臆病者の努力

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家族も寝静まった深夜、タクミは、机の上の冷めたインスタントコーヒーを流し込んだ。 クリープの乳臭い香りが鼻の奥に残る。 そして、「絶対に負けない。」。 そう力強く、自分のこころの苦しみを吐き出すように言った。 タクミは、同級生の慎二より、1ランク上の大学の同じ法学部の受験を争っていた。 いや、争っていたというのは、少しばかり違う。 争っている相手の慎二は、タクミが慎二に対抗して、1ランク上の大学の同じ学部を受験しているなんて、そんなこと思ってもいないのである。 しかし、タクミは、慎二に負けるわけにはいかなかった。 いや、負けたくなかった。 その理由は、タクミ自身、冷静になって考えれば、無意味なことぐらい解っている。 でも、他に方法が思いつかなかったのだ。 タクミと、慎二と、そして怜子は、中学時代からの同級生だった。 いつも、一緒に遊んでいた。 仲の良い友達だったのだ。 そんな友達同士の付き合いの中で、次第にタクミは、怜子に惹かれていった。 クラスの中でも、活発で利発な女の子なのだが、でも、みんなの注目を集めるほどの存在ではない。 でも、時おり見せる、目尻を下げて笑う顔が、どうにも堪らなく可愛いと思う。 気が付いたら、タクミの心の中のほとんどの領域が、怜子への思いに満ちていたのである。 あれは、高校に入ったばかりのころだったか、タクミが慎二に打ち明けたことがある。 「そうか、タクミ、怜子が好きなんだな。じゃ、俺、応援するよ。」 「うん、ありがとう。慎二は、怜子のこと、どう思ってるの。」 「怜子?いや、何とも思ってないよ。ただの友達だよ。それに、ここだけの話だけれどさ、あ、絶対に怜子に言わないでよ。俺、怜子みたいな子、タイプじゃないんだよ。まあ、友達だから、一緒に遊んでるけど、タイプじゃないなあ。」 その時のことは、今でも鮮明に覚えている。 しかし、内気なタクミは、結局、怜子に、好きだという言葉を掛けることが出来ずにいた。 玲子に告白するのが、正直怖いという気持ちもあった。 でも、それよりも、もし怜子に打ち明けて、怜子がタクミを、嫌いではないにしても、全く、付き合うとか、そんな恋愛感情を持ってなかったら、その時、いや、その時から後の時間、どうなるのかと考えたら、それが怖くて言い出せなかったのである。 告白しなければ、フラれることも無い。 フラれることがなければ、タクミは、いつも怜子の、あの目尻の性った笑顔を見ていることができる。 フラれなかったら、昨日のテレビドラマのストーリーで、一緒に大笑いすることも出来る。 フラれなければ、怜子の傍にいられるということが、何よりタクミにとって重要だった。 そう思ったら、今の状態より、怜子との関係が希薄になることは、耐えられないと思ったのだ。 「このままでいいんだ。」 そう、タクミは、自分自身に言い聞かせて、毎日、怜子に合う事を楽しみにしていたのである。 そんなときに、タクミは、耳を疑いたくなる話を聞いた。 怜子と慎二が付き合っているという噂だ。 「慎二は、怜子がタイプじゃないっていってたじゃないか。」 そう何度も、呟きながら、3日ほど過ごしたけれども、どうしても耐えられなくなって、慎二に聞いた。 すると、慎二は言ったのである。 「ああ、タクミにも言おうと思ってたんだけれど、実は、最近、付き合いだしたんだ。」 「え、やっぱり。でも、怜子の事、タイプじゃないって言ってたじゃない。」 「あ、そんなこと言ってたかな。」 「え、忘れたの。1年の時に、間違いなく言ってたよ。」 「そういえば、そうだったかな。だって、2年前のことだろ。忘れてるよ。でも、まあ、タイプではないんだよな。でもさ、怜子に告白されて、まあ、付き合ってもいいかなと思ってさ。オッケーしたんだけどさ。」 それを聞いたタクミは、慎二に掴みかかって殴ってやろうかと思った。 思ったが、出来なかった。 冷静に考えると、慎二は、そこまで悪くはないのかもしれない。 好きになって、告白したのは、怜子の方だ。 とはいうものの、そこまで好きでもないのに、怜子に告白されたからって、それで付き合うだろうか。 「そんなことしたら、怜子が可哀想だよ。」 帰り道、タクミは、ぼそりと呟いた。 