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心の中にある風景
その日は、朝からなんだかそわそわしていた。予定があったわけじゃないけど、何か特別なことが始まる予感がしていた。
だから、珍しくグレーのジャケットを着て出掛けた。学生時代に母が買ってくれたものだ。「合コンやパーティに着て行くものが無いと困るわよ。」って言っていたが、大学の頃は、残念ながらそういうイベントにはほとんで縁が無かった。
山手線に乗って、どこでも良かったんだけど、なんとなく有楽町で降りて、ぶらぶら歩いた。はじめは、映画でも観ようかと思っていたが、これは!というものが見つからず、お昼を食べたばかりでお腹も空いていない。そうだ、ウィンドーショッピングでもするか?
驚いたことに久しぶりに訪れると、この界隈は高級ブランドの旗艦店が明らかに増えていた。あれもいい、これもいいと目移りしてしまうくらい。まだ春なのに、ウィンドウは既に真夏の様相で、黄色や明るめの青、白やオレンジなどが鮮やかに飾り付けられている。いいなぁ、とは思うが、裏をめくると、フリーターの僕には到底手が出ないプライスタグが隠れているに違いない。
銀座通りに出ると、日曜日とあって、歩行者天国となっており、外国人観光客で溢れていた。
何処にいくのでもない僕は、いろんな表示や掲示物を眺めながら歩く。春の午後の日差しは柔らかで、幸い汗ばむほどの陽気ではなかった。フッと微風が吹いて、眼を下ろすと、そこに画廊のポスターが貼ってあり、何気なく見た。
うん?
それは、どこかで見た風景の絵だった。
小川があって、土手があって、その向こうに何軒か家が建っていて、背景には新緑色の林、そしてその向こうに青い山脈が見えていた。家がロッジ(山小屋)風でかわいい。窓には鉢植えの花の赤や青が見え、よく見ると、土手にも黄色い、たぶん菜の花が咲いていた。
一瞬にして、僕はその絵に魅せられていた。
僕は、惹きつけられるようにそのポスターを見つめていた。
それが10秒だったのか、あるいは、1分だったのか、まさか5分ということはないだろうが。通りを歩く女性のショルダーバッグが背中の右部分に軽く当たって、ハッと我に返った。
そうだ、このポスターで知らされている個展に行けば、この絵は見れるんだ!そんな簡単なことに気付くのにも時間がかかった。
アベ第3ビルって、ええっと...それは目の前にあるビルだった。エレベーターを待つことができず、5階まで階段を駆け上がる。息が切れる。
辿りついて、ドアノブに手を掛けた瞬間、動作が止まった。
「画廊」という文字が目に入って逡巡する。ここって、僕って、入って良いのだろうか?招待券無いけど。絵を買うお金も無いけど。どうしよう?
ドギマギしている姿を、ガラス窓から見つけた受付らしい女性が内側からドアを開け、「どうぞ。」って声を掛けてくれた。
はっ、はい。
おずおずと入っていくと、「初めて来られましたね。」とその女性は優しく対応してくれた。
あっ、はい。
「そこにお名前とメールアドレスか電話番号を書いてください。」
はっ、はい。全部言われたとおりにする僕。どうやら入ってよいらしい。
室内を見渡すと、何名か人がいて、落ち着いた大人の雰囲気が漂っている。僕は、場違いな感じを背負ったまま、奥にぎごちない足取りで進んで行く。芸大生なら、もっと堂々としているんだろうな、と思う。小説家志望のフリーターっていう立場は、カルチャーの世界ではかなり微妙な位置づけだ。
そんなことはどうでもいい。あの絵を見られればいいんだ。直ぐに追い出されたとしても。
そして、その絵は、右の壁のちょうど中央辺りに、いかにもメインの絵ですって感じで飾ってあった。
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