦笑して「大丈夫だよ」と返した。 「君に心配をかけるようなことじゃない」 「俺じゃ頼りにならないってことですか?」 「そういう意味じゃない。人間そっとしておいてほしいこともあるだろう」  良心から言ってくれているということはわかったが、来田に結人のことは話せない。自分の感情を持て余しているのもあるし、説明しようとすれば結人の家庭事情まで話さなければいけなくなってしまう。 「心配をかけたなら悪かった」 「そう思うなら、笑っててくださいよ。課長が元気ないとうちの課全体の雰囲気がなんだかくらーくなっちゃうので」 「そうだな。気をつけるよ」 「でも、無理に笑ってほしいわけじゃないんで、俺で聞けることならなんでも言って下さいね」  わざとらしく来田はウィンクまで投げかけてきた。ははっと笑みがこぼれ「そうそうそれ!」と頷かれ、敵わないなと思った。  心の中からあふれそうになる不安の種が大きくなってしまわないように。なにごともなく笑っていられますように。友晴は祈った。  結人から連絡が来たのは土曜日の夕方のことだった。家の中の掃除を一通り済ませ、ココアを飲みながら読書をしているとスマートフォンがいつものようにピロンと鳴った。  ――『友晴さん、今から会えませんか』  ――『どうしたの急に。今日、お母さんと陽人くんとランチに行くって言ってなかったっけ?もういいの?』  ――『行ってきました。でも、今は一人です』  一人、という言葉が気にかかり、『今どこ?』と返しながら本を置き、マグカップを片づける。部屋着のスウェットからシャツとジーンズに着替ていると返事が来た。  ――『駅前の喫茶店にいます』  ――『わかった。今から行くから、待ってて』  ――『ありがとうございます。ごめんなさい、お休みの日なのに』  ――『いいんだ。特に何か用事があるわけでもないから』  返事を送ってからジャケットを羽織り、家を出た。  十分後には喫茶店に辿り着き、店内を見回すと一番奥の席に結人は座っていた。白いVネックのTシャツにグレンチェックのタイトなセットアップという彼ほどスタイルがよくなければ着こなせなさそうな服装だったからすぐにわかった。 「お待たせ」 「友晴さん……」  目の前に腰かけて顔を見る。結人はすぐに口を開きかけたが、閉じてから友晴にメニュー表を差し出した。 「ああ、ありがとう」 「いえ」  メニュー表に目を落としながら友晴はちらりと結人の顔をもう一度見た。彼の顔には影が落ち、とても先程まで家族で楽しく誕生日を祝っていたようには見えなかった。目元が腫れている……?泣いたのか。まさか、結人が?  動揺を悟られまいと店員を呼び、ロイヤルミルクティーを頼んだ。すると結人は「友晴さんならきっとそれにすると思った」とようやく笑った。 「甘くておいしいからね」 「うん。俺もそれにした」 「……そうか」  会話が途切れた。ほどなくしてミルクティが運ばれてきて、店員が去っていくと結人は話し始めた。 「俺、もう母さんとも陽人とも一緒にいられないかもしれない」 「どうしたの、急に」  結人の頭の中の整理がついていないのかもしれない。刺激しすぎないように友晴は努めて冷静に問いかけた。 「なんでそう思ったのか、話してくれる?」 「……はい。今日、母さんと陽人とレストランに行ったんですけど、個室を予約してあって、俺達が部屋に入ったらすでに一人いたんです」 「どういうこと……?」 「母さんに、その人と再婚しようと思っているって言われました」  結人の話からまさかな、と思ったことが当たってしまった。確かに今まで母子家庭でずっと過ごしてきた結人にとって母親の再婚話は驚いたことだろう。 「でも、なんでそれで君が一緒にいられなくなるという話になるのかな」  できるだけ穏やかに問いかけたが、結人は声を詰まらせて「すみません」と口を手で覆った。きっと今日のためにとびきりオシャレをしたのだろう。いつもだったら胸を張って笑っているのに、彼は肩を落とし指先を震わせて今にも消えてしまいそうだった。 「無理に今すぐ話さなくていいから。場所、変える?」 「……っ、ごめんなさい」 「謝らなくてもいいんだよ。