海の底が見えないように

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海の底が見えないように

つきあい始めた、友里と僕の二人。 彼女が言うには、デートに誘われて直ぐにOKしたのは、僕に「なんか断れない、絶対的で圧倒的な迫力があったの。」ということだった。それは、それは、必死だったのを今でも覚えている。これを外したら一生無いと思っていた。ちょっと大袈裟かもしれないが。 彼女は、いつも控え目で、でも、言うべきことはズバッと切り込んでくるタイプだった。僕が小説がなかなか書けない悩みを打ち明けたら、「お話が面白いんだから、書けるわよ。人に話すのやめて、文章にしておくの。それが溜まってきたら、一つに(つな)げて物語にしたらいいのよ。」と返された。なるほど。 彼女の素朴でピュアなところが大好きだったが、ときどき透明過ぎて見えなくなることがあった。僕には、いくつかの疑問があって、それとなく問い質そうとした時、言い(にく)そうに口籠(ごも)ることがあった。 例えば、若い駆け出しの画家なのにギャラリーで個展ができたのは、何かコンクールで賞を獲ったのか、あるいは、特別なコネクションがあるのか、その辺が謎だった。それについては、「ついていたの。」とか「オーナーさんが良い人だから。」とかしか答えてくれなかった。そして、沈黙と翳のある横顔。 また、例えば、友里はいつも少し疲れた感じで、元気無いけど、どうしたの?と訊くと、「時間を惜しんで製作活動をしているから。」と少し寂しそうに、無理した笑顔を見せるのだった。どうしてそんなに頑張るわけ?との質問に対しては、「できる時にやっとかなきゃね。」と力なく笑うばかり。そんな無理することないのに、と僕はずっと思っていた。 ただ、そうした謎によって、僕はますます彼女に惹かれるのだった。 彼女と午後のカフェテラスで、ああでもない、こうでもないと芸術論議を闘わせるのは、待ち遠しいくらいの楽しみだった。 何度もテーマになったのは、絵画と小説の違いについてで、僕の仮説は、小説は特効薬で絵画は漢方薬というものだった。小説は、言葉を使って人の心にズバズバ直接訴えかけるのに対して、絵画は、即効性はないものの、何度か見ているうちに、色や構図などを通じてジワジワ効能が現れるのだと。人は、病気が治れば特効薬のことを直ぐに忘れるが、漢方薬が効き出すと手放せなくなる。そういう美術が羨ましいと。 友里は、真剣な表情で、僕のヘンな自説を一生懸命に聞いていた。それで、僕が、絵画と小説の合体は何か?と尋ねたら、一瞬目が輝いて、「絵本ね!」と小さく叫んだ。 そう、一緒に絵本を創ろうよ。コラボしようぜ。 彼女は、その話になると決まって、「あなたのストーリーは直ぐに忘れ去られるけど、私が描いた絵は、あなたの心に沁み込んで、ずっと離れないのよ。」と悪戯(いたずら)っぽく微笑むのだった。 僕は、彼女の表情や仕草が好きだった。 テーブルの上に腕をハの字にして、その上に(あご)をのせて思案顔をしたり、丸い(ほお)に空気をいっぱい含んで怒ってるフリをしたり、カウンター席に飛び乗るようにして座り、子供のように(あし)をぶらんぶらんさせたりしたり。その一つ一つがとても愛おしく、直ぐにでも抱きしめたくなるような衝動を()えなければならなかった。 ところが、二人の仲は、次第に暗雲が立ち込めるようになった。 控えめな彼女は、多くを語らない。でも、僕は、彼女がイライラを内に秘めているような気がしてならなかった。 絵本のストーリーは、ほとんど書けてはいなかった。相変わらず文章が進まない。少し書いて消す。かなり書いても、書き直そうとして全部消す。そんな繰り返しを毎日していた。自分から言い出したことなのに。情けない。明日こそ書こう。そして、書こうとしたら、書けない。決意する、挫折する、ごまかす、言い訳する、逃げる、の悪循環にすっかり陥ってしまった。 彼女は、何も言わず、「早くして。」という目で見つめて来る。いや、僕がそう思っていただけかもしれないが。 そうするうちに、辛くなってきた。 友里、どうして君はそんなに急いでいるの? もう少し待ってくれ、頼む、明日は書ける、もうすぐ書ける。 絵本の話はほとんどしなかった。それを二人でなんとなく避けている雰囲気にも、僕は滅入っていた。彼女が我慢していると想像して、苦しんだ。 とうとう、僕は、絵本は無理だと思い始めていた。自分には才能が無い。自分は作家だと思いこんでやって来たが、それは勘違いではないかと疑い始めた。 彼女は大好きだった。でも、その悲し気な横顔が少し鬱陶(うっとお)しくなっていた。 調子の出ない僕の冗談とも皮肉ともつかない話が、宙に浮いて、二人の真ん中でふわふわ(もや)のように漂っていた。もうダメかもしれないな、なんて、勝手なことを思い始めていた。 8d566a98-6d0c-4031-a8d3-0806ccd1a8a2
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