朋美ちゃんは、くうきをよむ。

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「あいつ、なんかムカつかね?」 「あいつって誰よ」 「そんなん決まってんじゃん。あいつだよ、あいつ」  梨花(りか)は窓際、その一番前の席を指さす。  授業の合間の休み時間。聞こえよがしな大声と共に。  その声に反応したのか、指をさされたその子――聡子(さとこ)は首だけをこちらに向け、呆れたように小さくため息をついていた。  そしてそのまま前を向き、頬杖をついて、窓の外に目を向ける。 「ホント、感じ(わり)ぃよなぁ」  そりゃ、いきなり「ムカつく」なんて言葉を浴びせられたら、誰だって苛つくだろうに。感じだって悪くなるに決まってるだろうに。  梨花はどう反応してほしかったんだろうね。「ムカつくってなんだよー」って笑いながら、曖昧な冗談で流すような空気で応えてほしかったのかしらん。 「朋美(ともみ)もそう思うだろ?」 「あー、そうかなー?」  わたしは空気を読んで、否定とも肯定とも取れるような玉虫色の答えを返す。  それをいいように解釈した梨花が「だよな!」と聡子をさらに貶めるための切欠、そう、わたしの言質を得たことで顔に喜色を浮かべた。 「みんなもそう思うよな?」  わたしの机の周りに集まっていた数人の生徒が、その言葉でドッと沸く。「あの子、ちょっと成績良いからって調子乗ってるよね」「うち、授業中にスマホ使ってんのセンセにチクられたし」「それな。あーしも掃除当番ちょっとサボっただけなのに、チクられたわ」「優等生ぶってんじゃねぇっての」「空気くらい読んで欲しいよね。あたしたち、もう高2なんだからさ」悪の言の葉が舞い散る。  あはは、と梨花が笑う。あはははは、と周囲が嗤う。 「朋美もそう思う、だろ?」 「あー、そうかなー?」  わたしは口の端を少し釣り上げて、薄く笑った。空気が弛緩する。  だけどさ、みんなが言っている聡子への悪口さ。それ、聡子なんも悪くないじゃんよ。  成績が優秀なのは素敵なことだし、彼女はそんなことで調子に乗るようなタイプじゃない。むしろ自分を常に律して勉学に一所懸命、向上心のある子だ。それに、授業中スマホ使ってんのも、掃除サボんのも、それ悪いのあなたたちだからね? 彼女は曲がったことが大嫌いだから、それを反省してほしくて先生に告げたんだと思うよ。だって直接注意しても、あなたたちはそれを無視して聞く耳持たなかったじゃん。  はああぁぁ。  わたしは、聡子がついたさっきのため息よりも、更に深く息を吐いた。  空気が、緊張する。  わたしはゆっくりと席から立って「お、おい、朋美」梨花の声を無視して、窓際の聡子へと歩みを進めた。  わたしの机に集っていた子たちが、怯えたようにわたしの進路から退()いてゆく。そんな有象無象を尻目に、やがてわたしは聡子の目の前に立ち「なに見てるのかな?」軽やかに、爽やかに、彼女に声をかけた。  外に向いていた彼女の視線が、わたしに向けられる。訝しげに、そして少し怯えるように、彼女はわたしを上目遣いで見上げる。 「……別に、なにも見てないけど」 「だったらさ。わたしたちと駄弁ったりしようよ。一人で外見てるだけなんてつまんないでしょ」  教室内がざわつく。 「……別に、つまんなくないけど」 「えー、そんなこと言わないでよ。あ、さっきの梨花の『ムカつく』って言葉に怒ってたりする? あんなのただの冗談じゃん」 「……別に、怒ってないけど」 「別に別にって、もう。さ、わたしの席に行こっ。梨花にも謝らせるからさ」  そう言って聡子の手を取り、引っ張り上げ――ビクリと慄いたように身体を震わせた彼女が、わたしのその手を乱暴に振り払った。  「ひっ」誰かの短い悲鳴が教室内に響く。  彼女とわたしの視線がぶつかり合う。わたしは、顔面を蒼白にした彼女と、振り払われたまま宙に浮いた手を交互に見やる。  ふぅん。 「ごめんね、聡子。今のはちょっと空気読めなかったかな。強引すぎたね?」 「……べ、別に」 「別に別にって、もう。わたしも空気読むの苦手だしさ、聡子の気持ちもわかるよ? でも、みんなで仲良くしよ?」  わたしが再度誘うと、わたしが再度気遣うと、わたしが再度微笑むと、わたしが再度顔を寄せると、わたしがわたしがわたしがわたしが、 「仲良く、しよ?」  再度手を差し伸べると、彼女はぶるぶると震える腕を、その手を、わたしの手に重ねた。  なんだかその手はとても緊張していて、とても冷たくて。  でもわたしはその手を取って、彼女を連れ添って。  みんなの前に彼女と連れ立って。 「ねぇ、梨花」 「は、はい」 「謝って?」  梨花は瞳を上下左右に素早く動かすと、震えるその視線を一点に、聡子に向ける。 「さ、聡子。さっきは、ムカつくなんてこといって、ごめん、な」 「……べ、別に、気にしてない、から」 「そう、か。ご、ごめん」  わたしはパッと表情を花開かせる。  うんうん、そりゃそうだよね。突然、悪口なんて言われたら誰だって靄靄しちゃう。頭にきちゃう。でも、そんな二人はこれで仲直り。 「あは、ふたりとも、仲良くしよ?」  わたしは満面の笑みで二人を祝福する。 「あ、ああ」 「う、うん」  よかった。聡子は模範生なんだ。他生徒を先導するような立派な生徒なんだ。そんな子に嫉妬するように悪口を言うなんてちょっと違うんだ。  いくら、今が、一緒に楽しく悪口を言う時間だからって、そんなのはダメだと思うんだよ。  だから、 「ね、あいつムカつかない?」 「……え?」  梨花がわたしのその言葉に、唖然として声を漏らす。 「ほら、由紀子」 「あ、ああ! あいつ、空気読まないもんな!」  梨花が後ろを振り返り、聡子に顔と声を振る。 「そ、そうだ、ね」  聡子の視線がわたしを捉える。その瞳が揺れる。その瞳が恐怖に侵されてゆく。  あ、突然『ムカつく』なんて、空気読めなかったよね。そりゃ、そんな顔になっちゃうよね。  あはは、ちょっと間違っちゃった。  わたしはさっきの聡子と同じように、窓の外に目を向けた。  雲ひとつない蒼穹が広がっていた。とても暖かそうな日差しが降り注いでいた。  わたしの頭の中に日和見感染って言葉が浮かんだ。
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