つらいのは君だ。出よう。僕の家においで」 「……いいんですか?」 「いいよ。ちょうど掃除したところだし、そんなに散らかってはいないと思う」  伝票を持って立ち上がると「友晴さんの家、全然散らかってるイメージないや」と結人は小さく笑った。 「会計は僕が済ますから、これで目元拭いて、それからゆっくり出ておいで」  まだ使っていなかったおしぼりを結人に渡すと一瞬目を見開いて静かに頷いた。 「ありがとうございます」 「ん、いいよ」  彼の力になりたい。悲しみを少しでもやわらげてあげたい。今はそれだけしか考えられなかった。  部屋に入るとクロがにゃーんと鳴いてとととっと走り寄って来た。そういえばまだ餌をあげていなかったな、と思い出してドライフードをやっていると後ろから着いてきていた結人が「写真より可愛い」とその場にしゃがみこんだ。 「だろ?クロっていうんだ」 「クロ?真っ黒いから?」 「そう。わかりやすいだろ」 「そうですね」  クロを他人に会わせるのは初めてだったが、幸いにもご飯に夢中で逃げる様子もない。結人がそっと手を伸ばして撫でると一瞬びくっとして、また餌にかぶりつく。 「くくっ、食いしんぼだね」 「だろ?朝も早くからご飯で起こされて困ってるんだ」 「困ってるって言いながら友晴さん笑ってるよ」 「あ、ばれたか」 「ははっ」  結人がいつものように無邪気に笑う。それを見られただけでも連れてきて正解だった。 「ミルクティ入れてあげるよ」 「あ、ごめんなさい、友晴さんお店で全然飲んでないのに」 「いいんだよ」  座って、と促してリビングを指さした。結人より先にクロがソファの上にぴょんっと飛び乗り、くるんと体を丸めたので、結人はクロの前に座りじーっと眺めていた。その様子を微笑ましく見つめながらゆっくり時間をかけてミルクティを入れる。マグカップを二つ持ってリビングに行く頃には結人はカーペットの上であぐらをかき、膝の上にクロを乗せていた。 「人懐こいですね」 「僕も今クロがそんなに人懐こいのを初めて知ったよ」 「そうなんだ」  テーブルの上に自分の分のマグカップを置いて友晴も隣に腰かける。どうぞと結人のものを勧めると結人はマグカップを受け取りその水面を見つめながらぽつりぽつりと話し始めた。 「なんか、すごく気を使わせてしまってごめんなさい」 「謝らなくていいって言っただろ」 「ん、ありがとうございます」 「それで?」 「……うん。何から話したらいいのかな。でも、友晴さんにはずっと言わないとなって思ってたことがあるからそれから言うんだけど」 「なに?」 「俺、自分の顔が嫌いなんです」 「顔……?」  意外な言葉に問い返したが、すぐに友晴は初めて会った日のことを思い出した。きれいだ、と言われて不快感をあらわにしたこと。今でも忘れはしない。 「自分で言うのもなんなんですけど、俺、昔から男なのに可愛いって言われることが多かったんです。今はこんな体格になったから可愛いなんて言う人も少ないけど、子どもの頃は体も小さくて、女子によく間違えられました」 「そうだったんだ……ということは、僕は初めて会った日に君の地雷を踏んでしまったというわけか」 「まあ、そうですね。可愛いって言われるのが嫌で、空手を習ってみたり、毎日走り込んでみたりして。成長期がきたらあっという間に身長が伸びたんで小学校の高学年になる頃には女子に間違えられることはなくなっていきました。それでも俺より体格が大きいやつにたまに女顔だってからかわれることはあって、正直うんざりだったんです」 「それはまあ、きっとひがみとか嫉妬もあっただろうね」 「俺もそう思います。だからできるだけ気にしないようにしてたんですけど、俺が中学に入学する直前に両親が離婚して、こじらせました」 「え、ご両親の離婚がなんで」 「俺、父親似なんです」  話が飲み込めず黙っていると結人は苦々しい顔で続けた。 「陽人が産まれてしばらくして、両親の仲がぎこちなくなってたのは子どもながら薄々感じていて、母さんが離婚の話をしてきた時もさして驚きませんでした。俺の中学入学の手続きを済ます前に離婚が決まって、この町に引っ越してきました」 「初めからここにいたわけじゃないんだね」 「はい。