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こんなはずじゃなかったのに。そうやって何かを悔やんだことが今まで何度あっただろう。日常の些細なことから人生を変えてしまうような大きな事まで思い出したらきりがない。自分で変えようと思えば変えられたこともあったが、どうにもならないことも少なくはなかった。
今この瞬間出くわしているのは間違いなく前者だ。
「なにジロジロ見てんの」
「え」
日曜日の昼下がり、キッチン・小森のランチタイムはもうじき終わりを迎えようとしている。友晴は今春何度目かの鰆の塩焼き定食を食べ終え、食後のデザートを待っているところだった。「お待たせ致しました」という声に顔を上げると、長身の青年が軽く腰を曲げ、デザートとして頼んでいたスフレチーズケーキと紅茶を差し出した。そこまで何も問題はなかった。
最初はただ新しい店員さんだな、と思い、彼の顔を見た瞬間、そのまま視線を動かせなくなってしまった。
あ、好みの顔だ。そう思ったら目が離せなくて、気付いた時には彼が眉をひそめ見返してきていた。ただ視線をそらせばよかったのかもしれないが、ぼそりと聞こえた彼の言葉に気付けば正直に答えてしまっていた。
「きれいだな、と思って」
「は?」
「君の、顔が」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
「……俺だってこんな顔に生んでほしかったわけじゃない」
「え」
ぼそり、と聞こえた言葉に後悔がますます大きくなる。初対面の店員と客という関係で、しかも同性にきれいだなんて言われても困るに決まっている。
「ごめん、いきなり変なこと言って」
「……いえ。こちらこそ失礼いたしました。――ごゆっくりどうぞ」
軽く頭を下げはしたものの彼は目も合わさぬまま去って行ってしまった。最後の一言は決して本意ではなかっただろう。こんな、もうじき四十路になろうというおじさんにいきなり顔がきれいだなんて言われて。テーブルの上に置かれた大好きなスフレチーズケーキを前にしても友晴はいっこうに食べ始める気になれなかった。
君の顔が好きなんです、と言わなかったのはわずかな理性が働いたからだが、彼の反応から察するにどちらでもさして変わりはなかったのかもしれない。
気まずさを誤魔化すように眼鏡を外し、鞄の中の小物入れにしまってあった眼鏡拭きを取り出した。はあ、とため息ごとレンズにふきかけゆっくりと拭く。ぼやけた視界の中で長身の彼の背中がカウンターの中に入っていくのが見えた。
遠くから見てもわかる。あの青年が顔だけではなくスタイルもよくて、きっとそこそこ、いやかなりモテるのだろうな、ということ。百八十センチ近い長身にくわえて人並より肩幅もある。それでいて腰はしっかりと引き締まっているので筋肉もある程度ついていそうだ。パリッとアイロンのかけられた白いシャツとキッチン・小森の制服である深緑のネクタイとエプロンを身に着けているだけなのにモデルのようにかっこよく見える。髪は染めているのだろう、ちょうど友晴の大好きなスフレチーズケーキのような飴色だ。歳は大学生ぐらいだろうか。そういえば耳にシルバーのピアスもつけていたような気もする。この店バイトの募集なんかしていたっけな、とぼんやり考え、はっと我に帰る。
こんなに事細かに憶えているほどじっと見つめられればジロジロ見るなと思われても当然だろう。
はあ、ともう一度あふれ出たため息をまたレンズに吹きかけてようやく眼鏡をかけ直した。
さきほどよりクリアになった視界の中、スフレチーズケーキのつやつやの表面がなんとも眩しかった。
キッチン・小森のスフレチーズケーキ。それは町の人には十年以上前から愛され続け、一度食べた人はもう一度と思わずにいられない人気のスウィーツだ。表面に塗られた杏ジャムはつややかな飴色で、ふんわり焼き上がった生地と合わさってうっとりと見惚れてしまう。ほどよく水分を含んだ生地はフォークを入れるとさくっと切れて、口の中に含んだ瞬間、柑橘の甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
友晴もキッチン・小森のスフレチーズケーキのファンの一人だ。東京の隅っこにあるこの町で生活を始め二十年ほど経とうとしているが、足繁く通いすっかり店主とも顔なじみになっている。