怜子だって、慎二に愛されたいに違いない。 それを、付き合うことをオッケーしたら、怜子も愛されていると思うに違いないじゃないか。 でも、実際は、慎二は、怜子が思うほど、怜子を愛してはいない。 しかし、慎二が許せない。 好きでもないのに、付き合うなんて。 いや、もし僕が他の女の子から告白されていたら、果たして、付き合うだろうかとタクミは考えてみた。 いや、怜子がいるのに付き合うはずはない。 でも、もし、その時に好きな子がいなければ、どうだったのか。 或いは、付き合ってしまうのかもしれない。 それなら、慎二と同じじゃないかと、タクミは、自問自答していた。 もし、高1の時に、勇気を出して、怜子に告白していたら、付き合うことが出来ていたのだろうか。 タクミは、2年前のことを後悔していた。 いや、でも、告白なんて、無理だったんだ。 タクミは、何度も何度も、その時の事を、思いだしていた。 そんなことがあって、タクミは、慎二に対して、密かに敵対心を持つようになっていた。 もちろん、それを慎二は知らない。 1クラス上の大学の同じ学部を受験しようと考えたのも、自分は、慎二よりも優秀なんだと、怜子に見せつけてやりたかったからだ。 それぐらいしか、怜子に自分をアピールできるものがなかった。 それ以来、タクミは、毎日毎日、受験勉強に明け暮れた。 タクミは、そこまで優秀な頭脳の持ち主ではない。 でも、子供のころから、努力だけは、人一倍惜しまずにやってきた。 努力することが、結果を残せる、タクミが唯一誇ることのできるものだったのである。 「よし、あと英単語50覚えるぞ。目標まで、もう少しだ。」 机の前に向かって、頬っぺたを両手でパチンと叩いて気合を入れる。 計画では、何とか考えている大学に入ることができるだろう。 遠くでパトカーなのか救急車なのか、サイレンが聞こえている。 こんな夜中の3時に、何か事件なのかな、病気の発作なのかな、どっちにしたって、大変だ。 サイレンが聞こえなくなって、また夜の静けさが、部屋の中にまで入りこんできた。 ただ、何となく、遠くで光っていただろうサイレンの赤い色だけが、タクミの遠い空間に飛んだ意識の中で、まだ赤々と灯っていた。 それから2日ほど経って、タクミと怜子は、学校の帰り道、マクドナルドでコーラーを飲んでいた。 「受験勉強、頑張ってる?」 「ああ、努力だけはしてるよ。」 そうタクミは、何気なく答えた。 すると、怜子は、プッと吹き出して、目を丸くしてタクミを見た。 「努力、、、。努力してんだ。」何となく、馬鹿にしたような口調で言った。 「してるよ。僕なりにね。だって、努力しなけりゃ、大学合格できないでしょ。」 「うーん。そうかな。」 「え、ちょっと待って、そうかなって。努力は、大切でしょ。努力しなきゃ、何もできないよ。」 そう言ったら、ビックリするぐらい、きっぱりと怜子がタクミに反論した。 「あたし、努力って言葉、嫌い。」 「嫌いって、でも必要でしょ。」 すると、5秒ほど考えた様子だったが、タクミに反論した。 「努力って、何かを達成するためにするんでしょ。でも、努力しないで、目的を達成出来たら、そっちの方が、良くない?人間、そっちを目指すべきでしょ。」 怜子は、珍しく真剣だ。 そして、話を続けた。 「っていうか、嫌いなのよ。努力するってことが。いや、嫌いというより、努力って、汚らしいわよ。卑怯って言うか、そんなものだと思うの。」 「努力が、卑怯って、どういうことなの。」 「だってさ。努力するって、何かを達成するためにするってことなのよね。でも、それをしょうと思ったらさ、目標を立てる訳じゃない。それが、卑怯なのよ。たとえばね。」 そういって、怜子は、コーラーを少し飲んで、話を続ける。 「たとえばよ。陸上部に入りましたー。それでもって、コーチに目標を立てろって言われるとするでしょ。でも、そこで、僕は、100メーター6秒で走りますっていう目標を立てたら、コーチに怒られるでしょ。そんな冗談言うなって。それでさ、100メーター30秒で走りますっていったら、また怒られるでしょ。詰まりね、目標を立てるときにね、ちょうどいいぐらいの目標を立てなきゃいけないのよ。それでさ、その目標って言うのがね、他人の評価を前提にしているの。解る?自分の走りたいタイムじゃないの。