まあ俺も前住んでたところに思い入れがあったわけでもないし、母さんの通勤にも支障がないって言うからいいかなと思って。それに何より小学生の時に俺のことからかってきた奴ともさよならできてちょうどいいやって思ってました」 「確かに、そうだね」  結人はミルクティを飲んでふうと一息つくと「そこまではよかったんですけど」と声を低くする。 「俺、なんで離婚したのかは聞かされてなくて。ある日ポストに父親からの手紙が入っているのを見つけて、今さら何のつもりだって破って捨てようとも思ったんですけど、母さん宛だったからせめて中身を確認してからにしようと思って」  悪い子どもでしょ、と茶化したが、結人は笑っていなかった。だから友晴もあえて何も言わずにいたのだが、結人が発した言葉に耳を疑った。 「俺の父親、ゲイだったんです」 「……え……」 「ほんと、え?って思いますよね。手紙には母さんへの謝罪が書いてありました。母さんと結婚しておきながら本当はずっと好きな男がいたんです。その男のことが忘れられなくて、母さんや俺達と一緒にいる幸せを感じながら、心のどこかで後ろめたく感じていたって。本当に申し訳なかったって書いてあったけど……そんなこと言われても、俺には全然わからなかった。結局アイツは母さんを悲しませて、無責任なことをして、俺達のことを見捨てたんだ。手紙はがまんできなくて燃やして捨てました。あんなの、とても母さんに見せられなかった。俺は、折角もう女にも間違えられなくなったのに、あんな父親の顔に似ているせいで、時々母さんが俺を見て切なそうな顔をするんです。母さんは、確かにアイツのことを愛してたのに……俺……俺……」  友晴は頭の中が真っ白になっていた。結人の言葉は聞こえてくるのに、彼の力になってあげたいと思うのに、自分は彼に一体どんな言葉をかけてあげられるというんだろうか。  それでも今、結人が頼っているのは友晴だ。彼は友晴がゲイだと知らない。それならば、彼が信じた大人の一人の人間として言葉をかけてあげるしかない。 「結人くんは、本当にお母さんのことが大好きなんだね」 「……そうだよ。母さんと陽人が世界で一番大事です。でも、母さんは新しい男と再婚したいって言ってる。そのこと自体はいつかこうなるかもしれないって覚悟してました」 「それなら、なぜ……?」  核心をつく問いに結人は俯いて、声を震わせて告げた。 「母さん、『もう頑張らなくてもいいのよ』って言ったんです。『新しいお父さんは家のことをしっかりしてくれるから、結人は学業に専念して、大学だって好きなところに行けばいいし』――……」  そこで言葉が途切れた。結人の握ったマグカップの水面に、ぽたり、と雫が落ちる。 「『家を出て、一人暮らしをしたらいい』って……俺、そんなつもり全然ないのに……家のこと無理に頑張っていたつもりもないし、勉強だっておろそかにしたこともないし、ましてや……家を出るつもりなんてかけらもないっ」 「……結人くん……」  マグカップの中だけでなく、握りしめた彼の手の甲の上にもいくつもいくつも涙が落ちて流れていく。  友晴はただ結人の背中を撫でて、涙が止まるのを待った。結人はマグカップをテーブルの上に置くと、服が汚れるのもいとわず裾で涙を拭こうとするものだから友晴はティッシュをとって結人に差し出した。 「あ、りがとう……友晴さん」 「ん、いいよ。大丈夫、ちゃんと聞いてる」 「ん、うん。友晴さん、俺、母さんにも、再婚するって言ってた相手にもひどいこと言った」 「そうなの?」 「ん、っ……うん。『俺は絶対再婚なんて認めない、俺達だけで十分だ。俺のことなんて放っておいてくれ』って」 「……そうか」 「そしたら……ははっ、俺、ひっさびさに母さんに殴られた」 「え?……はたかれた、とかじゃなくて?」  殴られた、という割にどこも赤くなっていない。どこを、と探していたら結人はここ、と側頭部を指さした。 「ぐーぱんだよ。痛かった……」 「あ……ほんとだ、なんかたんこぶできてる」 「はは……もうさ、ひどくない?」 