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月の光の下であなたと出会う・4
「今夜は月が見えませんね」
「……うん。でも、月は消えたわけじゃないもんね」
目と鼻を真っ赤にして、水元さんが言う。
「常に地球と同じように宇宙を回ってるんですよね。ずっと近くにいるんだから、きっと月も地球のことを気にしてるんじゃないですか?」
「そうかな」
「一人じゃないって気づいたら、月もきっと寂しくないですよ」
「そうね……そうよね。私、サクライさんに告白する。荷物もまとめなきゃ」
「え?」
「ダメだったら、引っ越さなきゃならないでしょう。そのときは近江さんの近くに住むことにするから、よろしくね」
頬を紅潮させている水元さんがなんだか子どもみたいで、地球の未来は明るいな、と考えてしまった。
四
次の講座の日、私たちはやっぱりテキストの片づけを手伝っていた。
「ありがとうございます、水元さん、近江さん。実は先週、北さんに言われたのですが」
ブラウンさんが、集めたテキストを抱えたまま眉をひそめる。北さんとは、宿直のおじさんの名前だ。
「S町方面にヘンシツシャが出るそうです。先週逮捕されたと聞いたのですが、まだ目撃情報があるようです。警察でパトロールを強化すると言ってましたが、帰り道気をつけて下さい」
「そうなんだ、物騒ね。方向は逆だけど、近江さんの家のほうは裏通りだから、気をつけてね」
「多分、私なんか狙わないと思いますけど」
私が笑いながら言うと、ブラウンさんはきょとんとした顔つきに変わった。
「どういう意味ですか?」
「ヘンシツシャって、女性とか子どもたちを狙うんですよね? それなら、水元さんが注意しないと」
「近江さんも女性じゃないですか」
「え? まぁ、そうですけど……」
私は髪も短いし身長もそこそこあるので、ぱっと見は性別不明。男性に間違えられることもしばしばあった。
「はーい、近江さんの負け~。とにかく、気をつけようってことね」
水元さんは、けらけらと笑っている。なんだかバツが悪くて、私はブラウンさんと挨拶を交わしてからすぐに公民館を出た。
「待って、近江さん!」
唇を尖らせながら空を見る。今夜は月がきれいだった。
「わぁ、きれいね」
「そうですね」
「私、明日言おうかと思ってるんだ。だから、夜は予定入れないでおいて欲しいの。朝まで飲むことになるから、付き添いお願いね」
「もしオッケーだったら?」
「その確率は……一パーセントくらいかな?」
「それだけあれば十分ですよ」
「近江さんの向かいのアパートも、空室があるみたいだから大丈夫」
「本当に荷物まとめたんですか?」
「うん、まとめたよ。いつでも出られるように。ほとぼりが冷めたら戻るつもり。戻って、生涯独身を貫くの」
「私にも水元さんのような決断力があればなぁ……」
ふいに自分が情けなく思えてきて、私は下を向いた。コンクリートには、Wの形のひび割れがある。病気になってからというもの、心がずっとこんな風にひび割れているように感じていた。
だから、誰とも仲良くなれないし、人を好きになってはいけない。私と一緒にいたら、きっと相手の心も同じように壊れてしまう。
遠くからパトカーのサイレンの音が響いてきて、私の独り言を消し去った。
「ごめん、何か言った?」
「なんでもないです」
水元さんと別れて裏通りに出ると、どうしてもヘンシツシャのことが思い出されてしまう。もともと街灯が少ない道なのに、途中で消えている一本を発見してしまった。
「ちゃんと管理して欲しいわ」
小さく呟いてみるが、辺りの静けさは変わらない。住宅街から離れているため、家の灯りもなかった。
家まで五十メートルという場所まできたとき、遠くから誰かの足音が聞こえた。しかも、靴音はどんどん迫ってきているように感じる。振り返ると、背の高い人影が視界に入った。
心臓がどくどくと脈打つ。逃げたいのに、足が動かない。接着剤でコンクリートにくっつけられたみたいだ。
その間にも、人影は大きくなって行く。
助けを求めようと口を開けるが、声が出ない。ヘンシツシャは私を女性だと見なしているのだろうか。万が一、そうだとしたら……。
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