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月の光の下であなたと出会う・5
「近江さん!」
名前を呼ばれたことに気がついたのは、その人影がすぐ目の前にきてからだった。
「大丈夫ですか?」
何度も瞬きを繰り返して、この出来事が現実かどうか確かめる。
「北さんから連絡がありました。ヘンシツシャは逮捕されました。さっきサイレンの音が聞こえたでしょう? もう大丈夫です」
ブラウンさんが、私に向かって微笑んでいた。
「近江さん?」
全身の力が抜けて行くのを感じる。軽いめまいがして、右足を踏み出した。よろけた私を受け止めるように、ブラウンさんが手を差し伸べている。
「泣かないで下さい。もう心配いりませんから」
「違うんです……」
優しい言葉が胸にしみて、涙が止まらない。私はすがるようにブラウンさんの腕を取った。
「私、好きな人がいます」
「はい、知っています」
「ブラウンさんも好きな人がいるんですよね?」
「はい」
「どうしてここへきたんですか?」
「水元さんが言っていたからです。近江さんが一人になるから危ないと」
「それでわざわざ?」
「はい」
ブラウンさんが、私の頬に手を伸ばす。
「今夜は月がきれいですね」
そう囁くと、涙を拭ってくれた。私の目は、月と同じように丸くなっていたかもしれない。
「近江さんは、どう訳しましたか?」
「私は……」
続きを言うのが怖くて、ついためらってしまう。
「私は病気なんです。一生治らないかもしれないし、それに仕事も……」
「知っています」
「じゃあ、どうして……」
「理由はありません。そこにあなたがいるから」
私は観念することに決めた。
「じゃあ私はこう訳します。『あなたが私の生きる意味です』」
そう告げると、ブラウンさんは私を抱きしめた。
五
次の日の午後、私は水元さんからの電話を待っていた。昨日のことを報告しなければならないし、何より告白の行方が気になって仕方がない。
二つ折りの携帯電話が鳴ったのは、おやつの時間を過ぎたあたりだった。
「もしもし」
「あ、近江さん? 私だけど」
水元さんの声は、少しくぐもっている。私は直感で、
「うまく行ったんですね?」
と尋ねてみた。
「どうしてわかるの?」
「そこにサクライさんもいるんですよね。だから、声を抑えてるんでしょう?」
「だてに推理小説読んでるわけじゃないのね。水元さん、降参です」
冗談めかして言う水元さんに思わず微笑む。
「だから、今日の夜はうきうきしながら走ってきてね」
「あれ、デートじゃないんですか?」
「デートは明日よ」
「そうでしたか。じゃあ、うきうきしながら行きます」
「ブラウンさん、追いかけてきたでしょう?」
「え?」
「そして告白されたでしょう?」
「何故それを……」
「ふふふ、私がけしかけたからだよ。ブラウンさんね、近江さんに一目ぼれだったんだって。でも、近江さんの気持ちが見えなくて、なかなかアプローチできなかったの」
それは昨日、ブラウンさんから直接聞いていた。肌寒い日だというのに、なんだか暑い。
「近江さんの病気のこと、ブラウンさんは知ってたよ。でも、そんなことは関係ないってはっきり言ったから。だから、色々教えちゃった」
「個人情報保護法に抵触しません?」
「してるわね、完全に」
「近江さん、降参です」
私がそう切り返すと、水元さんが笑った。
「今度、四人で食事でもしましょうか。サクライさんに紹介するから」
「え、それはまた……なかなか難易度が高いですね」
「ウチに集まるっていうのはどう? 私が何か作るから」
「それなら、なんとかなるかもしれません」
「あ、そうだ、私ね。『I LOVE YOU』を『月はいつも私のそばにいます』って訳すことにしたの」
あまりにも水元さんらしい言葉に、今度は私が笑ってしまう番だった。
了
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