ここはカフェというより和食も置いている町の食堂といった雰囲気で、美味しいのはケーキだけではない。ランチ・ディナーともに営業しているが定食がいくつかあり季節ごとに内容が入れ替わる。どれも家庭料理を思わせる一品が入っており、三月に入ってからロールキャベツ、新玉ねぎのステーキ、菜の花の御浸し、それから今日食べていた鰆の塩焼きがメニューに加わった。
友晴が来店するのはおおよそ週二日。平日仕事が終わってから帰り道に寄るのと、今日のように日曜ふらりと散歩に出かけ、駅前で本や日曜品などの買い物をすませた帰り道。ランチタイムぎりぎりの時間だ。
ドアを開けるとカランコロンとドアベルが鳴り、もうじき還暦を迎えるという店主の「いらっしゃい」という優しい声に出迎えられる。視線が合うとにっこり微笑まれ、切れ長の目じりの皺がくしゃっと寄せられる。昔はさぞ男前でモテたことだろう。そんな彼の背後からひょっこり小柄な女性が顔を覗かせるのもいつものこと。
――あら、白崎さんいらっしゃい。
――こんにちは、千代さん。
また来ちゃいました、と言うと、彼女は「毎日来たっていいのよ?」と優しく微笑み、「そうだそうだ」と店主が笑う。キッチン・小森は、この仲睦まじい夫婦二人で切り盛りしている。二人の笑顔に出迎えられるとまるで温かい実家に出迎えられたような心持ちになる。きっと常連さんがここへ通うのはそういった温もりを求めるのも大きいのだろう。友晴も美味しいご飯とケーキだけでなく、二人の温かさが心地よくて、何度となくここへ足が向いてしまう。
毎週日曜日、このお店の温かな笑顔と料理と大好きなスフレチーズケーキを堪能して、また来週から頑張ろう、と言い聞かせるのがいつものこと。
そんな日常に今日変化が生まれた。
「いただきます」
改めてフォークを手に取る。いつも通りの美味しい定食、そして食後のスフレチーズケーキ。ゆっくりこれを味わい「また来ますね」と別れを告げる予定だった。
こんなはずじゃなかったのになあ、と思いながら口にしても、スフレチーズケーキはいつも通り甘酸っぱくてとても美味しかった。食べ終わってしまうのがもったいない、といつも思ってしまう。でも、今日ばかりは早く帰った方がいいだろうか。
窓から差し込む温かな春の日差しを感じながら、うーんとフォークを持ったまま考える。ケーキは残りあと三分の一程。
「あの」
「え」
不意に声がして顔を上げると、そこには先程の青年が立っていた。またじっと見つめてしまいそうになり慌てて目をそらす。すると彼は気まずげに口を開き掌に乗る程の小さな器を差し出した。白い陶器に入ったそれはバニラアイスだった。
「えっと、僕は頼んでいないと思うんだけど……」
「いえ、店長から……その、お詫びに」
「え、繋人さんから?」
ちらりとカウンターの中を見ると、店主が苦笑を浮かべてぺこりと軽く頭を下げている。
「どうして?」
「それは、さっきあなたに失礼なことをしたから」
「失礼なこと?――……ああ、いや、あれはむしろ僕が悪かったのであって」
「いえ、“常連さんに失礼な態度をとるな ”と。常連じゃなくても多分言われたと思うんですけど、あなたは特によく来て下さっているから、しっかりお詫びをするように言われたんです」
「そう、ですか」
「はい」
アイスクリームはお詫びのしるし、というわけだ。店の中に残っている客はもう友晴一人ということもあり、カウンターの中からも「すみませんね、うちの孫が」と店主の声が届く。
「孫?」
「そうなの、うちの孫なのよ」
青年の後ろから千代もやってきて彼の背中をたたく。
「ほら、挨拶」
「……結人です」
渋々といった様子で名乗り、結人がぺこりと会釈する。
「こんな無愛想だけど本当はいい子なの」
「余計なこと言うなよ」
すぐさま低い声が聞こえたが、千代は「もう」と頬を膨らませる。
「なにが余計なことなの?本当のことじゃない。バイトだってたいしてお給料あげてるわけでもないし、おじいちゃんとおばあちゃん大変だろうからって言ってくれたじゃない」
「っ……は、ずかしいって」
先程までの仏頂面があっという間に崩れ、結人は頬をうっすら赤く染めぷいっとそっぽを向く。
「ふっ、ははっ」
「っ……!」
「あ、ごめん、つい可愛くて……あっ」
「……」
今度は声には出されなかったものの、結人の眉根がぎゅっと寄せられる。
