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第2話 古堂光の苦悩
白草高校の前期期末考査は本日、終了した。
檻から解き放たれた動物のように生徒たちが昇降口から続々と姿を現す。試験の手応えのなさに絶望する者や友人との答え合わせに勤しむ者たち、はたまた間近に控えた夏休みの予定についての話に花を咲かせる者たちなど、その面持ちは様々だ。
そんな彼らをかき分けるように一際目立つ男子生徒が1人、大股で歩いていく。
格別背が高いわけではないが、プロレスラーばりに鍛え上げられた全身の筋肉が彼を実際より大きく見せていた。
いかついのは何も体格だけではない。
顔は波に削られた岩のように硬質感があり、目つきは鋭く三白眼。坊主頭に近いくらい短く切り揃えられた頭髪が一昔前の体育会系的な雰囲気を醸し出している。例えるなら不動明王を若干マイルドにした感じというのが的確だろう。
そんな彼の名は古堂光。およそ少年らしくない見て呉れだが、これでも若さ溢れる15歳である。
はあ、と古堂は顔に似合わず弱々しく溜め息を一つつく。陰鬱な気分に浸るのは試験の問題が解けなかったからではない。
入学からはや3ヵ月……。
古堂は入道雲が立ち上る空をぼんやりと見上げた。中学時代、学校中に悪名を轟かせていたことが遠い昔のことのように思えてくる。不意に思い出したのは、かつて拳で語り合った悪友の顔。千切れた雲の一片が、彼の顔に見えた。
「おい、お前!」
だみ声が古堂の耳朶を打つ。古堂は、“お前”というのが自分を指していることを理解するのに数秒を要した。声の聞こえた方に向き直ると、いかにも軽薄そうな男子生徒が3人、せせら笑いを浮かべてこちらを見ている。面識はないが、襟に付いた校章の色から彼らが3年生であることがわかった。
お前などという高圧的な呼び方に古堂はいささか腹が立ったが、なるべく顔に出さぬよう最大限の努力をした。
「何の用っすか? 先輩方」
低く、ドスの利いた声だった。普通に受け答えしただけなのにまるで極道の若頭のような渋みがある。
3人組のリーダーと思しき生徒がスラックスのポケットに両手を突っ込んだまま1歩前に出た。古堂には及ばないがなかなかの人相の悪さだ。
「まあまあ、そんな身構えんでええよ」
古堂は別に身構えたつもりはないのだが、反駁しないで黙っていた。
「初対面の後輩にこんなこと言うんもアレやけど、お金貸してくれへんか? 試験終わりにゲーセンでも行って羽伸ばしたいからのう」
「羽を伸ばしたいってお前、テスト勉強なんか全然してなかっただろ」
「ギャハハハハ!」
――なんだ、こいつらは。
勝手に盛り上がる上級生たちを無視して古堂は静かにその場を去ろうとした。ショートコントなら別の場所でやっていろ。
「いや、待てやお前」
突然リーダーが去り行く古堂のすねを思いきり蹴りつけた。
「なっ――」
その瞬間、古堂のスイッチが入ってしまった。
ドクン、と心臓が大きく鼓動し、捨てたはずのかつての人格が現在の自分を上書きしていくのを感じる。心の奥底で凪いでいた水面は瞬く間に煮えたぎる溶岩へと変わり、古堂の内界から外界へと噴出する寸前に至っている。
そんな古堂の心理状態などつゆ知らず、リーダーは苛立ちを露わに彼へと詰め寄った。
「どうも俺らをナメとるみたいやな。はよ出すもん出さんとブチ殺すぞ」
その恫喝が最後の一押しとなり、古堂は完全に自制不能に陥った。
「……殺されるのはてめぇの方っすよ、先輩」
独白するかのようにぼそりと呟くが早いか、古堂はリーダーのみぞおちを力任せに殴りつけた。苦悶の声を上げる暇も与えず頭を掴み、顔面に渾身の膝蹴り。鈍い音を伴って鮮血が乾いた校庭の砂を濡らす。
その間わずか零コンマ数秒。取り巻き2人は自分たちの親分の身に何が起きたのかにわかには理解できず、呆けたように立ち尽くしていた。
「ぐあああああ!」
己の血を見て恐慌をきたしたのか、時間差でリーダーが絶叫する。が、古堂は止まらない。くずおれた状態の彼の襟首を掴み、そのままフォークリフトのように垂直に高く持ち上げてしまった。
「おらよっ!」
古堂に力強く放り投げられたリーダーは、もんどり打って地面に叩きつけられ、低く呻いた。固まっていた取り巻き2人はそこでようやく我に返り自分たちの親分を見捨てて逃げ出そうとするが、
「カツアゲのターゲットにあえて俺みたいなのを選んだのは褒めてやりますよ。ただ、自分たちから喧嘩売っておいて分が悪くなったら謝罪もなしにトンズラってのはいただけねぇですわ」
古堂に首根っこをがっしり掴まれ、宙吊りにされる。両足をバタつかせて必死に抵抗するが、虚しく空を切るのみだ。
「2人仲良くキスでもしとけ」
古堂は不敵に笑うとシンバルのように彼らを互いに勢いよく打ち合わせた。ぐったりと項垂れた2人を無造作に投げ捨てると、再びリーダーに視線を戻す。
「ひいっ!」
その鼻血まみれの顔には古堂に対する恐怖心が明確に表れていた。腰が抜けて立ち上がることすらままならず、尻と掌を使って全力で後ずさっていく。
「すまんかった。もうお前にちょっかい出さへんから見逃してくれー」
半ベソかいて許しを請うリーダー。それでも古堂は止まらない。牙を剥き出しにした肉食動物のようにじわりじわりと彼との距離を詰めていく。
危険な空気を察知したのか、周りにはいつの間にか他の生徒たちが続々と集まってどよめきを湧かせていた。仲裁役のなすりつけ合いや教師を呼んで来いと促す者はあれど、自ら止めに入る者はいなかった。ただ1人を除いては。
「やめなさい、古堂くん!」
その声と同時に古堂は背後から右腕を掴まれた。瞬間、それまで己を支配していた攻撃的な感情が嘘のように抜けていく。振り向くと、両腕でしがみつくように自分を制止しようとしているおさげ髪の女子生徒がいた。古堂と同じクラスの委員長、藤宮夏未だ。野暮ったい丸眼鏡越しの澄んだ瞳が厳然と古堂を捉えている。
背丈は女子生徒の中では高い方で、体型は痩せすぎでもなく、太ってもいない。派手なメイクやスカートを短くするといった校則違反とは全くの無縁で、教師連中からは模範生徒ともてはやされる存在。それ故に生徒の中には彼女を快く思わない者たちもいるようだが、古堂は彼女が好きでも嫌いでもなかった。
――また、やっちまったか。
正気に戻り、いきなり周囲の向ける視線に耐えられなくなった古堂は、一刻も早くこの場から立ち去りたくてたまらなくなった。藤宮を振りほどき、何事もなかったかのように正門へと向かって歩き出す。
そして、再び青空を見上げて溜め息一つ。
陰鬱な気分に浸るのは期末試験の問題が解けなかったからではない。
高校入学を機に不良から足を洗ってちゃんとした友だちを作ろう――その決意をこうしたいざこざの連続でまったく守れていない己の愚かさに嫌気が差しているのだ。
悪友の顔に見えた雲は、古堂を嘲って笑っているようだった。
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