他の人が判断して、ああ、それならちょうどいいなってぐらいの目標を立てなきゃいけないの。これって、卑怯じゃない?」 タクミは、納得がいかなくて、唇を尖らせて、首をひねった。 怜子の説明は、まだ続いていた。 「もしも今さあ、100メーター13秒で走ってたらさ、12秒50で走りますとかね。そんなこと人の目を気にして目標立てなきゃいけないのよ。それもさ、すぐ達成できるような目標じゃダメなの。そうね、半年とか1年で達成できるぐらいに、立てるのね。それで、1年練習して、達成出来たら『やったー。』なんてね、喜んでる。あたし、馬鹿じゃないのって思うのよね。」 怜子は、持論を得意そうにタクミに話した。 タクミは、話を聞いていて、自分を非難されているようで悲しかった。 「じゃ、とんでもない目標を立てたらいいの?それじゃ、目標達成なんて、出来ないよ。」 「もう、タクミは、本当に頭が固いよね。あのねえ、目標は立てたらいいよ。でも、100メーター6秒で走りたかったら、素直に、6秒で走りますって目標を立てればいいのよ。他の人に何て言われようとね。努力より大切なものはね、自分が、何をしたいかってことなのよ。そのしたいことを一所懸命している姿が、ひょっとしたら、他人が見たら努力してるって見えるかもしれないわよ。でも、努力してるって見えなくってもいいの。簡単に出来ちゃってもいいよの。大切なのはね、ね、自分が何をしたいかってこと。発想の元は自分なの。ねえ、解る?」 怜子は、言った後に、目をキラキラと輝かせて笑った。 その笑いは、タクミが、こころを奪われた、あの目尻を下げた無防備な笑顔でなくて、自分自身の考えを、タクミに言い聞かせたことが嬉しいと言う、自己満足の笑い顔に見えた。 「ふーん。そうかもね。そうだね。そう言われれば、努力は卑怯かもね。」 その場の雰囲気を、そして、怜子の得意そうな満足感を、壊したくなくて、意に反して同意した。 タクミは、悲しかった。 タクミは、今まで、努力だけが、唯一、貴いものだと信じてやってきた。 でも、怜子は、それを全否定している。 それは、自分自身を否定されていることと同じだった。 いや、それよりも、タクミを落ち込ませたことがある。 今、怜子が、自慢げに話している内容は、実は、数か月前に慎二が言っていた話と同じだったからだ。 そんなことからも、怜子と慎二が付き合っているということが感じられて、タクミだけが、部外者のような気になって、寂しかった。 今すぐにでも、目の前にいる怜子に、自分の気持ちを伝えたかった。 「慎二よりも、僕の方が、ずっと怜子を愛している。」と。 しかし、今のタイミングじゃない。 そうタクミは、自分に言い訳をして、告白しなかった。 しかし、僕が、慎二より上の大学に行ったなら、怜子も、僕の努力を認めてくれるに違いない。 そうタクミは、信じようと思った。 恋愛に疎いタクミは、それぐらいしか考えられなかったのである。 それにしても、怜子は、僕が怜子を好きだと思っていることに気が付いていないのだろうか。 目の前の怜子を見ると、さっきの努力の話は忘れて、屈託の無さそうに、昨日のテレビドラマの話をしている。 「ねえ、聞いているの?」 片手にコーラーを持ちながら、タクミの肩をポンと叩いた。 その一瞬の怜子の指の感触が、肩に残っている。 ああ、この感触が、永遠に消えなければいいのに。 タクミは、怜子の目尻の下げた笑顔を見ながら、声に出さずに呟いた。 それから半年。 受験のシーズンがやって来た。 そこで、タクミが予想しなかったことが起こる。 慎二が、タクミと同じ大学に、志望を変えてきたのだ。 「いや、折角だから、タクミと同じ大学に行った方が、楽しいかなと思ってさ。」 なんて、言いだしたのだ。 ただ、それを聞いて、「ふん。どうせ、慎二には、僕の受ける大学は無理だよ。」なんて、内心思っていた。 なのだが、実際に蓋を開けてみると、タクミも、慎二も、同じ大学に合格したのだ。 タクミは、悔しかった。 慎二より優秀であることを、怜子に見せるために、慎二より1ランク上の大学に受験したのに、慎二も、同じ大学に、しかも、合格してしまった。 合格発表を見て、「お前、あれから、かなり努力したんだろう。前に志望してた大学より上の大学だもんな。」と言うと、慎二は、「いや、努力なんてしてないよ。