「ごめんね。そういうつもりじゃないんだ」
「そういうつもり?」
「こらっ、あんたまたそういう口の聞き方してっ」
すかさず千代がばしんと孫の背中を叩いたので「まあまあ」と宥める。
「今のはただ微笑ましいなあって思っただけだから。……ってそんなこと聞きたくないよね。僕も何言ってんだろうな」
「もう謝らなくていいのよ、白崎さん。この子ちょっと気にしすぎなの」
「そうなんですか」
相変わらず結人の眉間には皺が寄ったままだったが千代に何か言おうとする様子はない。変に詮索されたくないのだろうか。それならば素直に気持ちだけ受け取っておいた方がいいだろう。
「なんだか僕のせいなのに申し訳ないのですが、これはありがたく頂戴しますね」
「ええ、どうぞうどうぞ。友晴さん甘いもの大好きですもんね」
「……はい」
いい年のおじさんが甘いもの好きなんて、と目の前の青年に思われるかなと思ったが、チーズケーキとバニラアイスを目の前にしてノーなんて言えやしない。笑われるかもとも思ったが、結人はぺこりと軽く会釈をするとそのまま去って行ってしまった。気にしすぎなのは僕の方かもしれないな。
友晴はもう一度千代に「いただきます」と告げて溶ける前にとバニラアイスに手を伸ばす。千代も「ごゆっくり」と引き返して行った。アイスに添えられたレモンライムをそっとケーキの皿によけて、またぼんやり考える。
いつでも温かく迎えてくれる二人。そんな祖父母を支えようとしている青年。
――本当はいい子なの。
言葉そのものより千代の嬉しそうな声音とやわらかな表情こそ結人が祖父母をいかに大事にしているかを表していた。
大切な人がいるというのはそれだけで幸せなことだ。四十年近く生きてきて友晴は何度となく感じることだが、ここにいるとより強くそう思う。
キッチン・小森に温かさを求めてやって来るのは友晴にとって自分だけでは到底叶わない夢や憧れがここにはあるからだ。
おいしいご飯とおいしいスフレチーズケーキ、そして小森夫婦の優しい笑顔。その温かさに触れながら、いつも心の奥底に閉じ込めておいた寂しさがうっかり顔を出しそうになる。
そうして物思いに耽りながら心の奥底にまた蓋をして、溶けかけのアイスクリームをそっと掬った。
バニラアイスは甘く口の中で溶ける。とても、とてもおいしかった。
キッチン・小森をあとにして、いつも通りスーパーに立ち寄り、いくつか食材を買ってから帰宅した。外食もするが基本的には自炊をしている。一人暮らしも長いので料理をすることには慣れているし、その方がたまの外食もよりおいしく感じる。今日は人参と豚肉が安かったから、家に残っているじゃがいもと合わせて肉じゃがにしよう。付け添えにほうれん草の御浸しでも作ろうかな、と考えているうちに自宅のアパートに着いた。
ドアを開け玄関の棚に置いてあるガラスの器にチャリンと音を立てて鍵を入れると部屋の奥からにゃーんと声が響いた。2DKの広めのキッチンに買い物袋を置いていると飼い猫が足に擦り寄ってきた。
「クロ、ただいま。ご飯にはまだ早いからおやつな」
返事をするようににゃーんとクロが鳴き、友晴がキッチンに戻るのにとてとてと着いてくる。キッチンの棚の隅っこに置いてある液状の猫用のおやつの封を切りクロに届くようにしゃがめばぺろぺろと赤い舌を出して舐めはじめた。
「おいしいか、よかったな」
よしよしと頭を撫でようとしたが、邪魔するなとでも言いたげに一度おやつから口を離し、もう一度舐めはじめる。
「はいはい、わかったよ」
それからはただ見つめるだけにしておやつを舐め終わるまでじっと待つ。クロはおやつがもうないとわかるとすっと去って行き、ソファの上にぴょんっと飛び乗ると毛づくろいを始めた。
クロを飼いはじめたのは五年ほど前の話だ。今の家に引っ越しを決めた時ペット可の物件だということを友人に話すと、それなら今里親を探している猫がいるんだと言われた。一人暮らしはもう寂しいな、と思っていた時だったのですぐに話を進めて譲り受けることになった。今ではクロは大事な家族で、唯一本当の自分を包み隠さずともに過ごすことのできる相手だ。
クロは毛づくろいを終えてソファの上ですやすやと眠っている。頭を何度か撫でてやってから夕飯の準備を始めた。
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