「まあ、そうだね」 「陽人は泣き出すし、相手の男の人も目白黒させてさ……あんな凶暴な女、よく結婚しようと思ったよね」  いつの間にか結人の涙は止まっていた。でも、声では笑っていても目も口も笑っていない。 「それでも、君にとっては世界で一番大事なお母さん、なんだもんね」 「……そう。そうなんです。困るよ」 「そうだね」  よしよし、と頭を撫でてやると、いてて、と言うから一度その場を離れ、濡れタオルを取って来てあげた。クロはと言えばいつの間にかソファの上で眠っていて暢気だなあと笑ってしまった。 「はい、冷やして」 「ありがとうございます」 「どういたしまして」  再び隣に腰かけてすっかり冷めてしまったミルクティを二人で飲んだ。結人は泣き疲れたのか黙ってしまい、しょうがないな、と友晴から口を開いた。 「結人くん、とりあえずお母さんともう一度ちゃんと話した方がいいよ」 「……ん、俺もそう思います。全然冷静じゃなかった」 「そうだね。きっと君が受け取った言葉以外にもお母さんにはいろんな想いがあると思う。それをしっかり聞いてあげて」 「うん、そうします」 「ん、いい子だね」  よしよし、と陽人に以前したように殴られたのとは反対の方の頭を撫でてあげた。すると結人は「それいいね」とはにかんだ。 「いい子いい子、なんてもうずっとしてもらってなかった」 「そういう歳でもないしね」 「まあね。きっと母さんにされてもばあちゃんにされても何すんだって怒ってた」 「だろうね」 「でも、この前、友晴さんが陽人にしてあげてた時は、正直うらやましかった」 「え」  結人は静かに笑って、今まで頭を撫でていた友晴の手を引き寄せるとぎゅっと握った。 「なんでだろうな、友晴さんの手、俺好きなんだ」 「っ……」  真正面から全く身構えてなかったところに突然言われた一言に息を飲んだ。  どうして君はそんなことを言うんだ。  自分の父親がゲイだって、その父親に顔が似ているのが嫌だってさっき言ったばかりだろう。  男の、しかも父親とさして年齢のかわらない友晴に “好き ”と言う理由。そんなの、彼が友晴に父親の理想像を思い浮かべているのではないか、とそんな風に思ってしまう。  友晴と兄のように近すぎず遠すぎない相手になりたいと思った。結人の力になってあげたくて、彼の悲しみを取り去るためならなんだってしてあげようと思った。  それなのに、僕は今、どうしてこんなに傷ついているんだ。  もう傷つくのは自分一人で十分だと思っていた。たとえ傷ついたとしても彼のそばにいたいと思っていた。  こんなはずじゃなかったのに、と思っているだろうか。違う、これは想像とは少し違うだけの、十分にありえた現実だ。  結人の言葉を心の中にしまい、もう一度しっかりと蓋をして、友晴は口を開いた。 「今日はもう遅いから、帰りなさい」 「……友晴さん」 「ん?」 「今から言うことは本当にわがままだってわかってる。でも聞いて。俺、今すぐ母さんと陽人に合わせる顔がないんだ。だから、お願い」  だめだ、と思っても結人は言葉を止めてはくれない。 「今日だけここに泊めて」 「……」  すぐには返事を返せなかった。でも、このあとどうなるかもわかっていた。 「お願い、友晴さん。だめ?」 「……わかったよ」 「ほんと?やったっ。ありがとう、友晴さんっ」  結人は握っていた友晴の手に更に反対の手も重ねて、両手でぎゅっと包んできた。その手の温かさが心地いい。さっきまで涙を拭って震えていた指先が友晴の手を握って放さない。その事実にめまいがしそうだった。  さっき蓋を閉じたばかりの想いが溢れ出しそうになる。だめだ。お願いだから出て来るな。 「ちゃんと、お母さんには連絡するんだよ」 「わかった」  それが友晴が今口に出せる精いっぱいの優しさだった。  窓の外はすっかり暗くなっていて、春の夜空に三日月が浮かんでいる。月の満ち欠けのように想いにも際限があればよかったのに。そうして少しずつ欠けては満ちて、大きくなりすぎないようにできればいいのに。そんな想像をすることでしか自分の気持ちの誤魔化し方がわからなかった。
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