ただ、過去問を少しやってみて、大体の傾向をつかんだからね。そこだけ、ちょっと覚えてたからさ。俺って、要領いいのかな。」と言いやがったのだ。 タクミは、自分の努力してきた時間が、悲しかった。 3日後、タクミは、怜子と会った。 「慎二も合格して良かったね。」 「うん。でも、慎二、大学行かないって言ってたよ。大学より、世界を歩き回ってみたいんだって。だから、来月から、バックパッカーみたいに世界を回るっていってたよ。あたしも、一緒に行こうかなと思ってるの。」 それからの会話は、よく覚えていない。 ただ、タクミは、慎二に負けたと思った。 怜子と別れて、歩いていた。 このままでいいんだろうか。 タクミは、どうしようもない胸のつかえを感じながら、歩いていた。 いや、いいはずがない。 怜子は、まだ僕が怜子を好きだってことを知らない。 たとえ、どうなっても、それだけは伝えるべきだ。 慎二との戦いも負けて、怜子にも努力を否定されて、これじゃ、自分の存在に意味がなくなってしまう。 タクミは、気が付いたら、怜子の家に向かって走っていた。 息が切れる。 でも、止まれなかった。 怜子の家の前に着いた。 でも、チャイムを押す勇気がない。 いや、今日だけは、どんな小さな勇気しかなくても、自分を鼓舞してチャイムを押して、告白するべきだ。 しかし、タクミは、怜子の門の前で考えていた。 怜子は、慎二が好きだ。 ということは、タクミがいくら告白したところで、怜子が自分を好きになるとか、慎二と別れるとか、そんな展開になることはない。 いや、それどころか、怜子はタクミを意識するようになって、かえって、距離を置こうとするのではないだろうか。 そうなったら、タクミがいつもウットリと見ている怜子の目尻の下げた笑顔も見ることが出来なくなってしまう。 或いは、マクドナルドでコーラーを飲みながら、昨日のテレビドラマの話で大笑いするなんてことも出来なくなるだろう。 いや、自分のことは、さておき。 タクミが怜子を好きだということを知ったら、慎二と付き合うのも、タクミに隠れてするようになるのかもしれない。 そうなったら、無駄な気遣いを怜子にさせてしまうことになるだろう。 或いは、タクミと会うのも、会いづらくなるかもしれない。 自分が告白することは、怜子に、迷惑をかけることになるだろう。 怜子には、心配とか、気遣いとか、遠慮なんか、して欲しくない。 今までの様に、明るくいてほしいのだ。 そうだ、僕は、怜子に告白しちゃいけないんだ。 告白するっていうのは、僕のエゴなんだ。 ただ、僕が、告白したいだけなんだ。 それで、僕は諦めが付くかもしれないが、告白された怜子は、これからの付き合い方に悩むだろう。 そうタクミは、自分に言い聞かせて、こころのタクミが、「ああ、そうだね。告白はしない方が、怜子の為だね。」と呟いたときに、家の門の前をUターンして、もとの道に引き返した。 人は、努力をしないでも目的を達成できる人がいる。 そして、努力して、ようやく目的を達成できるか、或いは、達成もできない人もいる。 前者は慎二で、後者はタクミだった。 誰かに愛される人がいる。 誰にも愛されない人がいる。 前者は慎二で、後者はタクミだった。 その二人の、どっちが幸せで、どっちが不幸かは、明らかに決まっている。 世の中には、愛している人と付き合ってるんだけれど、その相手からは、それほど愛されてはいない人がいる。 それが、怜子だろう。 そう考えると、怜子は幸せなのだろうか。 タクミは、怜子の事が、可哀想に思えて仕方がなくなってきていた。 怜子は、どうやったら、幸せになるのだろう。 怜子を幸せに出来るのは、タクミでもなく、慎二でもない。 それは、間違いないように思えていた。 帰り道、空を見上げると満月だ。 「怜子さんを、幸せにしてください。」 そっと手を合わせた。 そして、思いだしたように呟いた。 「あ、俺、本当に、大学の法学部に行きたかったんだろうか。」 もう、何をしたいか分からなくなっていた。 「そうだ、世界旅行でもしてみるかな。」 そう言った後に、自分でも可笑しくなってきて、「また、負けたな。」と言って、力なく笑った。
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