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月の光の下であなたと出会う
一
水元さんは、恋をしている。
本人から直接聞いたわけではないし、うっとりと好きな人を見つめているところに遭遇したわけでもない。だが、私はなんとなくそう思うのだ。
水元さんとはかれこれ二年ほどのつき合いになるけれど、一度も年齢を聞いたことはなかった。おそらく四十代の後半くらいだと推測している。若者のような話し方と品のある立ち居振る舞いがちぐはぐであるため、本当のところはわからない。
今更「いくつですか」と聞くわけにも行かないので、そこは推理するしかないのだ。
公民館で開かれている英会話教室は、今日も人がまばらだった。講師はアメリカ出身のブラウンさんだ。水元さんと私は、指定席である中央の一番前に二人で陣取っている。
「かの文豪は『I LOVE YOU』を『月がきれいですね』と訳しました。皆さんならどう訳しますか?」
書き取り用のノートに「I LOVE YOUを翻訳」と筆記した。ブラウンさんがこちらを見たような気がしたけれど、きっと勘違いだろう。
「どうして人は、後ろの席に座りたがるんだろうねぇ」
講座が終了し、教室からブラウンさんが出て行くと、水元さんが話しかけてきた。
「学生時代の名残でしょうか。席替えでも後ろの席は人気でしたし」
「でもさ、ここにきてる人は自由意志じゃん? イヤならやめられるのにねぇ。前のほうがじっくり勉強できていいと思うけど」
「そうなんですよね。皆あまり必死さがないというか……」
「ねぇ。私なんか、旅行するために必死で受けてるのに」
左目を瞑りながら、水元さんが言う。それは「うらやましいよねぇ」という仕草だった。
「私も結構必死ですけどね」
「全身全霊で習え! とは言わないけどさぁ、せめて講座中にゲームするのはやめて欲しいわ。ブラウンさんの声、聞こえないし」
「聞き取りのときの私語も控えてもらえたら嬉しいですね」
「だよねぇ。熱量がちょっと違うんだね、私たちと他の人たち」
「そうかもしれません」
テキストを群青色のトートバッグにしまい込むと、水元さんが立ち上がった。
「近江さん、明日ヒマ?」
「はい、ヒマです」
「お昼、パスタでも食べに行かない? ちょっと臨時収入があったから、私のおごりで」
「いいんですか?」
「おうよ。じゃあ、十二時に駅前の広場前で落ち合おう」
水元さんは左手で一を右手で二を作り、満面の笑みを浮かべた。
二
次の日。水元さんは白いワンピース姿でやってきた。いつもはジーンズにシャツという軽装なので、少々意外だった。
「こんにちは。早いね、近江さん」
「図書館に行ってきました」
「ああ、だからリュック? 安孫子さんの新刊入ってた?」
「まだ貸し出し中でした」
「うわ、重そうだな。何冊借りたの?」
「八冊です」
「そのうち、読む本なくなっちゃうんじゃない?」
「大丈夫です、その分ちゃんと新刊が入りますから」
水元さんがふふふ、と笑ったところで私たちは歩き出した。駅からまっすぐに伸びる道を二角進み、右へ曲がる。
「最近、調子良さそうだね」
「はい」
私は今、無職だ。一年ほど床に伏していたこともあり、町内の人たちからは色々な噂を立てられている。田舎特有のものなので仕方がないといえばそれまでなのだが、だいたいが悪意に満ちているものだった。
「あそこの店だよ。平日だから、そんなに混んでないと思う」
休職してからというもの、友人たちとは疎遠になってしまっている。だから、こうして話を聞いてくれる存在は、本当にありがたい。
「いらっしゃい」
その店は一見民家と変わりないたたずまいをしており、生まれてからずっとこの町に住んでいる私でも素通りしてしまうくらいだ。看板もなく駐車場もない。幹線道路ではない裏通りに面しているので、隠れ家のような場所なのだろう。
「ここはサクライさんの娘さんに教えてもらったの」
水元さんが二人がけの席につきながら言う。
「ナポリタンがおすすめらしいよ」
私たちはナポリタンとサラダのセットを注文した。平日の昼間なので、人が少ない。私が人混みに出るのを極端に嫌うことを、水元さんは知っている。
「ありがとうございます、水元さん」
「何が?」
「えーと、色々全部です」
「ふふふ、変な近江さん」
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